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愛媛の景観(平成8年度)

(1)登り続ける山

 四季折々にその姿を変える石鎚山は、登山の対象として多くの登山家に愛されてきた。ここでは、石鎚山に魅せられた人々の姿を通して、その魅力の数々をさぐろうと試みた。

 ア 学びの山、楽しみの山

 **さん(松山市居相町 昭和9年生まれ 62歳)
 **さんは高校で教べんを執るかたわら、登山の指導にも熱心に取り組み、石鎚山には数えきれないほど登り続けてきた。

 (ア)石鎚山との出会い

 「わたしが初めて石鎚山に登ったのは、昭和23年(1948年)の夏である。当時、わたしは旧制中学校の生物部におり、植物採集の目的で、女学校の生物部と合同で登った。
 1日目は、松山から小松まで国鉄(現在のJR)で行き、そこから河口(こうぐち)経由で黒川道を登り、成就に泊まった。男子は、小松から全行程を歩いたが、女子は、河口までは一日に数便しかないバスを利用した。2日目は、石鎚山を越えて面河に下り、その翌日は渋草(しぶくさ)(面河村)まで歩いた。最終日は、渋草から笠方(かさがた)、黒森峠(面河村・温泉郡川内町境、標高985m)を越えて、横河原(温泉郡重信町)まで歩き、まだ煙を吐いていた坊っちゃん列車で松山に帰った。食料なども何もない時代だったので、米と麦を持っていった。弁当はおにぎりで、おかずは梅干しやタクアン、それにせいぜいつくだ煮の塩コンブぐらいだった。成就の旅館で作ってくれたものも、おにぎりが二つと塩コンブ、それにタクアンが二切れ、くらい入っていたと思う。それを竹の皮に包んでくれた。
 足元は、運動靴だった。それも、今ではだれも見向きもしないような、質の悪いものだった。上は半袖の、いわゆる開襟(かいきん)シャツで、男子はたいていの者が学生帽をかぶっていた。植物採集が目的だから、胴乱(どうらん)や野冊(やさつ)、それに採集した植物を標本にする新聞紙などを持っていた。カッパの代わりに油紙を持っていったことが、妙に印象に残っている。それらをリュックに入れて背負って歩いた。今考えてみると、物質的には何もなかったが、精神的には豊かな時代だったように思う。」

 (イ)石鎚山登山案内

 「石鎚山の登山道はいろいろあるが、手軽なのは、石鎚スカイラインの終点土小屋(標高1,492m)からの往復か、西条側からであれば、石鎚ロープウェイを利用して成就(標高1,450m)からの往復だろう。少し慣れてくると、この二つのコースを組み合わせ、土小屋から成就、又は、成就から土小屋へのコースなどが考えられる。さらに足が丈夫な人なら、面河道の大きなササ原を下るのも石鎚登山の楽しさを味わえるコースだと思う。
 わたしが一番好きなのは、瓶ケ森(かめがもり)(標高1,897m)から石鎚山を経て、ニノ森(標高1,929m、写真1-1-1参照)、堂ケ森(標高1,689m)を縦走して笠方に下るコースである。これは、一般の人にはあまりお勧めできないが、二ノ森、堂ケ森一帯は、一面のササ原の中にヒメコマツの曲がりくねった白骨林が点在し、たいへん美しい。瓶ケ森へは自動車道が通っているが、石鎚山から二ノ森、堂ケ森方面は非常に苦労する。しかし、それだけに、健脚で自然を本当に楽しみたい人には、魅力的なコースとなっている。
 石鎚山は、展望にすぐれ、四季折々の美しさを楽しむことができる山である。山頂からは瀬戸内海や太平洋はもとより、よく晴れた日には、徳島県の剣山(つるぎさん)(標高1,955m)をはじめ、伯耆大山(ほうきだいせん)(標高1,729m)や九州の阿蘇山(標高1,592m)まで見ることができる。
 山は、5月の連休ころから、ツツジやシャクナゲなどの花やブナの新緑で化粧を始める。秋は、10月上旬(松山の地方祭のころ)に山頂で始まった紅葉が、1日に50mくらいの割合で山を下り、11月の上旬にはふもとの面河渓に達する。冬は、雪が白いベールですべてを覆い隠して、非常に美しい。夏の緑に覆われた石鎚山の日の出もいいが、真っ白の雪や氷に朝日が照り輝いてまっ赤に焼ける冬の日の出は、筆舌に尽くしがたいものがある。3月の末ころには、ふもとから山頂まで登る間に、彼岸ザクラの咲く春の陽気から、霧氷の花咲く真冬の風景まで一気に味わうことができる。わたし自身は、このころの石鎚山が一番好きである。ただ、当然のことながら、春の彼岸のころの石鎚山はまだ雪山であり、完全な冬の装備が必要である。足元はツルツルに凍り、常に滑り落ちる危険性をはらんでいるし、雪崩(なだれ)も怖い。大雪のときなどは、腰まで埋もれる雪の中をラッセル(深い雪を分け、道を開きながら進むこと)しながら登らなければならず、魅力と危険が隣り合わせの山である。」

 (ウ)山を楽しみ、山に学ぶ

 「わたしが高校に奉職したのは昭和31年(1956年)で、以来ずっと、登山の指導に当たってきた。わたしは、高校生が登る山として、石鎚山は非常にいい山だと思う。西日本で一番高い山という威厳みたいなものがあるので、生徒たちも真剣に取り組みやすいし、登ったあとの充足感も大きいように思う。
 わたしが奉職したころは、生徒たちの間には質実剛健の気風が強かった。その後、高度経済成長期を経て、装備も軽くなり、山行も便利になったが、その分だけ体力が落ち、人の心も軽くなったように思う。日ごろの体力トレーニングを大切にしてほしい。
 山では高校生たちに、『人間も、他の生物同様、自然の中に生かされている存在にすぎないのだから、謙虚な態度で自然から学んでいこう。』と言い続けてきた。また、登山には競技としての一面があるが、大切なことは、あとでよかったと思えるような登山をすることだと常々言ってきた。勝ち負けばかりに気をとられることなく、小鳥の歌に耳を傾け、花を眺め、夜空の星を数えたりできる、ゆとりのある豊かな心で山に入ってほしいと願っている。登山で大切なことは、どれだけ熱心にその山に取り組み、どれだけ楽しみ、そして、どれだけ有意義な時間を持てたかではないだろうか。
 山でともに汗をかいた生徒たちから、卒業後何年もして、『あのときはほんとうにしんどく、先生の顔が鬼に見えたが、あのとき頑張ったから僕の今日があると思う。』などと言われ、うれしい思いをすることがある。人生においては、一つのことをいつまでも続けていくことが大切であり、その努力がどこかで認められる社会であってほしいと思う。
 最近は、中高年者が山に登る機会が多くなった。初心者でも何回か登るうちに、自分で山を歩けるようになる。しかし、中高年者は、体力も判断力も衰えているのだから、それらのことを十分に自覚して、山では絶対に他人に迷惑をかけないという信念をもって、控えめに行動することが大切だと思う。昔の兵法に『彼を知り、己を知れば、百戦して殆(あや)うからず。(*6)』とあるように、十分に山を知り自分を知ったうえで、山歩きを楽しんでほしい。登山には、山に登ったときの喜びと、山から無事に帰ったときの喜びがあるとわたしは思う。山から無事に帰ってこそ、初めて山に登ったと言えるのではないか。無事帰れてよかったという安堵(あんど)感と、そこからじわっと湧(わ)いてくる喜び、ここに登山の醍醐味(だいごみ)があるのではないだろうか。
 『自然をあなどることなかれ、されど、おそれることなかれ。』である。」

 イ 一期一会の山

 **さん(伊予三島市中央 昭和14年生まれ 57歳)
 **さんは、これまでに写真集『石鎚』をはじめ、石鎚山の写真を数多く発表しており、「石鎚を撮る写真家」としてその名を知られている。

 (ア)石鎚との出会い-写らなかった風景-

 「わたしが初めて石鎚に登ったのは、昭和34年(1959年)、20歳の夏だった。写真を撮るのが目的だったが、石鎚とはどういうところかという興味も強かった。伊予三島から西条まで汽車で、さらにそこから河口までバスで行き、今宮、成就を経て8、9時間かけて山頂に着いた。翌日は、土小屋を経て瓶ケ森まで縦走し、そこで一泊し、西之川に下った。この初登山の最後の日の朝、わたしと石鎚との運命的な出会いが訪れた。この朝、わたしは、外がうっすらと明るくなるころに瓶ケ森山頂を目指して、キャンプ場を出た。周囲は深い霧が立ちこめ視界がなかったが、山頂の手前でふと空を見上げると満天の星空だった。一気に山頂に登ると、360度見渡すかぎり蒼(あお)い宇宙が天空をおおい、足元より広がる雲の海の中に、石鎚が頭だけ出して、ぽっかりと浮かび上がっていた。やがて、太陽が昇り始めると、白い雲海が大きくうねりながら、まっ赤に染まり始めた。その光景に、わたしはただ感動するばかりであった。
 山から下りて、できあがった写真を見て、わたしはがく然とした。あの美しい世界は、どこへ行ったのだろうか。わたしの手元には、想像もできないような写真ばかりがあった。なんとかして、あのような美しい風景を撮って、山を知らない人に見せてあげたい。どうしたらあの美しい風景が撮れるのだろうか。こうして、わたしの石鎚通いと写真に対する新たな挑戦が始まった。
 石鎚と出会って15年ほどたった昭和40年代の終わりころ、わたしの写真は、ようやく人に見せられるようになった。そのころには、山の方も、九州から北海道まで日本各地の山を一通り歩いていたが、やはり最後は石鎚に帰ってきていた。瓶ヶ森から見るササ原の向こうの美しい石鎚の姿(写真1-1-2参照)や、山頂の弥山(みせん)から見る天狗岳のきりたった荘厳な姿(口絵参照)は、ほかの山では見い出すことができないものだった。」

 (イ)石鎚に祈る-一枚の写真を撮るために-

 「わたしは、何度登っても、やはり瓶ヶ森から見た石鎚が一番きれいだと思う。季節的には、人を寄せつけない厳冬期の神秘的な姿が一番だと思う。だから、毎年冬に1週間、一人で無人の山小屋にこもり、ひたすら写真を撮ることにしている。
 冬の夜は、夕方5時を過ぎたら暗くなり、朝の6時半ころまでは真っ暗である。襲ってくる冷気と、恐ろしいまでの静寂、そして、長すぎる漆黒(しっこく)の世界。下界からまったく切り離された世界にただ一人取り残され、思わず大声をあげたくなるような孤独感。自然のきびしさを身にしみて感じながら、ひたすら夜の明けるのを待つ。
 山ではわたしは、いい写真を撮ろうということだけを考える。山は、ひとたび吹雪始め、荒れ始めると、3、4日は荒れ続け、1枚の写真も撮れないことが多い。したがって、わたしは、きびしい寒波が来る低気圧のころに出発し、山頂で次の高気圧が張り出すのを待つくらいのタイミングで山に登ることにしている。写真を撮るのは、悪天候から好天になるときが最高で、荒れたあとの大気が安定してくるときには、朝焼けでも、色が真っ赤になったり、黄金色になったり、想像もできないような色が出る。朝焼け、夕焼けの下に雲がうねる、あれがまたいい。晴れすぎて、雲も何もないというのは魅力がない。雲が流れ、霧が飛ぶからいいのである。おとどしの暮れで石鎚と瓶ケ森両方合わせての登山回数が600回を超えたが、何百回行っても、もう撮りつくしたということはない。いくら撮っても満足感がないのは、不思議な山である。登るたびに気象条件が異なり、そのたびに山の姿が異なる。だから、とにかく数多く行かなければならないのである。
 わたしは、山に入るとどんなに天候が悪くても、毎朝必ず夜明け前にカメラをセットして、一瞬でも晴れて山のいい姿を見せてほしいと、見えない石鎚に向かってひたすら祈りながら、何時間も粘る。それはもう信仰の世界そのものである。写真集『四季もよう四国』の真紅孤高の作品が、自分としては紅葉の天狗嶽の写真では最高だと思っているが、この写真の場合も、ほんとうに一瞬の勝負だった。登ったときは霧で何も見えなかったが、それでも、もしや一瞬でもと思いカメラをセットして待っていたところ、突然霧が晴れ、夕日が差し込んできた。その瞬間、紅葉の天狗岳が真っ赤に染まり、後ろを雲が流れた。ほんとうに一瞬のできごとだった。わたしは、人からよく『おまえの執念は天候まで変える。』と言われるが、それは情熱と努力以外の何ものでもないと思う。情熱をもって努力すれば、いかなることでもできると信じている。」

 (ウ)一期一会-写真にこめた情熱-

 「わたしが、写真で生きようと思いたったのは、昭和49年(1974年)のことで、ちょうど石鎚の写真を人に見せられるようになり始めたころと一致する。しかし、プロになるということは、決して甘いことではない。写真の世界では(他の世界でも同じだろうが)、経済的な裏付けがないと、結局妥協してしまう。1枚の写真を撮るために1週間も待つようでは、プロとしては飯は食えない。その点、思い切って転向した写真館が軌道に乗り、好きな写真に打ち込めるだけのバックボーンを確立できたことは、自分でもめぐまれていたと感謝している。
 『写真では絶対に手抜きをしてはならない。』というのが、わたしの信念である。結婚式の写真でも、撮られる方は一生に一度のことだから、撮る方としても、最高の技術で写さなくてはならないと思う。だから、わたしはいつも情熱をこめて撮る。それは石鎚と向かいあうときも同じである。わたしはいつも、この瞬間を逃したらもう二度とめぐりあうことはない、という気持ちで山に向かっている。シャッターチャンスは、恵まれるというような受動的なものではなく、ねらうという能動的なものであると思う。情熱さえあれば、思いは通ずるものだ。」


*6:古代中国の兵法書『孫子』にあり、「彼を知らずして、己を知れば、一勝一負す。彼を知らず、己を知らざれば、戦う毎
  に必ず殆うし。」と続く。

写真1-1-1 石鎚山とニノ森

写真1-1-1 石鎚山とニノ森

石鎚スカイラインより。平成8年10月撮影

写真1-1-2 瓶ヶ森から見た石鎚山

写真1-1-2 瓶ヶ森から見た石鎚山

石鎚山の美しい姿に絵心を誘われる人は多い。平成8年5月撮影