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わがふるさとと愛媛学Ⅶ ~平成11年度 愛媛学セミナー集録~

◇探しに行こう、城辺再発見

 さて、この問題を考察するとき、わたしは、各年齢層の意見を考慮する必要があると考えます。まず、明治末から大正初めに生まれた方々の意見を紹介いたしますと、不老台地にある城跡を「不老本陣」と呼んでおります。なぜそのように呼ぶのだろうかと調べてみますと、昭和12年(1937年)に書かれた『南宇和郡史』の中に本陣という言葉を使っているのです。この本陣は、「風呂ノ谷城」とか「風呂の砦(とりで)」と言われた場所を拠点として、そこから約400m北西の地点に、一夜のうちに造られたと言われ、そこでこれが「一夜城」と言い伝えられるようになったのだと大正初期にお生まれの方々は説明されます。
 ところが、大正10年(1921年)前後に生まれた方にうかがうと、一夜城は下長野台地にあったと教えられたと言われる。昭和3年(1928年)生まれの方にうかがっても同様で、下長野台地は自分たちが「城山」とか「しろんど」と言ったり、お節句のときに出掛けていた場所だとおっしゃる。しかし、昭和6年生まれの方は、一夜城は不老台地にあったと教えられ、その続きにあった学校林にも行ったと自信を持たれています。
 このように、現地の方に聞き取り調査をしてみますと、一夜城の所在地については2説が存在しております。『土佐軍記』や『土佐物語』などの物語については、虚構と現実が混在しているので、記述のどこまでが真実であるかが不明であるとして、一般的には史料価値を低く評価する傾向にあります。しかし、記述の内容と現地調査の結果とが符合するようであれば、研究の価値があると判断をしてもいいのではないかと思います。一夜城を、ぜひもう一度皆さんと一緒に探してみたいものだと思います。
 以上でわたしの発表を終わらせていただきます。ありがとうございました。