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わがふるさとと愛媛学Ⅶ ~平成11年度 愛媛学セミナー集録~

◇くらしの技の連続性

 現在、東北では、青森県青森市の三内丸山(さんないまるやま)遺跡の発掘を一つの大きな契機として、縄文時代観が大きく変わりつつあります。かつては、縄文時代と言えば、腰の辺りに獣の毛皮を巻き付けて、木の棒の先にとがらせた石をくっ付けた道具を手に、獣を追い掛けている。そういうイメージが一般的だったのですが、それはとんでもない誤解であったということが分かってきています。
 一つだけ例を挙げますと、約7千年前の縄文遺跡から、漆塗りを施された櫛(くし)の破片が出てきました。これは多分、女性が祭りの時に頭に挿したものだと思われるのですが、その断層を電子顕微鏡で写したものを見て、わたしはびっくりしました。漆が4層くらいに塗り重ねられていたのです。現代の最高の技術をもってしても、塗り重ねることができるのは5層か6層までです。つまり、この日本列島にはすでに縄文時代に、今とほとんど変わらないくらいの漆塗りの技術が確立し、日常のくらしの技としてかなり広がっていたということが言えるのです。これまでは、日本の文化はなんでも中国大陸や朝鮮半島からやって来たと語られてきました。確かにそういう傾向は強いのですが、この時期の漆塗りの技術は、日本の方が中国と比べてみてもかなり高いようです。したがって、中国とは別に、日本列島の内側から独自に生まれた技術の一つだったのではないかということを、最近の考古学者が語り始めています。
 また近年、縄文時代というものが非常に身近なものとなってきています。例えば、聞き書きで山村を歩いていて気付いたのですが、山仕事に行く人は、必ず鉈(なた)を持っています。そして、手に持って行くのではなくて、樹皮を薄くはいで網代(あじろ)に(斜めまたは縦・横に)編んだ鞘(さや)のようなものに差しています。わたしは、その鞘を見ていたものですから、三内丸山遺跡から「縄文ポシェット」と名付けられた物が出土した時には驚きました。ポシェットとは首や肩からつるす小型のバッグのことですが、出土したものは、イグサ科の草を使って編んだポシェット状の入れ物でした。その中に木の実の痕跡(こんせき)があったので、縄文人が肩や腰などにぶら下げて、木の実などをおやつに食べていたのではないかということで、縄文ポシェットと呼ばれています。大事な点は、草の編まれ方です。それは網代に編まれ、先ほどの鉈の鞘と全く同じなのです。
 つまり、人々のくらしの技が縄文時代からずっとつながっている。この連続性のなかに、現代の山村のくらしの風景の一こまがあるということを、わたしは教えられました。