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愛媛県史 社会経済1 農林水産(昭和61年1月31日発行)

第六節 麦作の耕種概要


 麦作の作業と労力

 基幹作物の稲に次ぐ作物は麦(作付面積四反)である。麦作の作業と反当所要労力を『親民鑑月集』(七章)は次表のように説明している。稲作と同様に女作業であるため脱穀と調整の労力が省略されているが、この両作業の所要労力を反当四~五人役と見積もると実際の栽培労力は二六~二七人となる。
 耕起作業は稲作の古堅田とは違い、一回だけの耕起で所要労力は三人役と見積もられている。牛馬使用の付記がないのでこの作業は人力であり、用いた農具は踏鋤であったと思われる。『親民鑑月集』には農機具についての記述がなく、苗代整地の中で「えぶり」と第七章で踏鋤、梨、馬鍬、手鎌、斧、鍬の六農具が記載されているだけであるが、麦の耕起にはこの踏鋤が使われたものと思われる。
 播種と肥料運搬の労力は八人役となっているが、この労力の大半は肥料の運搬労力と見てよい。続く施肥に二人役が見積もられ、中耕除草灌水の中にも施肥の労力が含まれているので、この三項目を合計すると、肥料に関する労力だけで一〇人役以上となり、全作業労力の四割近くを占めることになる。運搬に七人と施肥に二人を必要とする肥料の量は莫大なものである。この莫大な肥料の種類と数量は明らかでないが、二頭の牛馬によって生産される厩肥のほか、草肥や人屎尿が主体であったと思われる。
 運搬と施肥に一〇人役を必要としたこの大量の肥料は、麦に対する肥料ではあったが、主たる目的は表作の稲に備えた地力の培養にあったと考えられる。このことは先に考察した一毛田の古堅田における「肥料の運搬と施肥」の労力が、わずかに一人役にすぎないことを見ても明らかである。
 田麦(稲の後で作る麦)の栽培が始まったのは鎌倉時代の初期であるが、水田二毛作は最良の熟田か、多肥多労の集約栽培にして初めて可能な高度の栽培方法であり、大量の肥料による地力の維持培養を不可欠の前提とする栽培体系であった。したがって米麦一連の栽培技術が確立する近世の初期まで、水田二毛作は地力を消耗し、稲が減収となるために少肥栽培では不利とされていた。『百姓伝記』(延宝八年・一六八〇~天和ニ年一六八二)は水田二毛作について「田に麦を作、跡をまた田かえし稲を作る事、費多し。麦に用る時は土地やせて薄田となり安し」と説いている。中世後期の水田作は、二毛作に因る地力の減退を防止するうえで肥料が極めて重要な意味をもっていた。
 脱穀と調整作業は稲作と同様に女の作業であるため省略され、作業の方法も明らかでないが、麦の脱穀は稲作とは違い、扱箸のほかに(一)打ちつける (二)ちぎる (三)焼く などの方法で行われ、調整には唐竿(連枷)や横槌が用いられた。連枷は平安末期、一二世紀の初期から使用されていた農具で、中世末~近世初期には全国に普及していた。
 以上の麦作に見られる著しい特徴は、所要労力(反当たり二六、七人)の約四割が肥料の運搬と撒布、二割余が中耕除草灌水の労力で、この二作業により全労力の六割強が占められていることである。
 延喜式(延長五年九二七)の巻三九に掲載の「内膳司耕種園圃」によると、一反歩の大麦栽培に一一・五人役が投下されている。この栽培方法は当時の畑麦作では最高のものであったと思われるが、一一・五人の内訳は耕起四人、播種〇・五人、刈取二人、択功(脱穀調整)五人となっている。一〇世紀初期のこの麦作と、中世末~近世初期の麦作(前掲表)を比較すると、施肥と中耕除草作業の有無に顕著な相違点があることが分かる。この比較で見るかぎりでは、中世の麦作は施肥と中耕除草技術の開発を軸として発展したと考えることが出来る。




表1-5 裏作麦一反歩所要労力

表1-5 裏作麦一反歩所要労力


図1-11 踏鋤

図1-11 踏鋤


図1-12 踏鍬

図1-12 踏鍬


図1-13 柄竿(唐竿・連架)

図1-13 柄竿(唐竿・連架)