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愛媛県史 社会経済1 農林水産(昭和61年1月31日発行)

第一節 『親民鑑月集』の概説


 中世後期の約四百年間は、田麦の栽培(水田二毛作)の普及で、水田地帯の農業、農家生活が発展、向上した時代であるが、うち続く戦乱により、農村、農業が荒廃、停滞した時代でもあり、史料が乏しく、他の時代に比べると、農業の実態、推移の跡があまり明確でない時代である。その中世末から近世初期の水田地帯における農業の面影を伝えている数少ない資料の一つに『親民鑑月集』がある。
 『親民鑑月集』は、三間大森城の城主であった土居清良の下問に答えて家臣が執筆した『清良記』三〇巻中の一巻(第七巻)で、最古の農書として知られている。同書の一一章「農夫楽の事」の末尾は、永禄七年正月吉日、松浦伝次貞宗入道宗案、土居左兵衛殿、で結ばれているが、記述の内容に疑問点が多く、古くから著者と成立年代について関心が集まり、数々の考察が発表されているが、今日では土居家の家臣で三島神社の神官であった土居水也の筆で、寛永六年~承応三年(一六二九~一六五四)の間に成立したとする見解が通説となっている。
 永禄と寛永~承応間の約八〇余年は、秀吉の身分統制令(天正一九年―一五九一)を分水嶺とした中世から近世への移行期であり、兵農の分離で荘園が解体し、農業の担い手が独立自営の小規模家族農業に移り、村落の構造も中世のそれとは異なる家群に変貌する転換期にあたるが、農家や村落の変化とは違い、農業そのものは、まだ近世の基盤が整わず、中世の形態、色彩を色濃く残していた時代である。したがって『親民鑑月集』は、成立の時期が寛永―承応の頃であり、また記述の内容に多少の近世的感覚による扮飾、加筆があるにしても、同書が説いている農業の骨格は、中世末のそれと大差のないものと見ることが出来る。
 『親民鑑月集』は一二章で構成されているが、営農に関するものは、第二章 四季作物種子取りの事(四季の作物の栽培と収穫)、第三章 五穀雑穀其外物作り分号類の事(五穀雑穀その他の作物の分類)、第四章 土の上中下三段并九段付十八段の事(土壌の分類)、第五章 屎草の事(肥料用の草)、第六章 功者万作物種子置様の事(作物の作り方)、第七章 一両(領)具足付田畑夫積の事(農家一戸の田畑耕作の必要労働の見積)、第一二章 清良宗案問答の事(土居清良と松浦宗案の問答)で、この七章により農作物の種類、標準農家の平均耕作規模、米麦その他の主要農作物の栽培方法、技術改善の重点事項などの概要を知ることが出来る。
 『親民鑑月集』の舞台は南予の水田地帯の三間郷とその周辺であるが、登場する農作物その他の植物の種類、作物の栽培技術、耕作規模などは、基幹作物、作付面積には若干の相違があろうが、他の地帯―山間地帯・畑作地帯・沿海半農半漁地帯など―と大差がなく、したがって同書の説いている農業の実態は、おおむね各地帯に共通するものとみてよいであろう。
 なお本書が耕作規模、所要労力などの解説で対象としている農家は、当時の一般的な農家であった一両具足であるが、一両具足(熊本藩では一両一疋という)とは、戦国時代に土佐の長宗我部元親のころに設けられた郷士制度で、平時には自ら耕作に従事して生計をいとなみ、事あれば軍務に服することが義務づけられていた半農半士の在郷武士で、戦国時代、南予の西園寺領内でも採用されていた制度である。近世、近代の独立自営の小農家族経営とは違い、農業生産は家族と多くの隷属農民による労働力を基盤として成立していた。