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愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)(昭和59年3月31日発行)

六 名所・史跡


 八ヶ寺

 伊予路の春は、八八か所巡りのお遍路の鈴の音とともに訪れる。松山市には、四国霊場のうちの八ヶ寺がある。第五一番の石手寺を軸に、南には四六番浄瑠璃寺から八坂寺・西林寺・浄土寺・繁多寺まで、北には五二番太山寺と五三番円明寺がある。
<浄瑠璃寺> 和銅元年(七八八)行基の開基と伝えられ、寺号は行基が刻んだという本尊薬師如来に因むものである。大同二年(八〇七)に空海が訪れ、伽藍を再興したという。「一願弁天」のお堂があり、知恵と芸術の守護仏としてあがめられ、中央には市指定天然記念物のビャクシンの古木が生えている。荏原、棚居城主平岡遠江守ら一族を供養する五輪塔がある。また、本堂の左手前に大きな「仏足石」があり、健脚になるという。

<八坂寺> 大宝元年(七〇一)に国司越智玉興が当寺を再建するにあたり、八か所の坂を切り抜いて道を作ったことから八坂寺と号し、弘仁六年(八一五)に空海が霊場に加えたと伝えられる。中世には修験道の道場として栄えた。鉄筋コンクリートで再建されたばかりで真新しい。本尊の阿弥陀如来坐像は木彫で鎌倉時代末期の作品といわれ、県指定文化財である。また、境内の宝篋印塔や多層塔は鎌倉末期の作と推定され、市指定の文化財である。
 近くに番外札所の文珠院徳盛寺がある。四国遍路の始祖伝説である衛門三郎の物語で知られる寺で、境内地は彼の屋敷跡であると伝えられる。そこから西へ二〇〇mほどのところに、衛門三郎の八人の子を祀る八塚がある。塚の頂には小祠が置かれ石地蔵が安置してある。約一四〇〇年前のものと推定され、群集古墳であり、すべて円墳である。

<西林寺> 行基が、一宮別当寺として徳威の里に建立したのに始まり、その後大同二年(八〇七)に空海が現在地に移したという。寺の南西にある「杖の渕」には「弘法清水」の伝説がある。本尊は十一面観音である。田園の中にこんもりと茂る木々に囲まれて仁王門や本堂が建つ。
 南高井町の中央部を東西に流れる「行屋川」には、伊予節に歌われた「ていれぎ」が自生し、同時に棲息する「すなやつめ」とともに市指定天然記念物となっている。

<浄土寺> 天平年間(七二九~七四九)恵明上人の開基と伝えられ、本尊は釈迦如来である。文明一三年(一四八二)に再建された和様・唐様折衷様式をもつ五間四面の本堂は重要文化財に指定されている。独特のポーズで知られる空也上人像もまた重要文化財である。三年間この付近に住み、村人に請われて残した自像といわれる。

<繁多寺> 天平勝宝年間(七四九~七五七)に行基が開いたとされる。その後、伊予入道源頼義、平弘謙(尭運)らが再興した。時宗の祖であり、踊念仏で知られる一遍も当寺に留錫し、修行したという。本尊は薬師如来である。山門をくぐると、境内の南側には道前道後灌漑用水の北部末端調整池が満々と水をたたえ、その堤にたたずむと、松山平野から瀬戸の海が一望のもとに見晴らせる。

<太山寺> 本尊は十一面観音である。西紀五八五年豊後の真野長者が高浜沖で難船しかかった時、一心に観音菩薩を念じると五色の光がさし、海は静まり助かった。そこで長者は工匠を集め、一夜にして大本堂を建立したという。県下最大の木造建築であり、九間四面の鎌倉建築で国宝である。右手には鐘楼、護摩堂、鎮守堂などが、左手高台には大師堂(遍照殿)および真野長者ゆかりの長者堂の諸堂がある。そのほか、太山寺の集落からの参道沿いには重要文化財の仁王門、本坊、四軒の茶屋(参道下手より崎屋、布袋屋、木地屋、門屋……今日ではすべて営業を閉じている)が木の間隠れに見え、市内のほかの札所寺院では既に失なわれた四国霊場の雰囲気ともいうべき霊気が彷彿として伝わってくる。また、裏山の経ヶ森には弘化五年(一八四八)に開かれた西国観音霊場が設けられている。

<円明寺> 天平勝宝元年(七四九)、行基が和気西山の海岸に開いたと伝えられる。その後数度の兵火で灰燼に帰したが、寛永一〇年(一六三三)に須賀重久が現在地に再興した。慶安三年(一六五〇)の銅製納札が残されている。本尊は阿弥陀如来である。太山寺より約二・五km、一ノ門を経て直線のコースである。境内入口の八脚門は室町期のものといい、県指定文化財である。庶民的な雰囲気の境内には切支丹灯寵がある。


 道後村

 道後村役場村民課発行の案内には、「いで湯と文学の里道後村めぐり」-なるべくならゆっくりゆっくりと四つのコースを完巡して欲しいのです-とある(図2-45)。
 道後村は、道後温泉本館を起点に、道後に点在する史跡・文化財等を巡る四つのコースから成り立っている。
 伊佐爾波神社・石手寺を含む「へんろ橋コース」、湯月城跡・道後公園を含む「湯月城コース」、護国神社・一草庵を含む「寺町コース」、松山神社・常信寺を含む「瀬戸風峠コース」合わせて二〇km強、二八番の名所を巡るコースである。これは土着のにおいのする「村」と、一六紀末までの伊予の国の政治・経済・文化の中心地であった「豊かな道後」のイメージを結びつけた名称であり、道後周辺の散策と名所探訪を兼ねた遊歩道を設定したものである。これを巡回してスタンプ帳を完成すると、道後村名誉村民証が交付されるシステムになっている。
 湯之町道後周辺には、多くの史跡や景勝の地があって、それにちなんだ句碑も多い。これらの名所を巡り古里を味わうことによって道後の見直しをしようじゃないか。オイルショック以来の観光地の見直し風潮の中で、観光客相手の発想ではなく、そこに住む人々の、地元の良さを再確認しなければならないという発想から生まれ、観光地という特性と結びついて輪が広まったものである。
 やがて、辻村明東大教授の-道後村にみる郷土回復・地方文化の連帯深める-という見出しの新聞論評や、NHKのテレビ報道等によって全国的に知られるようになり、昭和五二年八月の開村以来五七年末までに約五五〇〇名の村民をかかえるまでに成長した。内訳は八〇%が県内である。道後周辺の施設を利用した研修活動の一環としての集団参加など、若い人が多いが、地元の「歩こう会」や俳句大会、写生会の開催に参加する形で巡回する子供や老人もみられる。普通に回って五~六時間かかるため、急ぎの旅行者の中にはハイヤーを利用する者もあり、自発的にコースの下調べをするハイヤー運転手の姿もみかけられる(図2-45)。


 俳句の里

 俳都松山の証ともいえる文学碑約二七〇基余り、市内近郊に点在する文学碑文学史跡を点と線で結び、さらに面にまで拡大し、立体的な視野で松山の文学史をとらえてもらおうとの趣旨で設定されたものである。松山市では、これに伴って、市内に所在する文学史跡・文化財などに約二五〇本の説明板を、数か所には全コースの案内板を新設した。

<城下コース> 「春や昔十五万石の城下哉」松山を象徴する子規代表句の碑にはじまり、子規生誕地、子規生い立ちの地、漱石の愚陀仏庵跡、虚子の住居跡などを中心に松山南部、さらに久谷から平井にかけて三八か所四五句がある。

<道後コース> 藩政時代の遺跡竹のお茶屋跡を起点に、道後温泉周辺から御幸寺山麓を経て、西山の碧梧桐墓所にいたる二〇か所三二句のコースである。

<散策コース> 愚陀仏庵で夏目漱石と起居をともにしていた子規が、明治二八年一〇月七日に今出(西垣生町)の村上霽月を人力車で訪ねたときの道をたどるコースで、正宗寺から始まる。一四か所一五句がある。

<城北コース> 松山の北郊から三津地区にかけて一七か所二〇句を巡るコースである。大可賀の子規の師・大原其戎の墓、三津地区の芭蕉塚、悲恋の塚といわれる姫原の軽太子塚(比翼塚)などがある。


 子規堂

 松山の交通の中心市駅から南へ徒歩で数分のところにある臨済正宗禅寺の境内に、子規堂がある。郷土の生んだ近代俳句の創始者、正岡子規の旧宅を模して建てられたものである。子規の友人であり、文学なかまでもあった正宗寺住職仏海禅師が、子規の業績を記念して、子規が一七歳で上京するまで住んでいた住居を寺の中に残したのがおこりで、県指定史跡になっており、現在のものは三度目の建物で、昭和二一年一二月に竣工した(写真2-26)。
 玄関四畳、客間八畳、居間六畳、三畳の茶の間などで、玄関左手の三畳は子規の少年時代の部屋であり、この部屋には子規が愛した″香雲″の額が掲げられている。そのほか、遺墨「桜亭雑詩」「懐雅詩文」「岩屋紀行」「東海紀行」や子規遺愛の品々、漱石らの筆蹟などが一般公開されている。境内には、子規埋髪塔があり、内藤鳴雪の髯塚、高浜虚子愛用の筆をおさめた筆塚や「笹鳴が初音となりし頃のこと」の虚子の句碑などもある。


 市内定期観光

 市内定期観光バスのコースは後に示すが、観光バスを利用した名所史跡巡りは近年急減し、昭和五一年の六万四三四四人に続いて五二年五万九二九三人、五三年五万三七一〇人、五四年四万九六四五人、五五年四万八一四二人、五六年三万九〇二四人である。季節的には三・一〇・二月にピークがあり、五六年三月の利用者は五〇八二人、一〇月四五七三人である。

 Aコース・・・道後(九:○○)-子規記念博物館(九:○五~九:五〇)-石手寺(九:五五~一〇:二〇)-湯渡-東高前-永木町-中の川-子規堂-干舟町-日銀前-県庁前-一番町-ロープウェイのりば・松山城(一〇:四〇~一一:五五)-平和通り-本町-伊予かすり会館(一二:一〇~一二:三〇)-衣山駅-国鉄駅(一二:四〇)-市駅(一二:五〇)-道後(一三:〇〇)

 Bコース・・・道後(一三:三〇)-上一万-勝山町-女学院前-千舟町-日銀前-県庁参-一番町-ロープウェイのりば・松山城(一三:四五~一五:○○)-平和通り-上一万-道後公園-又新殿(一五:一〇~一五:四〇)-石手寺(一五:五〇~一六:一五)-湯渡-東高前-勝山町-一茶句碑-永木町-中の川-子規堂(一六:三〇~一六:五〇)-市駅前-南堀端-国鉄駅(一七:○○)-西堀端-千舟町-市駅そごう前一七:○五)-南堀端-電車通り-道後(一七:一五)

図2-45 道後村めぐり(有馬原図)

図2-45 道後村めぐり(有馬原図)