データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

わがふるさとと愛媛学Ⅶ ~平成11年度 愛媛学セミナー集録~

◇消えゆくくらし

 以上のように、山村のくらしのなかには、縄文の昔につながるようなかつてのくらしやなりわいの断片が豊かにうずもれていたのですが、これに対して、川や海にかかわるくらしは、全く違っていました。このことは「河海の章」としてまとめたのですが、わたしは聞き書きを始めるまでは、こうした状況を全く知りませんでした。しかし、思えば当たり前の事なのです。なぜならば、京都や大坂から北前船(きたまえぶね)(江戸中期から明治中期にかけて日本海海運に活躍した北陸の廻(かい)船のこと)によって日本海を経由して来た文化が、最上川をさかのぼりながら流域に点在する河岸(かし)ごとに伝わっていく。つまり、そこには、都の文化がかなりストレートに渡って来ているのです。
 江戸時代の山形は、紅花の全国的な産地でした。紅花は、染料や化粧用として使われる非常に高価なものでした。実際、米より値段が高く、金と同程度の価値があるとさえ言われていたくらいです。この紅花を北前船に乗せて上方との取り引きを行った商人たちが、最上川の川沿いにはたくさんいました。そして、彼らは大富豪でした。例えば、山形盆地のほぼ中央、最上川の左岸にある河北(かほく)町は、現在紅花の里として有名です。この町を訪ねると、今でも京都から持って来られた雛(ひな)人形がたくさんあります。この町では、雛人形を町内の人たちや観光客に披露する雛祭りが行われ、東北の地で思い掛けず京都の文化に出会えます。
 ところが、明治時代に入り、鉄道の開通によって川や海の交通が次第に衰退します。そうすると、川に依存していた人々のくらしも解体していきます。水夫とか船乗りや荷運び、船大工、あるいは川で漁をすることなどをなりわいとしていた人たちがたくさんいたのですが、少しずつ消えていった。そして、月日がたつうちにその面影さえほとんど無くなってしまいました。つまり、川のくらしは、近代に入ってとても大きく変容したのです。そしてこのことは、海のくらしについても同様です。現在の漁村では、親子2代で漁師をしている家はほとんど無いと言っていいでしょう。そのくらい、川や海のくらしの形は変わってきているのです。
 このように、川や海に直接にかかわるくらしが、姿を消しつつあります。そして山村においても、縄文時代につながるような古いくらしが、この2、30年の間で、少しずつ消えつつあります。そういうくらしやなりわいを、わたしは2年間をかけて、季節の巡りのなかでずっと追い掛ける聞き書きの旅をしました。それを「山形まんだらを織る」と題して新聞に連載し、また『山野河海まんだら』というタイトルの本にまとめました。
 山形を舞台とした聞き書きのお話をさせていただきました。先ほども申し上げましたように、わたしは、山形の風土性を浮き彫りにするための聞き書きの方法として、山野の章と河海の章とを設けました。それでは、この愛媛の風土性を浮き彫りにするには、どのような聞き書きの方法が考えられるのでしょうか。これについては、残念ながら、わたしは愛媛についてあまり詳しくありませんので、きちんとお話をすることができません。風土というのは、その土地が持っている長い歴史や、あるいは山があり川があり海があるという地理的な条件をすべてひっくるめたものですから、その土地ごとに異なります。したがって、わたしが山形について用いた方法をすぐに愛媛にも適用するというわけにはいきません。けれども、愛媛学において、聞き書きや聞き取りを大事な方法にしているのであれば、やがて愛媛の風士性が丸ごとイメージできるような、そこまで発展することができれば、とてもおもしろいのではないか。そういう気がいたします。