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愛媛県史 社会経済1 農林水産(昭和61年1月31日発行)

第四節 小作争議


 小作争議の実態

 大正時代は小作争議の頻発した時代である。地主と小作人の紛じょうは、明治初期、とくに同五年の土地制度改革(土地の永代売買解禁・自由売買許可・地券交付)、同六年の地租改正以降その例が多くなり、明治一〇年に県は紛議を防止するために小作地の貸借契約に関して告諭(資料編近代1四七六頁)を布達している。大規模の争議では、明治三六年に新居郡橘村(現西条市)の禎瑞新田で地主(旧西条藩主松平)と小作人間で小作料の減免要求に端を発して同年産米の刈取を拒否する紛争があり、大正時代になってからは同三年に宇摩郡関川村(現土居町)で発生し、大正四年から七年までの四年間に、宇摩郡・新居郡・周桑郡・温泉郡の各郡で広範囲にわたり争議が続いたが、本格的な小作争議が頻発するようになったのは大正時代の後期である。『愛媛県農地改革概要』(昭和二七年刊)によると表3-3のように大正九年から昭和一二年までの一八年間に四七〇件の小作争議が発生しているが、その件数は大正一〇年から急激に増加し、一八年間(年平均二六件)の最高は大正一三年の四二件になっている。

 小作争議の原因

 小作争議の原因は、大正一四年から昭和一二年までの一三年間における三八〇件について見ると、表3―4のように風水害・病虫害による不作が最も多く、小作権・小作地の取上げがこれに続き、小作料高率収支不償、小作料滞納の順となり、四者で三二〇件、八五%を占めている。
 このように争議の原因は区々であるが、その根底にあった最大の要因は、小作権・小作地の取上げ・高率小作料などの原因(四一%)に見られる前近代的な小作慣行にあった。そして大正一〇年以降の急激な争議件数の増加は、この基本的な要因のうえに、(一)第一次世界大戦による一時的な好況の後で慢性化した農村の不況、とくに小作農家の経済的窮乏、(二)民主主義思想の台頭による小作農家の階級的自覚の二要素が重複したことに因るものであった。そのため争議の性格も従来の地主対小作人の個人的対立から、集団的、階級闘争的な色彩が強まるようになった。

 小作慣行

 大正一〇年と同一三年に実施した県下の小作慣行調査によると、小作契約を証書により明記しているものは二割(伊予郡、上浮穴郡の一部)で他の八割は口約束で貸付けられ、契約の期間も小作人に不都合がないかぎり継続して小作させる明確な定めのないものが八割に達し、期間に定めのある他の二割も、普通三年~五年、最短一年、最長一〇年となっている。
 小作料には現物納・代金納・金納の三種類があったが、金納は温泉郡内に稀に見られた特例であり、代金納も小作反別の三、四%程度で一般は現物納であった。代金納は小作料を米その他のもので契約し、代金で納める方法で地方により、代金納のほかに銀納・建金・穀代納・年貢代納・買入金納・代納などの名称があった。小作料は現物納を原則としていたが、明治三〇年~四〇年ころから、養蚕その他の特種産業が発達して稲麦以外の作物を栽培する者が漸増し、現物で小作料を納付するときは他から購入する必要が生じて代金で納めるようになり、水田の少ない地方では生産米を自家食糧に充当し、小作料は農外の現金収入で納めるようになった。
 水田小作料は米と麦を組合せて納める特例(喜多郡)もあったが米が原則であり、畑の場合は米のほかに麦・大豆・甘藷・甘蔗・蔬菜・玉蜀黍など多種多様であった。
 普遍的小作料であった現物納の実態をみると、反当小作料は一毛田でも収穫高の五割を越え、二毛田では平均で六割弱、高いものは六割を越えていた。
 畑の小作料は水田に比較すると、やゝ低率であり地帯差も大きいが、水田同様に六割を超えている地方もあり四割、五割の高率の地方も少なくない。畑の小作料は明治の初期には大豆の現物納が一般的であったが、大豆の生産が漸次減少し、また特用作物の栽培が増加するにしたがって米または麦に変り、さらに米と麦は収穫期・納期が異る不便から次第に米に統一されるようになった。

 小作米の諸制限

 現物納の小作米には、品質・等級・俵装・容量・重量などに種々の制限があった。伊予郡以東の二市六郡では、地生産の中等米を十分に調製、乾燥して納入する契約になっていたが、大正四年産米から穀物検査実施の結果、合格米を納付することに改正され(実際には不合格米も受渡しされていたが不合格米には奨励金は交付されない)、穀物検査の未施行地(上浮穴郡以南の一市六郡)では、旧慣どおり上等米を納付する契約であった。(実際には産地米であれば普通品以下のものも受け取っていた)。特例としては品種を大粒種、栄吾、雄町などに限定していた地方もあった。俵装には二重俵、横縄三か所二廻り結び、俵口は棧俵を充て細縄でしばる慣行であったが、穀物検査実施後は合格米を実施することとなり、この制限は自然消滅した。しかし未施行の南予ではこの旧慣が残っていた。
 俵装の容量は地方により、四斗二升・四斗五升に限定されていたが、穀物検査施行地区では検査の実施と共に四斗に統一された。(検査未施行地ではその後も慣行により四斗二升俵として納入していた)しかし穀物検査実施後も、藩政時代からの込米(口米、入れ米、サシ)制が踏襲され実際の容量は四斗を越えていた。込米は旧藩時代における貢米制度の慣習で、貯蔵、運搬中の脱漏米を見込み増量していたもので、産米の改良が進み、検査の実施で貯蔵、運搬中の減損が皆無に等しくなると、その意義を失うものであるが、契約面の数量の上に口米を添加する慣習は穀物検査の実施後も存続していた。
 込米の量は旧藩時代の遺制であるため各藩で次のように異なっていた。

 松山藩   (温泉・伊予・上浮穴・越智郡)                              特例
      温泉郡内の風早地方、越智郡内の旧野間地方  一俵(四斗)につき 五升   一俵につき一升、一升
      其の他の地方                        一俵(四斗)につき 四升   三合、三升五合の地方もあった。
 今治藩   (越智郡地方) 一俵(四斗)につき 五升                
 小松藩   (周桑郡地方) 一俵(四斗)につき 二升
 西条藩   (新居、宇摩郡地方) 一俵(四斗)につき 二升
 大洲藩   (喜多、伊予、上浮穴郡地方) 一俵(四斗)につき 二升
 宇和島藩 (宇和四郡地方) 一俵(四斗)につき 二升
  備考 新谷藩(喜多郡の一部)は大洲藩、吉田藩(北宇和郡の一部)は宇和島藩に同じ

 小作米の納入に際しては、小作人立会のうえで、品質・俵装・容量などを地主が検査する慣習であったが、穀物検査実施と共に検査の施行地区では皆掛重量を計り、検査俵米に添付の票箋に記入されている皆掛重量と異同がないかぎり、そのまま納入するように改善された。

 農民の意識変革

 大正時代の後期は、それまでの、もの言わぬ農民がものを言う農民に成長し始めた時代である。大正九年の米の投売防止運動で農民は自己を主張することの意義と価値を体得し、この運動を契機として農村にも民主主義思想が急速に高まるようになった。大正一〇年四月の「愛媛農界時報」二二〇号で、県農会技師多田隆は「農業者の沈黙を破れ」と題して次のように農民の自覚を促している。
 「由来 農民は沈黙を寧ろ一の美徳の如く心得ていた。武断政治や権力政治、即ち依らしむべく知らしむべからず主義で威圧統御されていた往時の思想が伝統的に存在していたのによるのであろう。けれどもいわゆる時勢はすさまじく変遷した。政治も思想も経済事情もほとんど革新されて旧態を留めぬ。が、しかし農民の沈黙のみは依然、旧態を改めずして一般社会から圧迫され侮辱され虐げられても因循な処女の如く従順で、沈黙で反抗などは全然しないばかりでなく、意志を発表して立場を明らかにすることすら成し遂げないのは何と腑甲斐ないことであろう。
 農民が真に覚醒し自覚して其社会上、経済上の地位の向上を図るべく内面的に外面的に採るべき途は多々あるが、しかし何を措いても其従来の沈黙を破って一般社会に農民が大声叱呼する事に大いに努力せねばならぬ……」
 大正一〇年から急速に増加した小作争議の背景には、生産者にとって著しく不利な旧来の小作慣行、農家経済の窮迫のほかに、こうした農民意識の変革があったのである。




表3-3 年次別小作争議件数

表3-3 年次別小作争議件数


表3-4 小作争議原因別件数

表3-4 小作争議原因別件数


表3-5 田反当小作料

表3-5 田反当小作料


表3-6 畑反当小作料

表3-6 畑反当小作料