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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅸ -砥部町-(平成27年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

第1節 柑橘栽培に生きる

 砥部町では、ナシやカキなどの落葉果樹の栽培が早くから行われていた。ナシ栽培は、明治から大正にかけて広く行われるようになり、大正末期から昭和初期にかけてその最盛期を迎えた。その後、ナシ栽培が下火となり、カキ栽培が盛んとなったが、戦時中の果樹伐採(果樹園の2割伐採とサツマイモの作付け)で多くのカキの木が伐採されたことや、昭和20年代後半の市場価格の不安定さや貯蔵の問題などのために新植されなくなり、代わってミカン栽培が主力になっていった。
 ミカン栽培は、明治末期ころから重光(しげみつ)、外山(とやま)、宮内(みやうち)などで始まり、大正末から昭和にかけて砥部の各地で栽培されるようになった。戦後は、ミカン栽培がナシ栽培に比べて作業効率が良いことやミカンの価格が良いこともあって、山林を開墾したり、水田を転換したりしてミカン園を拡大していき、昭和30年代には、落葉果樹の木を伐採してミカンの増殖が進められていった。
 その後、昭和42年(1967年)の大干ばつや、生産過剰を原因とする昭和47年(1972年)の価格暴落などの対策として、温州ミカンの木に伊予柑やネーブルなどを高接(たかつ)ぎする品種転換を行ったり、ハウスでの栽培などを行ったりするようになった。現在、砥部町では、温州ミカンだけでなく、ハウス栽培によるミカン、中晩柑や新品種など、多品種栽培が行われている。