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愛媛県史 社会経済1 農林水産(昭和61年1月31日発行)

第二節 明治前期・中期


 資本主義的牧畜政策推進さる

 家畜なき奇国とまで外客を言わしめたわが国の畜産は、維新この方文字通り欧米畜産の導入・培養発展の軌道を直進する過程をたどった。
 従って維新政府は、かの安政開国以来、しばしば先進欧米資本主義の強圧する植民地化の危機を脱出する必要から、商業資本の産業資本への転化促進によって資本主義的生産方法を急速に採用し、政治経済体制~産業体制~勧農牧畜開墾政策の確立を急ぐこととなった。特に農業上の変革と思われる、身分制の撤廃、田畑の勝手作りなどにより封建制の束縛から解放されて、農民は自らの創意を発揮し、農業発展を促す絶好の契機であったが、士族救済などのために、士族的地主的類型の畜産経営が、次項に紹介するように県下各地に見られた。
 一方この頃小農による養豚業も今治、川之江、吉田などではじまり、次第に南予地方にも非資本的類型の小農民経営の牧畜業が行われはじめ、明治一二年には県立牧場建設の計画も起こり、すでに資金一、八一三円を以て設計もされたが、時期尚早の理由をもって中止とはなったが県内の牧畜事業が着々と進むに伴い、政府や県による優良種畜、種禽の生産並びに海外よりの導入貸し付けや牛馬市場も明治一七年には四〇市場に及び、次いで明治二一年県立獣医学校の開校、飼肥料作物として紫雲英の栽培がはじまるなどの奨励事業も多くなってきた。
 しかし反面では明治八年ころの国家財政は九〇%近くが地租に依存したため、高額地代のもとで生産農民は急速な没落と小作農への転落を余儀なくされ、加えて土地の官民有区分により農民の入会林野や共有牧野などの牧畜の基盤が奪われ、辛うじて米作を補完する零細農耕制の畜産業が強いられる時代となった。
 従って以後は行政が実施する事業としては僅かに種牡牛検査が行われる程度で、しかもこの検査員は県属および獣医学校教員の中より一名を嘱託した。明治二五年獣医学校閉校後は県属一名が担任したが、明治二七年からは開業獣医を臨時に雇い上げて検査を実施するという始末で、文明開化のシンボルとした洋服を着て牛肉を食べ牛乳が飲める畜産への憧憬は夢でしかなかった。

 丸腰の旧士族ら牧畜に采配振るう

 古来南宇和郡の牧畜は、本県畜産の文字どおり牛耳をとっていたことは、少しも偶然ではなかった。旧藩主伊達宗城が新政府の殖産興業の采配を振るっていたこともあり、その地位と熱意が原動力になったことは疑う余地はなく、明治の初期の南予地方の牧牛はめざましかった。南宇和郡内の二九か所に、大小合わせて七二一町余歩の牧場が存在した記録があり、中でも深浦の小幡進一は東外海の田手浜から荒谷に至る自己所有の五〇町歩および共同原野三〇町歩合わせて八〇町歩の大牧場を開拓して三〇〇余頭の牛を飼っていたといい、その後次第に構想を拡げ高知県まで進出していたが、不幸にして病魔に倒れたと言う。やむなく実弟の素や孫の健一郎らが小幡の遺志を嗣いだが明治三〇年ころ牛価の大暴落により潰れたという。昔からこの地方には入会牧場が多く初夏から秋分にかけて牛の群が点在し恰も南欧風の放牧風景が至るところに見受けられたという。
 また当時宇和島藩では旧藩士や身寄りのない廃疾者らを糾合して協救社を結成し養豚業を起こし民部省から種豚の払い下げを受けている。これに歩調を合わせたように旧天領の川之江村をはじめ今治、吉田各藩士の面々も協救社支社を起こしたが例の徴兵騒動のあおりを喰って失敗した。一方中予地方でも旧武士階級の活躍はめざましく松山南堀端の士族稲川元澄は九斤鶏の新種を飼育したり明治八年一〇月には内務省勧業寮で牧羊生徒の募集があり西堀端の士族飯島豊が率先して応募し次いで同一〇年には温泉郡荏原村梅ノ木、南吉井村田窪、井口、前川、川田、北宇和郡畑地村上植などを牧羊候補地として調査、松山藩士族足立義久を牧牛伝習生として従事させるなど万全の策をとった。同一二年に至るや県では県営牧牛場の設置を計画、一、八〇〇余円の予算を計上して設計をしたが時斯尚早の意見が強く実現をみなかった。しかし続いて優良種雌牛や子牛導入や去勢牛の預託飼育なども試みた。
 一方牛乳処理についてもこれまた宇和島藩士松井俊信らが先鞭をつけ、明治五年に早くも帝室御料牛乳搾取所で実習し宇和島で牛酪・乾酪・粉乳・練乳などの製造をはじめる一方、松山でも明治六年野沢弘武が道後のお竹藪(公園)と由利島の貸し下げ申請をして製酪業を計画した。大洲方面でも藩士下井小太郎、磯田勝任、村越正雄らが開始、越えて九年には松山の足立、林らが一番町で搾乳業をはじめるなど丸腰になった侍族が日本刀の代わりに鍬や鎌を振るって牛糞や藁ぐろにいどみ、各地で大奮闘を展開して明治の畜産業の基礎を打ち樹てたのである。