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愛媛県史 社会経済1 農林水産(昭和61年1月31日発行)

四 特産蔬菜の消長


 冬春キュウリ

 ビニールハウスの出現と同時に導入され、三月から六月に収穫出荷する半促成栽培が主体で、三〇年代から順調に生産拡大が進んだ。四〇年代に入ると、ハウスの大型化、温風暖房機の導入などにより、次第に栽培時期が早まり、長期栽培が行われるようになり、現在では、一二月から六月に収穫出荷されるようになった。
 栽培品種は、黒イボの落合系品種の埼落からはじまり、三九年には、落合系のなかでも、低温伸長性の強い久留米落合H型が導入され、五〇年代前半まで、県下では冬春キュウリが主流であったが、五四年ころから、品質良好で、つる下げを必要としない白イボ系品種が採用されるようになり、温度管理、肥培管理の合理化、連作障害対策として接木栽培が実施されるなど、栽培技術の改良が進み、地域によっては、一〇a当たり、二〇tの収量をあげている。
 主な産地は、周桑地域・大洲市・伊予市・新居浜・西条地域で、周桑地域は国の野菜指定産地となっている。五八年、県下の栽培面積は六二haで、京阪神市場、および県内市場へ約二、三〇〇tが出荷された。

 夏秋キュウリ

 今日の夏秋キュウリは、昭和三〇年代の初期に越智郡朝倉村で、タバコ作の後作利用に合理的作付体系として生産がはじまり、九、一〇月収穫出荷された。このころ、支那三尺系品種が栽培されたが、三七年になって、今治市・玉川町に産地が広がり、品種は近成山東に統一し、共同出荷体制がとられるようになり、順調に栽培面積は拡大した。また、経営規模の拡大のため、三八年にはネット誘引による栽培が取り入れられ、鉄アングル・パイプ支柱など省力技術や資材が積極的に導入され、また、労働配分のため、作型が分化し、四〇年ころからは、六月~一〇月の長期にわたって連続出荷が行われるようになった。また、長形の近成山東では、果実の石吊りを行い曲がり果防止を行っていたが、四八年から短形品種の導入が進み、今日では、長形の近成山東は姿を消そうとしている。また、近年は作型の分化がさらに進み、半促成栽培からハウス抑制栽培を行う産地がでてきている。
 産地は、三〇年代からの今治市周辺に加え、四〇年代後半から、南予の中山間部・周桑地域へと産地が拡大し、現在、今治・東宇和・肱川・周桑の四産地が国の野菜指定産地となっている。五八年、県下の栽培面積は、三一八haで、八、五〇〇tが県内および京阪神市場へ出荷されている。

 冬春トマト

 トマトの早出し栽培は、二〇年代から松山市桑原・荏原地区、重信町南吉井地区をはじめ県下の都市近郊で、米麦単作地帯の経営改善を図るため、早熟栽培・トンネル栽培が行われていたが、ビニールハウスによる本格的な栽培がはじまったのは、三五年ころから今治市で産地形成を進めるようになってからで、半促成栽培からはじめられ、次第に栽培時期を早くし、四〇年代になると、九月まきで二月下旬から六月出荷の促成栽培へと発展した。
 瀬戸内の気象条件は、太平洋沿岸に比べ、一二~二月の日照時間が少ない。このことは、ハウス栽培上極めて不利であり、とくに、強い日照を好むトマトでは、高度な技術を必要とする。そのため、生産の安定増収、農作業の省力化について、栽培者が一体となり研究を続け、新技術を導入実践していることが、今日の産地形成の基盤になっている。
 産地は今治市周辺に西条市・新居浜市・宇摩郡土居町を含め東予産地として、国の野菜指定産地になっており、五八年の県下の栽培面積は三一haで、二、二九〇tが県内および京阪神市場に出荷されている。

 夏秋トマト

 本県の夏秋トマトは、昭和四年西宇和郡伊方町町見地区で、沿岸暖地を利用して試作が行われている。戦後、二四年伊方、町見地区で本格的に栽培をはじめ、九月~一二月中旬に出荷し、米軍特需もあって、生産の伸びは大きく、最盛時の昭和三〇年には、栽培面積一二〇haに達した。四〇年には、喜多郡長浜町を含め、本県の野菜指定産地の第一号となった。しかし、そのころすでに産地の樹園地化が進んで、生産は縮小の一途をたどり、四〇年代の後半には、産地としては姿を消し指定解除となった。
 この暖地抑制にかわって、四七年から上浮穴郡久万町で準高冷地を利用し、七~一〇月出荷の栽培がはじまり、順調な伸びを示し、五三年には、松山市・中山町・広田村を含め、久万産地として野菜指定産地となり、その後も高原トマトとして名声を得、近年は従来の露地栽培から雨除けハウス栽培となり、ますます良質多収の栽培が行われている。また、東宇和郡城川町でも産地形成が進められている。
 五八年から完熟品の予冷・定温輸送をとり入れるなど低温流通が一般化してきており、県内、京阪神市場に出荷されている。

 夏秋ナス

 全国的には卵形の千両ナスが主体となっているが、伊予市では松山長を五〇年ころより取り入れ、五四年に双海町を含め伊予産地として、野菜指定産地になり、松山長ナスの産地銘柄を確立し、松山市・松前町・北条市でも生産されるようになり、京阪神・名古屋市場にも出荷されている。しかし、ミナミキイロアザミウマの被害が多発し生産は停滞している。
 一方、西条市では、ジャンボナス(宇摩地方土着の絹皮)の栽培も行われている。現在は市場で充分な評価を得ていないが、食味良好で今後の伸長が期待される。

 カボチャ

 本県のカボチャ産地として、古くから伊予市新川・松前町黒田の海岸砂礫地で、作付体系に組み入れ早熟栽培が行われてきた。昭和三〇年代、東予に晩まきハクサイが普及し、その後作として、トンネル早熟のカボチャが導入された。四〇年代には、津島町、大洲市にも栽培がはじめられたが、津島町では定着をみなかった。また、東予の産地も晩まきハクサイが減少するにしたがって、一部を除き、カボチャの生産も縮小した。
 品種の転換の大きかった蔬菜で、二〇年代までは、日本カボチャであったが、三〇年代になると、西洋カボチャ、赤皮の打木が栽培されるようになり、三七年ころより芳香カボチャが導入され、日本カボチャは、ほとんど見られなくなり、近年も西洋カボチャの近成芳香、または、えびすが主体となっている。
 県下の主な産地は、宇摩郡土居町・西条市・伊予市・松前町・大洲市で、県内、京阪神市場に六月を中心に出荷されている。

 スイカ

 本県のスイカ栽培の歴史は古く、戦前から水稲前作として栽培し、戦後、最盛期の二〇年代後半から三〇年代は、七月を中心に西日本地域の市場を独占した。主産地は中予の水田地帯で、愛媛スイカは、大阪の天神祭を中心に欠かせないものであった。
 また、三〇年代後半には、ミカンブームによる樹園造成に伴う開園時の一作栽培としてかなりの作付面積があった。その後、次第に減少し、現在では往年の姿はないが、果実的蔬菜としての安定的な需要に支えられて、果樹農家で複合経営の作物になっている。
 主な産地は、大洲市・菊間町・吉海町・松山市・吉田町などで、七月を中心に県内市場を主体に出荷されており、県外には京阪神地域向けにわずかの出荷がみられる。

 イチゴ

 イチゴは、キュウリとともに本県の重要蔬菜の一つであるが、本格的な栽培は、戦後で、二七年上浮穴郡小田町でダナ―が栽培され、松山市場出荷が行われ好評であった。三三年が最盛時で一・五haとなるも、産地規模が小さく、輸送関係も不利な条件であったことから三六年までで中止された。
 一方、三二年に重信町南吉井に導入され、北吉井・松山市久枝地区に拡がる。品種はダナー、幸玉などが栽培されていた。三五、六年ころには促成栽培熱が高まり、重信町南吉井では福羽で石垣栽培が行われ、松前町北伊方でも試作が行われるようになり、三五年現地導入を行った。久留米一〇三号が主体となって、トンネル栽培で一二月からの出荷が行われた。
 露地の普通栽培も三〇年後半から、ポリエチレンマルチが敷かれ、さらに、トンネル早熟によって、三月下旬から出荷されるようになった。
 三八年には兵庫県の宝交早生が周桑に導入され、イチゴ栽培は急速な伸びを示し、四〇年代に入るとハウス栽培がはじまり、四五年以降次第にハウス栽培が主体となり、ハウス栽培も半促成、高冷地育苗など各種の促成栽培、長期株冷による抑制栽培の組み合わせが行われ、個別農家の経営規模、産地拡大が進められた。
 主な産地は、西条市・東予市・丹原町を中心とした東予・重信町・松山市を中心とする中予の平野部で、近年、宇和島市周辺・宇和町・大洲市など南予でも伸びている。
 五八年の作付面積は、二〇三ha、出荷量三、六二一tで、一一月から五月まで、県内、京都府を中心とした京阪神地域に出荷している。

 ソラマメ

 ソラマメは、古くからの特産蔬菜で、江戸時代末期、大阪から於多福系のソラマメが松山市清水町に導入され、長い年月、優良系統の選抜が行われ、清水一寸と呼ばれるようになり、すでに、昭和初年広島、北九州に出荷されていた。この品種は大粒種としては、収穫時期が早く、煮豆に適し、むき実としても皮が軟らかく食味良好で、全国的に評価が高く、種子用としても全国に出荷されたこともあった。
 戦後、青莢用は県内出荷が主体であったが、経済農協連で、四〇年京阪神へ、四一年京浜市場へ試験輸送が行われた。そうして、冷蔵車による青莢輸送がはじまり、大相撲夏場所を中心とした五月の京浜市場は、本県物が主体となった。予冷、冷蔵輸送で成果を挙げた蔬菜の第一号である。
 産地は松山市・北条市・伊予市・松前町など中予の平野部が中心であるが、新居浜市・西条市を中心とした東予、さらに、早期出荷の可能な暖地の南宇和郡・北宇和郡でも産地形成が進んでいる。
 五八年の作付面積は三七六ha、出荷量は一、九四〇tで県外出荷を主体として、そのすべてが京浜市場向けとなっている。

 ハクサイ

 昭和三〇年代から四〇年代にわたって、東予に一大産地を形成した晩まきハクサイは、一〇月まき、三月収穫という特殊な作型で、水稲・ハクサイ・カボチャの水田三毛作を行うという経営上からも有利性をもった特産蔬菜であった。この作型の確立については、今治市の精農家、桑原荘二郎氏が春まきハクサイをより早期に出荷できないかと、研究、努力を重ねて確立した新技術で、三四年から本格栽培に移し、その後、東予一円に普及し、最盛期の四〇年前後には約一〇〇haに達し、京阪神市場に出荷され、四一年野菜指定産地となった。しかし、ハクサイの貯蔵技術が進行し、四五年以降次第に大産地に圧迫されて生産が縮小し、野菜指定産地も解除になり、現在では、その栽培はみられなくなった。
 また、二〇年代には、伊予市・松前町の砂礫地で輪作にとり入れられて産地を形成していたが、ウイルス病の被害が激甚で、栽培不能となり生産は消滅した。
 三〇年代には、中山町でタバコ後作として早生ハクサイを導入し、最盛期の三五年前後には、二〇haを超え、大阪市場に出荷されていたが、樹園化が進み、短期間で姿を消した。
 本県は現在も、全国のハクサイ主産県になってはいるが、年々栽培面積は減少し、産地としては、古くからの産地で野菜指定産地となっている大洲産地のみで、外には集団産地はみられなくなった。

 キャベツ

 夏秋キャベツは、夏季冷涼な準高冷地(標高三〇〇~六〇〇m)の自然条件を利用した春まき栽培(八月中旬~九月上旬を中心に出荷)を二六年から試作し、二九年から本格的に計画栽培を進めるようになり次第に作付面積を拡大した。三五年前後には、三〇haに達し、松山・高知市場に出荷された。四〇年代には、農家の兼業化が進んで、作付面積が漸減したが、近年生産振興に力を注ぎ、五七年久万産地として野菜指定産地の指定を受けている。
 四~五月に出荷される春キャベツは、最も一般的な栽培であるが、集団産地はみられなかった。五〇年代になって、松山市・北条市で計画生産が行われるようになり産地形成が進められた。五六年には野菜指定産地となり、県内、京阪神市場に出荷している。
 その外、五七年指定の都市近郊産地として伊予産地、また、蔬菜地帯として大洲市に産地がある。

 ホウレンソウ

 ホウレンソウは、昭和四〇年から西条市で本格的に産地形成が進められた。この地帯は水田地帯で、経営規模の大きい稲作専業農家の裏作として導入されたが、この地帯の自然条件に適した作物であり、栽培が容易であることもあって、兼業農家の作付も多くなった。とくに、生産者組織が強固で、生産意欲が高く、婦人が積極的に生産に参加し、生産技術の創意工夫、新技術の研究、努力により立派な成果を挙げ、急速に生産拡大が進み、四六年、冬春ホウレンソウとして野菜指定産地となった。
 五〇年代になると、伊予三島市および野村町を中心とした南予中山間部にも産地形成が進み、五四年、宇摩産地、五七年に東宇和産地が野菜指定産地の指定を受け、さらに周桑地区でも栽培をはじめ、これらの産地も西条産地とともに、年々生産拡大が進んでおり、関西市場では、徳島県に次ぐ産地となり、一一月から五月の長期にわたって、県内、京阪神市場に出荷されている。
 これらの産地の外、雨除けハウスによる夏まき栽培が久万町はじめ県下各地で生産が行われるようになった。
     
 タマネギ

 早生タマネギの産地の伊予市・松前町の産地は、大正中期からタマネギ栽培を導入し、重要作物となっていた。この地帯は温暖で、土壌が砂礫質であるため地温の上昇が早く、早出し栽培の適地であった。その後、栽培法の研究、早生品種の出現と相まって、特殊暖地の早出し栽培として発展した。戦時中、作付制限によって激減したが、戦後立地条件を生かし、早生タマネギを主幹とした多毛作経営として復興し、最盛期の三〇年代には、作付面積が八〇haに達した。四一年には、松山市と一体となり、松山産地として野菜指定産地になった。出荷時期は、四、五月の早期に行われ、県内はもとより、京浜、京阪神市場をはじめ各地に出荷されている。
 一方、貯蔵用を主体とした、中晩生種の栽培も盛んで、戦前からの産地としては、中島町があったが、三五年以降樹園化し縮小している。
 北条市では、戦後、水田単作地帯の裏作利用として導入され、排水良好な土壌条件が貯蔵用の生産に適し、三〇年代には、規格統一、共同出荷体制の確立によって、急速に作付を拡大し、三〇年代後半には、一五〇haに近い作付が行われた。四一年には、野菜指定産地となった。その後、作付は減少しているが、貯蔵用としての評価は高く、有利に販売されている。
 その外、中晩生タマネギの産地として、南予では、四四年に野菜指定産地となった三間町をはじめ、宇和町、広見町などがあるが、生産は停滞している。それに対して、東予では、近年東予市以東で生産の伸びがみられ、とくに、周桑地域では、急速に産地形成が進んでいる。
 以上、中晩生タマネギは、収穫直後の出荷、貯蔵後出荷により六月以降長期にわたって、県内・京浜・京阪神をはじめ県外各地に出荷されている。

 レタス

 昭和三〇年代後半から急速に消費の伸びた蔬菜で、本県においても、四〇年代に入って、松前町北伊予で水田裏作として導入し、米麦単作地帯の経営改善を目的として、水稲の後作のレタスについて、品種ダレイト・レークス五四を用い、九月中、下旬まき、一〇月下旬に定植し、寒害防止対策として一二月からビニールトンネルを被覆し、一、二月収穫の作型について研究試作を進めた。
 新しい作物のため多くの努力を要したが、四二年から本格栽培をはじめ、その後、急速に生産拡大が行われ、伊予市にも普及拡大し、四六年には、伊予産地として、野菜指定産地となった。
 その後も順調に生産拡大が進むなかで、個別農家の経営規模の拡大と長期連続出荷による有利販売のため、栽培幅の拡大を図り、現在では、一〇月から四月に収穫する多数の作型が導入されている。その間、レタスの後作には、エダマメを作付けるなど合理的な輪作がとられている。
 そうしたなかで、生産は拡大し、五九年には約二五〇haの作付面積となり、県外重点の出荷が行われ京阪神を中心に名古屋地域などに出荷されている。

 サトイモ

 古くから栽培された蔬菜の一つで、明治時代から宇摩・大洲地域など県下各地に産地がみられ、とくに、宇摩地方におけるサトイモは、栽陪歴一〇〇年以上という古い産地である。水田の用水不足対策、ヤマジ風の災害対策、輪作による水田の地力増強対策としてサトイモ導入の成果が古くから評価されていた。
 宇摩地方は、結晶片岩の緻密な土壌で、品質のよいサトイモを生産していたこともあって、戦前からヤマイモ・ショウガなどとともに、全国各地に出荷されていた。戦中戦後は、作付統制もあって減少したが、二八、九年ころから積極的に産地形成に取り組み、順調に生産拡大が行われた。
 とくに、四五年以降は米の生産調整に伴い転作作物として、各地で栽培し、四六年には、新居浜市を含めて宇摩産地として野菜指定産地となった。
 品種は、古くから極早生の愛媛盆芋をはじめ、早生の深芋、晩生のえぐ芋など多くのものがあったが、戦争中、早生蓮葉系の女早生が導入され、本県の気候、土壌に適応した品種であったため、戦後急速に普及し、主産地の品種として統一された。
 出荷時期は、九月~一二月が主体で、出荷先は県内、県外が半々で、県外は京阪神を中心に中国地方など全国各地に出荷されている。

 早掘りバレイショ

 早掘りバレイショは、南予急傾斜段畑地帯では、戦中、戦後、カンショ・麦の作付体系であったが、二六、七年から麦にかわる作物として、宇和島市遊子地区で栽培をはじめ、少量ではあったが京阪神市場に出荷して好評を博した。
 この地帯は、豊後水道に面し、冬季季節風は強いが霜をみることの少ない特殊暖地で、年内に種いもを植え付け、収穫出荷は四月末から五月と早く、鹿児島につぐ早掘地帯で市場の評価も高く、価格が安定していることもあって、年々生産は伸び、三〇年代になると、西宇和郡から南宇和郡の沿岸部全体に産地が拡大し、最盛期の三五年前後には、作付面積が二〇〇ha以上に達した。その後、樹園地化が進み産地は縮小したが、四九年に宇和海産地として宇和島市・津島町が野菜指定産地の指定を受け、現在も早掘産地として県内はもとより京阪神を中心に、一部は京浜・中国地方に出荷されている。