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愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)(昭和59年3月31日発行)

二  松山(道後)平野の水利


 松山(道後)平野の水利開発

 松山平野は主に重信川が涵養した扇状地・三角州性の沖積平野で、北の高縄山塊と南の石鎚山系に挾まれた細長い三角形状の低地帯である。重信川上流に形成された横河原扇状地は、扇頂の大畑で標高一七〇m、扇状地の平均勾配一〇〇〇分の一八、半経二・九~六・五㎞の本県の代表的扇状地である。標高一〇〇mの見奈良が扇端で、西流する表川と合流するが、通常の表流水は極めて少量で扇端部で湧出している。重信川上流と表川の合流点から森松付近までの堤防沿いに多い湧泉は予想外に大きい。
 重信川河口の三角州と、上流の横河原扇状地の漸移地帯を占める重信川氾濫原は、松山平野の主要部分で、扇状地性の氾濫原の活発な乱流現象が効率的な沖積活動をはたらいた。支流の内川流域は良質な伏流水が豊富である(図3-5)。
 石手川は谷口の石手を頂点に、半経二・五㎞で勾配一〇〇〇分の一〇の比較的小さい扇状地性氾濫原を形成し、地表面には上質田が開ける一方、花崗岩質砂礫層の豊かな伏流水に富んでいる。
 かかる松山平野における稲作農業の発展は、重信川・石手川への依存度が極めて大きい。この〝生命川〟に注ぐ大小多数の支流があるが、特に石手川は〝伊予の宝川〟と名付け親しんできた。鎌倉期以降・河野一門郎党によって開発がすすみ、徳川初期からは後期封建領主による本格的な開発が展開された。すなわち、文禄四年(一五九五)加藤左馬助嘉明は家臣足立半助重信を普請奉行に命じ伊予川改修をはじめ、慶長二年(一五九七)から四年(一五九九)までの間に略々工事を終えた。森松以東は西岸に堤防を築いて流路を固定したが、森松以西は全くの新流路一二kmの間を開鑿したものである。完成後は年々被害にあった田畑は無難となり、また幾多の荒廃地が開発されて良田となり、その利便に浴するものは五〇〇〇haに及んだ。
 加藤嘉明は松山築城に当たり、石手川の流路変更の必要を生じ、再び足立重信がその改修に着手した。この工事によって、新たに良田の開発されたもの三〇〇haにおよび、新石手川水路より灌漑水を受ける面積は三〇〇〇haに達した。
 松山平野の灌漑用水は表3-11のごとくである。重信川本流及び一〇の支流諸川からの表流水の取水が五五%である。表3-12により久米地区の灌漑用水源をみると、地形条件によって地域差が大きい。小野川以南の河川・泉に水源を求める地域と以北の溜池依存率の高い地域に分かれている。福音寺が河川依存率の高いのは、石手川の地表水によるからである。
 概して溜池は松山市から重信町にかけての周縁の山麓と、南西部の伊予市郡中東部にある段丘上に見られる。重信川は河川延長三六kmの小河川で、しかも山間の集水面積は三角州・扇状地の面積にくらべては狭い面積にすぎない。それにもかかわらず、溜池の密度が小さいのは地下水の利用が極めて多かったからである。市町ごとの灌漑用水源は表3-13の如く地域差が著しい。


 東温地方の水利開発

 重信川上流の重信町は表3-14の如く用水を重信川に依存してきた。特に北吉井地区は、乏水性の扇状地特有の地形で古来から旱魃に悩まされた。扇頂部の山之内・大畑の菖蒲堰からの取水に依存した。菖蒲堰(図3-6)の上堰は、川内町北方部落一七〇ha、下堰は右岸の重信町樋口・志津川・西岡三部落一一五haを灌漑する最大の堰で、中世から北方は大興寺の荘園、一方重信町右岸の菖蒲井掛の地域は、岩伽羅城城主和田少輔通為が領有した。
 堰の形態は写真3-1の如き横一文字堰の「そだ堰」で、用益権はそのまま近世村落共同体に引継がれ、上堰は北方村、下堰は久米郡樋口・志津川・西岡の各村と田窪・牛淵の五か村共同管理で、分水は貞享の協定で上堰四分、下堰六分で五か村が有利であった。志津川・樋口・西岡の三か村は、天正年間(一五七三~一五九一)に形成された村落で、中世には志津川郷といった。それが分村したのは、生産力の増大ならびに開墾事業が進んだ関係であった。
 重信川の流水は河床の上昇によって、地表水が減少していく一方、新田開発による用水量の必要性は次第に増加した。牛淵村は天保五年(一八三四)に水木泉を、田窪村は同七年(一八三六)玉淵泉を掘鑿して独自の水源を拓き、菖蒲堰用水の分水権を放棄した。上堰と下堰の分水をめぐっての水論は、藩政以来渇水時には絶えず繰り返された。温泉郡役所は永年の水論を憂慮して、堰の構造、分水法、水量などの実状調査を実施し、三か年の調査結果をもとに両堰の分水率の斡旋にのりだした。大正二年(一九一三)温泉郡長片野淑人の裁定で、上堰六分二厘、下堰三分八厘とし北方下堰は廃止した。取水期間は六月一日から一〇月一日までの季節堰である。
 水利形態は旧慣のままで、下堰取水配分割は樋口二分二厘五毛、志津川五分、西岡二分七厘五毛の大鉄則である。旱天には「寄せ水」という刻割水制度によって、三日二夜志津川、一日二夜西岡、一日一夜樋口という日割の時間配水が三部落協議できめられた。盗水が多いので水番を配し、田植と併せて二四時間の終日労働が続いた。田植は歩植で六月二〇日ころから七月一五、一六日ころまで一か月ほどの日時を要した。複雑な水利慣行と原始的な「そだ堰」に依存した取水で、農民は毎年水不足に苦悩し続けた。
 愛媛県は昭和三六年から井堰改修工事に着手し、同三八年五月完成した。工事は上堰と下堰を一か所に統合して分水し、岩盤上にコンクリート堰を築造して取水量の増加を計るものであった。これによって、藩政時代から渇水時に両井堰の対岸同士で利害相反する重信・川内両農民が相争った歴史も、改修工事によって紛争の禍根を絶った(写真3-2)。
 扇端部の見奈良は、重信川が地表水の全くない涸れ川となっているため、水源を表川に求めた。表川の見奈良井堰は延宝元年(一六七三)藩命で築造した。見奈良は川内町吉久および重信町田窪の出作地である。扇端の伏流水を求めて天明六年(一七八六)、戊亥泉(お吉泉)を試掘し、寛政元年(一七八九)に完成した。天保一四年(一八璧)に完成した五か村泉は、見奈良・田窪・牛淵・南野田・北野田五部落の灌漑水源である。重信町の湧泉三六か所中牛淵六か所、南野田七か所、北野田に九か所あり、町内の六一%が南吉井地区の重信川流域に集中している。


 松山平野中央部の水利開発

 重信川と支流の内川中流域は幕末から明治初期にかけて、自然湧水による地下水の利用が進展した。自然湧泉といっても全然人工の加わらないものはない。古来干魃ごとに加工して湧出量の増加を図ったために、多くは浅い池状に掘られ、石あるいは木で周囲を囲まれており、赤坂泉のように千数百㎡に達する広い池となっているものもある。普通の井戸と異なる点は湧出水が自然流下するために長い水路がつくられる点である。
重信川右岸、森松の夫婦泉は徳丸(現松前町)部落の耕地五〇haの灌漑用水源で、庄屋安永孫四郎が伏流水脈を発見し、代官春日与兵衛の尽力により久米代官の協力を得て北泉を享保九年(一七二四)に、南泉を宝暦七年(一七五七)に開鑿した。(写真3-3)。対岸の砥部町麻生地区には、古来重信川の取水堰に上流の古樋井手(上麻生村・下麻生村、現砥部町)および下流に市ノ井手(現伊予市の上野・八倉と現松前町の神崎・徳丸・出作)の両堰がある。両堰の用水路が並行しているため、渇水時には取水量をめぐって水論が頻発した。明和八年(一七七一)の水論はことのほか激しく、下麻生村組頭窪田兵衛門は事件の責を一身に受け犠牲となった。八倉の高台に義民窪田兵衛門の墓と碑がある。
 明和の水論後・市ノ井手の取水量確保のため釣吉村庄屋阿部万左衛門は、安永三年(一七七四)赤坂泉の開鑿に着手し天明元年(一七八一)に完成した。泉の湧出壺の面積は一六八六㎡、下壺一八三一㎡・水路の長さ二九〇m、幅一八mもある。この泉は伊予市八倉・宮下、松前町徳丸・出作の共有泉で灌漑面積一〇四・六haの灌漑用水源である。湧水だけでは不足するので、堤外の重信川河床に伏せた馬蹄形の集水暗渠から、堤防の下を通って取水する赤坂用水樋管で補給している。昭和三三年、赤坂用水樋管改修記念碑が建てられている。
 重信川の支流内川流域には野都子(野津合)泉、弘法大師ゆかりの杖ヶ淵、嘉永六年(一八五三)郡代官日下正倫が来住村の灌漑用水源に開鑿した日下泉・立待泉など内川に沿ったベルト状地帯に自然湧水による湧泉が多い。これは内川の河床にも相当量の伏流水があるからである。野都子(野津合)泉は、貧弱な内川の一流水に依存して旱魃に悩む高井村の農民救済のため、高井村庄屋役相原経寿が北野田(重信町)の内川堤防南側で伏流水の水脈探索に成功した。相原経寿は藩庁の許可を得て、代官所の資金援助と部落民の経費負担および労働奉仕により、寛延二年(一七四九)南北約一八・二m、東西約五四・五mの長楕円形の大湧泉を開鑿した。高井の水田の六七%におよぶ五五haの灌漑用水源である。
 内川筋の表流水取水堰の重要堰は南土居の立待堰である。受益地域は南土居・北久米・北土居・今在家・東石井・越智・星岡の七か町にわたる一七八ha、受益農家三二〇戸である(写真3-4)。立待堰がいつころから用水源になったかは不詳であるが、貞応二年(一二二三)河野九郎が、石井郷地頭職に補せられたころからと推定される。相馬正胤によれば、石井の開拓は東石井の縦淵城を開拓拠点に選び、土居城址は南土居の西南端内川の段丘上にある万福寺が、土居氏居館の跡という。居館をこの地に選んだのは、水の支配を通じて農民支配を確実ならしめる意図があった。
 立待堰のある南土居は、内川灌漑地域における主要水源地であるため、用水に関する支配的地位は土用見舞の慣行で明らかである。土用見舞というのは、水源部落が水下の部落に対して支配的地位を有し、毎年土用には金銭酒肴の贈与を関係部落より受ける慣行である。南土居は北土居・今在家・越智・東石井部落より、井門は居相・西石井部落から見舞品の贈与を受けた。さらに井門は南土居に、南土居は内川上流部落に見舞するという風に、一つの流れの上下で複雑な関係が結ばれる。こうした封建的部落関係は、自然的障害と相俟って、水源薄弱地域の発展を停滞的にした。
 居住地選定の条件が軍事的なものから経済的なものに推移するに従い、開拓の核心は東石井から南土居へ推移した。爾後の原野の開拓は南から北へ、主要水源地域から水源薄弱地域へと前進の方向をたどる。越智郷創建頌徳碑文によると「久米郡越智郷は水乏しく地瘠殆不毛に近し、松山藩主久松勝善公深く之を慨き代官日下宗恒に命じ官米二〇〇余石を給し、大三島の郷士等三〇余戸を移して開拓に従事せしむ……。」と越智は天保六年(一八三五)越智郡大三島の郷士による新田開拓村である。養水は立待堰の取水に依存したため旱魃年には常に惨禍に遭い、農民の苦難は極に達した。越智安太郎・越智類次郎ら村の有志が蹶然源泉の掘鑿を企て、大正三年(一九一四)八月工事に着手し一一月に完成して越智泉と称した。越智泉は、越智部落近傍の開発過程を物語る証しであり、灌漑用水の不足に悩む乏水地域農民の、積極的な水源開発の手本を示す開拓者精神の発露であった。
 石手川・内川筋の伏流水を求めての自然泉は二五か所ある。大正二~三年(一九一三~一九一四)ころから揚水機による汲上泉の地下水利用が本格化する。久米地区では大正三年(一九一四)八月の大旱魃に南窪田で使用したのが最初で、来住五・高井三・南窪田二・南土居一の合わせて一一か所の汲上泉がある。石井地区には四八か所の汲上泉がある
が、開鑿は大正年間は七か所で他は昭和に入ってからで、特に昭和九年の大旱魃に一四か所の汲上泉が開鑿された(写真3-5)。


 石手川の水利開発

 古照遺跡は小河川を堰止め、水路をつくって水を引く水利開発の方法が、古墳時代からあった事例で、石手川の旧流路の取水堰であった。石手川流域の灌漑面積は昭和初期の調査では、一四二一haにおよんでいる。石手川筋の一四か所にわたる取水堰樋閘中、主要堰は一之井手(二〇二ha)・寺井(四七四・八ha)・斉院樋(五〇七・九ha)の三堰が石手川流域灌漑面積の八三・四%を占めている。
 一之井手堰は、桑原・福音寺・松末方面の水利開発の祖、井手若狭によって天正七年(一五七九)に完成した古堰で、「国本培養之基」の碑が若狭没後三五〇年を記念して市之井手に建っている(写真3-6)。
岩堰の寺井堰は代官三浦正左衛門が改修したもので、天保一四年(一八四三)に完成した。寺井堰から取り入れた灌漑用水は石手・一万・御幸・山越を経て鴨川から和気に達する。


 海岸砂丘地帯の灌漑

 松山平野の砂丘地帯は、農業用水の取水源を地下水に依存する率が大きい。昭和三七年松前町水資源利用の実態によると、地下水六二%、河水三五%、溜池三%である。河水三五%の内訳は重信川一二%、国近川・長尾谷川各々一〇%、大谷川三%である。地表水が伏流する浸透性河床の重信川が、浅層地下水の重要な涵養源となっている。地下水取水法は動力ポンプ八三か所、臨時二九か所、畑灌漑を含めると一五〇か所にのぼる。ポンプ一台当たり灌漑面積は平均一八・八ha、大面積のものでも一台当たり五〇ha以下である。
 松前町黒田付近は、砂丘地を利用した野菜栽培が盛んである。砂六、砂利二、土二の割合の砂礫土壌で、地温の上昇により野菜の促成栽培が営まれる。水の浸透性が強いので、畑地灌漑の野井戸が一〇アールに一か所の割合で掘られ(直経約一m、深さ水面まで二・五m)、四〇〇~五〇〇ものはね釣瓶が林立し、朝夕ギーギーきしる音をたてての水汲みは重労働であった。特に灌漑労働は嫌われ、「嫁にやるなら黒田はおよし、夏の水汲血の涙」とうたわれ、「嫁ごろし」といわれるほどの過酷労働であった。
 大正一二年(一九二三)全国に先がけて農事電化を企図し、灌漑用水に乏しい砂丘地帯の地下水利用に電力灌漑を強調し、その平野部の地下水利用に電動ポンプの取り付けがすすめられた結果、昭和九年の大旱魃の被害を免れた。半馬力のモーター一台で五〇アールを賄い、一夏一か所二〇〇円で、揚水分配は婦女・子供の軽作業で可能になった。それで、地価が一〇アール当たり五〇〇円も上がったというエピソードを生み、幾多の農事電化施設の先鞭をつけた。


 道前道後水利開発事業

 松山(道後)平野の水不足を根本的に解消しようとする大開発計画が実現した。上浮穴郡面河村笠方に面河ダム(貯水量二八三〇万m3)を設け、逆流方式で道前・道後平野に導水し、一挙に水不足を解決しようとするものである。昭和三九年六月一四日に道後(松山)平野農業用水路の通水を開始した。松山(道後)平野の耕地八七八一・八haに南幹線水路(一万四一七八m3/秒)と、北幹線水路(二万一七六八m3/秒)に分水配分し、さらに、七工区に大別した県営水路一三路線、延長約五万九〇〇〇mの支線を設け、松山(道後)平野北部・南部両山麓から平野中央部へ、図3-7のように末端まで灌漑組織網を完成した。これにより、適時適水量を供給できる水利形態が確立した(写真3-7)。

図3-5 松山平野南部の灌漑用泉の分布

図3-5 松山平野南部の灌漑用泉の分布


表3-11 松山平野の灌漑用水の取水源

表3-11 松山平野の灌漑用水の取水源


表3-12 松山市久米地区の水源別灌漑率

表3-12 松山市久米地区の水源別灌漑率


表3-14 温泉郡重信町の水源別灌漑面積

表3-14 温泉郡重信町の水源別灌漑面積


表3-13 農業用水(市街化区域内の農業集落を除く)灌漑用水の主な水源別農業集落数(昭和55年)

表3-13 農業用水(市街化区域内の農業集落を除く)灌漑用水の主な水源別農業集落数(昭和55年)


図3-6 温泉郡重信町菖蒲堰之図(寛政元年1789による)

図3-6 温泉郡重信町菖蒲堰之図(寛政元年1789による)


図3-7 道前道後水利開発地域の概要図

図3-7 道前道後水利開発地域の概要図