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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予東部)(昭和63年2月29日発行)

二 新宮村の茶と葉たばこ

 葉たばこの盛衰

 銅山川流域の代表的な商品作物に茶と葉たばこがある。茶は第二次大戦後栽培が本格化するのに対して、葉たばこは藩政時代以来栽培されてきた商品作物である。現在、茶の栽培の中心地は新宮村であるが、葉たばこの栽培の中心地も藩政時代以来現在の新宮村の領域であった。
 銅山川流域に栽培されている葉たばこは、従来刻み用に使用されていた阿波葉であり、県内の他地区に栽培されている黄色種ではない。阿波葉の本場は、その名のように阿波の国であり、新宮村の阿波葉も銅山川下流の阿波から藩政時代に伝えられたものである。明治初期に編集された『宇摩郡地誌』によって、新宮村の産物を見ると、たばこは楮皮や棕櫚皮をおさえて、村第一の特産物となっている。その後栽培は次第に盛んとなり、昭和初期の最盛期には上山地区で八〇ha、新立村で四〇haの栽培面積があったという。新宮の渡しの近くに新立たばこ取扱所が開設されたのは明治三六年(一九〇三)であり、このこともたばこ栽培が盛んとなる契機となった。銅山川を遡る富郷地区は、葉たばこ栽培の歴史が浅く、大正七年(一九一八)ころから葉たばこ栽培が盛んとなる。大正一五年(一九二六)には豊坂にたばこ収納取扱所が開設され、上猿田・下猿田・岩原瀬・藤原などの近隣集落でたばこ栽培が盛んとなる。
 霧の深い銅山川流域は日照に恵まれず、黄色種の栽培には不向きであったので、藩政時代以来、一貫して阿波葉の栽培を専一とする。その栽培面積は昭和一五年から四〇年ころにかけては六〇ha程度であった。昭和三〇年現在の栽培農家の分布をみると、新宮村の上山地区二四六戸(三八ha)、同新立地区九六戸(一四ha)に対して、伊予三島市の富郷地区は四四戸(五ha)であり、新宮地区が圧倒的な地位を占めている。銅山川流域の葉たばこ栽培は同四〇年代にはいって急速に衰退し、同六〇年には新宮村で一一戸、二haの栽培がみられるのみであり、長年の伝統的産業は今や風前の燈火となっている(表6―3)。

 上山地区のたばこ栽培の特色

 新宮村の葉たばこ栽培の中心地は上山地区である。上山地区は地すべり地に由来する緩傾斜地が広く展開し、土壌は結晶片岩の風化した沃土に恵まれ、広く畑作地が展開している。その畑作の代表的な商品作物が葉たばこであった。この地区では、昭和三五年当時一戸平均水田一一アール、畑三三アールを耕作しているが、たばこ栽培農家は平均二〇アール程度の葉たばこを栽培していた。
 当時、葉たばこは裸麦・大豆・小豆との組み合わせによって栽培されていた。麦畝の中の広い溝に、八~九枚葉になったたばこが移植されるのは、四月下旬から五月上旬であるが、それに先だって、苗床つくり、苗床への播種、本圃の打ち込み、五枚葉になった苗の小床への移植などが行われた。本圃に植えられたたばこ苗にはすぐに土寄せが行われたが、本格的な土寄せは裸麦を収穫した後に行われた。たばこの収穫は六月下旬から開始され、八月中旬に終了する。七月下旬までは赤葉どりといわれ、色づいた葉が下から八~九枚目まで順次収穫される。一〇~一一枚目の葉は八月にはいって青いままで収穫され、青葉どりといわれる。収穫された葉は、その日のうちに縄に編み込まれ、翌日から天日乾燥される。日中天日で乾燥させたものを、夜は霧にあてないように屋内に収納するのは大変な重労働である。このようにして八日間ほど天目乾燥されたものは、一週間ほど期間をおいたのち、二日間再乾燥がなされる。乾燥の終ったたばこの葉は、葉しらべといわれる品質区分がなされてのち、一一月中旬に専売公社に収納される(表6―4・写真6―5)。
 葉たばこの後作は通常大豆と小筒が栽培された。大豆と小豆は七月上旬にたばこ畝の両肩に播種され、八月中旬まではたばこの間に間作される。大豆・小豆の収穫は一一月上旬であり、その収穫の終った畑には耕耘がなされ、裸麦が栽培される。上山地区の葉たばこは、このように裸麦と大豆・小豆と組み合わされて栽培され、一年三作の集約的な土地利用の一環として作付けされていた。
 葉たばこの栽培は、一〇アール当たり四七万円(昭和五九年)もの粗収入をあげるが、投下労力は八〇人役にも達し、きわめて労働集約的な作物である。経営規模が一農家当たり二〇アール程度になっていたのは、保有労力との関係である。たばこの作付け地は各長家の宅地近くに集中していたが、それは収穫した生葉を家に運搬する労力を少しでも軽減するためであったといえる(図6―2)。たばこ栽培が昭和四〇年以降急速に衰退したのは、多くの労力を要するたばこ栽培が労力不足から栽培困難になったことが、その最大の要因である。この地区の農村の労力不足をもたらしたものには、人口流出による過疎の進行、京阪神方面への出稼ぎの増加、昭和五五年の堀切トンネルの開通に伴う川之江・三島方面への通勤兼業の増加などがあげられる。

 新宮茶

 県下の山間部の焼畑地域には、古くから茶が自生し、これが商品作物となっていた。それは火気に強い茶が、焼畑の火入れ後でも枯死せず、新芽を出すことができたこと、製品となった茶は軽量高価で、交通不便な山間部でも商品作物となりえたことによる。県下の古くからの茶の産地には、上浮穴郡の山間部、西条市の加茂川流域などがあったが、銅山川流域の山村にも、山中に自主する在来種の茶が至るところに見られた。銅山川流域の新宮村には、山中に自主する茶以外に、畑の畦畔に栽培される茶が多くみられた。この茶は五月下旬から六月上旬にかけて茶摘みされ、釜で蒸した茶の葉をホイロで煎り乾かすか、手もみにして筵の上で天日乾燥させるかして製品にされた。それらの茶は多くは自家消費用であり、販売されるものはあまりなかった。
 新宮村に商業的な茶栽培が開始されたのは、昭和二九年馬立地区鐘突の脇久五郎が静岡県よりヤブキタ種を導入して以降である。脇が茶栽培に踏み切ったのは、昭和二六年新立村役場を訪れた県の専門技術員落合千年が、新立村は茶の適地であると推奨したこと、当時の村長石川重太郎が村民に勢心に茶栽培を奨励したことなどによる。脇久五郎は茶苗を実生で育苗する方法以外に挿木で育苗する方法を同三一年に考案し、その茶園は県の委託採苗園になる。以後同四〇年ころまでは、脇茶園のヤブキタ種の茶苗が、県下の主要茶産地である丹原町中川地区、上浮穴郡の美川・面河・小田の各町村、南予の宇和町・野村町・松野町などへと盛んに出荷された。
 新宮村の茶の収穫面積は、昭和四〇年に二haであったものが、昭和四五年に一〇ha、同五〇年には三五haとなり以後四〇ha前後で推移し、今日に至っている。昭和六〇年の収穫農家数は四六七戸、収穫面積は三七haであり、一農家平均の経営茶園はわずか八アールにすぎない。多くの農家で小規模生産されているのは、茶は老人や婦人の労力でも栽培でき、彼等の副業として栽培されていることによる。茶摘みは、四月下旬から五月二〇日ごろにかけて手摘みで。番茶の摘みとりが行われ、次いで六月下旬から七月上旬にかげては鋏で二番茶の摘みとりが行われる。山間地の高冷地であるので、静岡県と比べると、一番茶の摘みとりは半月程度も遅れて不利である。しかし、結晶片岩の風化した沃土に恵まれ、かつ霧が深く、昼夜間の気温較差が大きいこの地は、佳品の茶の生産に適し、出荷時期の遅れをカバーしている。新宮村の茶は香気の高さで知られ、新宮茶として愛飲家に高く評価されている(写真6―1)。
 新宮村の製茶工場には、脇製茶場と新宮静香園(上山地区中野)、新宮村農協の三工場があり、昭和六〇年現在で、年間一五万㎏程度の製品を出荷している。うち六〇%程度が脇製茶場の製品であり、新宮村農協が三〇%、新宮静香園が一〇%程度を占める。脇製茶場の出荷先をみると、新居浜市以東の東予地区が七〇%、松山市とその近郊が二〇%となっている。製品は茶市場や問屋を通してなされるものではなく、直接小売店に出荷されている。市場や問屋に出荷すると、出荷価格は三〇%程度も割安となる。製茶工場は農家から生葉買いをしているが、出荷価格が低下すると、それだけ農家からの生葉買いの価格が低下することになる。現在、茶栽培農家の一〇アール当たりの粗収入は三〇万円程度であるが、これより低下すると農家の生産意欲が低下し、製茶工場自体の存立基盤も危うくなる。製茶工場が直接小売店に製品を出荷するのは、ここにゆえんするといえる。





表6-3 銅山川流域の葉たばこの栽培面積の推移

表6-3 銅山川流域の葉たばこの栽培面積の推移


表6-4 葉たばこ栽培の作業日程と投下労力

表6-4 葉たばこ栽培の作業日程と投下労力


図6-2 新宮村嵯峨野の土地利用図

図6-2 新宮村嵯峨野の土地利用図