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愛媛県史 社会経済1 農林水産(昭和61年1月31日発行)

第一節 伊予往昔の畜産


 古記に上る牛馬

 古事記に伊予の国は愛比売と称されるが、古来この地は最先の経営地として、地勢山嶽に富み、土地肥沃にして草木繁茂し、気候温和にして水質佳良なため農業はもとより牧畜も盛んであったことが知れる。また牧畜のための療病の方があったり、牛宍(牛肉)が食べられたことが明らかである。安閑天皇(六世紀)の朝に「大連に勅し云く宜しく、牛を難波の大隅島及び媛島の松原に放つ、名を後に垂れんことを翼ふなりと」これについて「愛媛畜産沿革誌」によれば媛島の地未だ詳かならざれども愛媛県温泉郡東中島大字長師の海岸に「義経鎧掛の松」と称する老松あり、この地を「媛ノ原」と称し、また一書に牛を愛媛の松原に放つと記せるものあり蓋しこの地ならん云々とある。
 その後仏教渡来による肉食禁制は仏法の殺生戒より出されたものではあるけれども、また一面では牧畜保護の政策であったことも明らかであり、かくして本県でも盛んに繁殖され、清和天皇貞観一八年(八七六)において次のような建言を見るに至っている。
 「伊予国言す、管風早郡忽那島馬牛年中の例、貢馬四疋牛二頭、其道遣馬三百疋牛亦之れに準ず、島内水草既に乏しく蓄息滋々夥し、青苗の初生風逸踏破し、翠麦将に秀んとすれば群り入りて食損す、百姓の愁斯より甚しきはなし、望むらくは請う年貢の餘を検非し、餘は悉く涸却して以て其価を以て正税に混合せん」詔してこれに従う。(注)青苗とは若苗を、翠麦とは青麦を言う。
 次いで醍醐天星(八九七~九三〇)の朝、延喜式の発布あり、貢馬貢牛貢蘇牧場の制定があった。すなわち全国を挙げて三九牧を設けられたが、伊予国忽那島の馬牛の牧はその一つであって、毎年馬六疋牛二頭を貢し蘇は十二壷(内四口は各大一升、八口は各小一升)を貢した。
  (註)蘇とは今の煉乳様のものにして牛乳大一斗を煎じて蘇大一升を得たるものなり。
 また同式中に諸国の駅伝の馬数が規定されているが、伊予国は各駅各五疋を備う、駅伝は大岡(今の川之江市川之江町付近)、山背(今の川之江市新立村字馬立)、近井(今の宇摩郡土居町入野付近)、新居(今の新居浜市付近)、越智(今の今治市桜井国分付近)の五か所に設けられており、讃岐国綾歌郡国府より川之江~新立を経て土佐国長岡郡国府に通ずる官道、および伊予国越智郡国分に通ずる官道に設けられたものである。
 さらに同式、左馬寮の条下に、貢馬牛のことが規定されており、それには諸国の貢あるところの繋飼馬牛は二寮(左右馬寮)均等検領す、其数……(中略)伊予国馬六疋牛二頭云々とある。
 朱雀天皇の天慶二年(九三九)藤原純友が暴威を振るいたるが如きや、河野氏が累代伊予を根拠として武勲に輝きたるは伊予国が軍用馬牛の豊富な産地であったことが大きな支えとなった。殊に治承四年(一一八〇)佐々木・梶原宇治川先陣争いの時の名馬磨墨(梶原の乗馬)は、伊予国桑村郡田野村(現周桑郡丹原町)の国広某が所有牝馬国広号を頼朝に献上し、磨墨と命名されたものなりとの口碑あり、当時この地方の馬牧の盛んであったことがうかがわれる。
 降って江戸時代に及び畜産政策には相当意を用いたもののようで牛馬の繁殖を各藩に命じており、慶安二年(一六四九)には「何卒致し牛馬の佳きを持ち候様仕度候、良き牛馬程肥を多踏むものに候。身上ならざるものは是非に及ばす、先ず斯の如く心掛け可申候、並に春中牛馬を飼ひ候ものを秋先支度仕べく候」と令した程で、藩政時代の畜産は牛馬が農耕用と運搬用と採肥用に飼育されたが飼育者は上農と呼ばれる階層であった。そして文化一一年(一八一四)には「牛馬の売買は馬口喰以外の者は行ふべからず」と制限し、その取締規則を発布するに至り各藩は一層盛んに牛馬の生産を奨励したのである。
 本県でも松山藩では元禄四年(一六九一)藩より村の庄屋、郷筒などに牛馬の預託飼養制度をはじめ、寛政一一年(一七九九)には伯楽規定が定められ、売買には伯楽が必ず立会することとした。次いで文化元年(一八〇四)さらに詳しく定法一六か条を制定するほか、寛永一五年(一六三八)初代藩主松平定行が砌石浴池(道後温泉の牛馬湯)を設けて牛馬の療養をはかり、牛馬の入浴数は一か年牛二、〇〇〇余頭、馬一、五〇〇余頭に及んだとある。
 また宇和島藩においても正徳元年(一七一一)には藩内の畜牛は四、二一二頭と記録され、放牧場も領内御荘組内で二五か所、七二〇町八反に及んだとあり、安政元年(一八五四)には藩主伊達宗城は秋田県新庄の牝馬二頭を西宇和郡三崎村に放ち、仙台馬を牡馬として、盛んに改良を奨励し、地域の人競いて斯業を営み、毎戸ほとんど産馬を行う盛況となった。
 このほか西条藩でも慶長五年(一六〇〇)の加藤・藤堂約定書に、「牛馬放し所」の交渉が見られ、さらに牛馬市場として野尻市(久万町)・大洲市・五十崎市・喜木市(保内町)の如きは界隈最大なる牛馬市が発達し、豊後、土佐、阿波などの諸国より牛馬商が入り込む状態から、あるいは越智郡玉川町鈍川に郡内第一の高山楢原山あり、山頂に牛馬の守護神として、農民の信仰の篤い奈良原神社がある。この神社は毎年旧暦八月の初丑の日が例祭で、この日は東中予をはじめ遠く中国、九州でも作られた奈良原講の講中で参詣し、神札を受けてもどり、これを農家の駄屋に貼って牛馬の安全を祈った。同じように南予の三間町字則にある弘法大師開基の四国八八か所、第四二番一課山仏木寺は、大同二年(八〇七)この地に来錫した弘法大師は、一老人の引く牛の背に乗せられた。すると楠の大樹があり、その梢に在唐の砌投げかけられた光を放つ宝珠がかかっていたので、ここを霊地と感じ、その楠で大日如来を刻み、宝珠を白毫として納めて開創された寺で痘唐除けと、牛馬家畜の守り仏として信仰されてきている状態から推して、当時の伊予一円における牧畜業の一端がうかがえる。

 牛馬の飼養と利用

 牛馬は古代においては主に国家や貴族が所有するもので、富裕な農民や地方の豪族が所有するようになったのは、八世紀の中ころからである。近世に至って中下層農民の小所有や無所有者は牛小作となった。
 中世以前の牛の飼養目的には、農耕・採肥のほか一部支配階層においては牛車・乳利用などがあった。近世になると一般市民による農耕・駄載が普及し、農外利用として車運搬が盛んとなり、また商品としての牛の取り引きが盛んになるにつれて、体格の向上をめざして「国牛十図」による相牛を中心とした選択淘汰が行われるようになって、次第に優良牝牛を基として、いわゆる蔓牛の造成が行われるようになった。このように一般には牛は平和な農民のものとして認識されているけれども、馬は戦争と支配者のものとされてきたが、近世初期、型に耕が普及するにつれて、馬耕の優位点なども認められるようになって次第に馬耕の割合も多くなってきたが「牛は耕作の先達」、「馬は運搬に用ふる」として駄載・運搬には馬が主として用いられて、牛は補助的に用いられた。
 厩肥の利用については中世以前の地力の維持増進は、刈敷依存によるところが大きく、特に山間部や後進地にこの傾向が強かったが、近世に至り農耕の集約化につれて、厩肥の利用が進展した。
 乳利用については、平安朝時代は貴族の生活の中に牛乳・乳製品が食用・薬用・供饌用として定着していた。肉食禁止令の布告などにより乳利用もなくなり、明治になって乳用種が輸入されるまで長い間肉利用と同じようにその利用は振るわなかった。