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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予西部)(昭和61年12月31日発行)

六 越智(今治)平野の条里集落

 条里集落の概要

 古代の集落の典型的なものとして条里集落と称される集落がある。条里集落は、一般的には大化改新の際の班田収授法の施行のために行われた条里制に基づく耕地の整理方式のなかで計画的に設定された集落をさしている。このような集落は、主として奈良盆地に多いが、西南日本にも見出すことができ、東北日本の一部の地域にもその遺構を認めることができる。条里制は、おもに水田地帯で施行されたが、その際に作られた道路や畦畔及び水路などの跡は地籍図によって確かめられることが多く、奈良盆地に分布する「環濠集落」や「垣内式集落」は多分に条里集落の遺構を残すものと言われている。しかし、地籍図や考古学的調査によって現在まで連続していることが証明されない限り、本当の意味での条里集落とは言えない。これらのことから、現在では条里集落を広義に解釈して、条里制遺構に制約あるいは規制された集落とすることが多い。
 県下でも、越智(今治)平野・道後(松山)平野・風早(北条)平野などでは、水田地帯に条里制の遺構と思われる碁盤目状の地割や直交する道路とともに、集村(塊村)状の集落が存在し、地名としても「~条(町)」、「~反地」、「~坪」等条里制との関係をうかがわせるものも少なくない。


 越智平野の条里制と条里集落

 越智平野の条里制については、すでに池内長良平片山才一郎等により、国分寺の坪付文書やホノギの精査等を通して明らかにしており、これに基づく条里制の復元も行われている。これによれば、海岸の低湿地帯を除いて平野の全面に分布し、条里の方向は傾斜に合わせて北四二度東を示している。また、条は越智郡玉川町摺木または大野付近を基点として海岸方向に一二条あるいは一三条を数え、里は今治市石井付近を一里として越智郡朝倉村まで一六里を数えるとしている。条里地割の遺構は、戦前には越智平野の各地に見られた(図2―49)。
 これらの遺構は明治初期の地形図から読み取れる遺構とほとんど変化していないが、戦後は急速に農・宅地開発が行われたため、現在では遺構の確認が次第に困難となってきている。しかし、越智平野の場合、水田地帯に見られる塊村状の集落の中には八反地・八町等条里制に関係すると思われる集落が存在している。同時に、高市新田・松木新田等近世の新田開発に由来するものや、堀ノ内・土居等中世の豪族屋敷村に由来すると思われるものなど、さまざまな時代に成立の起源をもつ集落が混在している。また、長丁・丁子・一丁地等「丁」を持つ集落名が多いのも特徴がある。八反地が後年一丁地と変化している例もあるため、条里制との関係も無視できない集落であろう。

図2-49 昭和3年(1928)頃の今治(越智)平野

図2-49 昭和3年(1928)頃の今治(越智)平野