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愛媛県史 社会経済4 商 工(昭和62年3月31日発行)

五 行商①

 庶民と行商

 近年、わが国ではフランスのアナール学派の影響もあって生活史あるいは社会史に対する関心が高まっている。それとのかかわりで行商の歴史も無視できない。行商の歴史は古く、人間の暮しのあるところ行商の歴史があり、それは洋の東西を問わない。また歴史の中で、これほど汗の臭いのする歴史もないであろう。
 行商の取扱い商品は、主として生活必需品である。行商人は自分の住む土地の産物やその他各地の商品を持って各地を旅する。山間僻地を旅する彼らは商品ばかりでなく、遠く離れた町の遊びや出来事を伝える役割をも演じた。だからこそ人里離れた僻地の人々は年に数度の彼らの訪れを楽しみに待った。しかし近代交通の発達と大量輸送時代の到来は、行商人の活動の場を奪っていった。交通・通信の発達により、都市は自己の商圏の中

に山間の農村地帯までを含むに至った。今日、行商は極く限られた地域で、年老いた人々によって行われているにすぎない。

 愛媛の行商

 本県の桜井・松前・睦月・八幡浜の行商は全国的に知られるところである。特に桜井の行商は、わが国月賦販売の発展に多大の貢献を果たし、かつ桜井は月賦販売発祥の地でもある(以下、行商について明治から昭和までを対象としている)。

 合田の行商

 八幡浜の合田の行商から始めよう。八幡浜は水産業ばかりでなく、養蚕・綿糸・綿布の産業のほか、醸造業の発達をみた町である。商工業の発達は金融機関の必要性を生み、明治二一年(一八八八)には八幡浜銀
行が、明治二九年には八幡浜商業銀行が設立されている。大正二年(一九一三)ころには上記の銀行のほか八幡浜貯蓄銀行、西宇和郡川之石の第二十九銀行八幡浜支店が開設されるなど、八幡浜は、その地方の金融
中心地になっていた。明治期における繊維工業の隆盛で、八幡浜は「伊予の大阪」と呼ばれるまでになった。当地で織られた商品は、八幡浜市西南部の豊後水道に面した小邑である合田の人々によって各地へ売られ
ていった。
 さて、合田の行商がいつごろから始まったのかを知ることは難しい。ただ江戸時代の末期ごろに、海産物(煮干鰮)を持って喜多郡や北宇和郡の地方を売り歩く合田の人々の姿をみることができる。明治になると
八幡浜の繊維工業の成長とともに、これら工場の製品を合田の人々が行商の取扱商品として注目することになる。そして行商の範囲も近代交通の発達もあって、周辺地域から次第に阪神地方や東北・北海道・九州と
全国各地に拡がっていった。遠隔地行商では、合田の人々は比較的大きな都市を避けて、都市の商圏のあまり及ばない僻地を売り歩いたように思われる。その中で彼らが販売した商品とは、木綿・毛織物・絹織物・
すぼし・いりこ・しの巻・和紙・畳表・木綿・日用品などであった。これら商品のすべてが八幡浜産であったのではない。例えば畳表は岡山から仕入れ、土佐で売られていたし、すぼし・いりこの海産物は土佐で仕入れて、阪神地方で売られている。本来、行商とは行商人の住む土地の産物を売り歩くものであったが、行商活動が活発となり、商圏が急速に拡大していくにつれて、取扱い商品に各地から仕入れた商品が加わっていった。合田の行商も例外ではない。彼らが売り歩いた商品の販売数量は、大正一五年(一九二六)の数字で示すと綿布(浴衣・木綿縞・裏地・かすり・天竺・晒布)の販売数量四、四〇〇反、絹布(銘仙・御召・高貴織・羽二重など)のそれは三、三六〇反である。また絹織物(節糸織など)の販売数量は二、二四〇反、毛織物一、一二○反である。合計二万一、一二○反の総販売数量である。
 合田の行商従事者の数は明治期については不明である。大正末期でみると行商専業の者七〇人、半農半行商の者九〇人で一六○人の者が行商に従事していた。当時の合田の戸数が一八〇戸であるから、大体九割近
くの家で行商者を出していたことになり、合田の小邑が行商に強く依存していたことがうかがえる。合田の行商人が遠隔地を訪ねる場合、その目的地の宿所を拠点として、そこに商品を送った。宿所に集まった者達
は、この到着した商品を先輩から分譲してもらい、これを持って各地に分散していった。行商の売り上げ金額も大正末斯で、一日で三、〇〇〇円を達成する者もあらわれ、行商で大きな売り上げや利潤を手にする者
は決して珍しくはなかったようである。桜井や睦月・松前の行商でも、このような話しが伝えられている。桜井では行商で成功したことを物語る家や記念碑を見ることができる。
 明治・大正・昭和初期にかけて、合田の人々が彼らの住む周辺地域から次第に九州、北海道にまで行商の販路を拡げていったのであるが、この行商がなぜ、注目されるまでに発展していったのか。その理由には幾つかの点が考えられる。その第一点は八幡浜の地形に帰せられよう。平地が少なく前方を海に、後方を山地に囲まれていて、農業には不向きな土地であった。つまり必然的に海へと生活の活路を見い出さざるを得なかった。このような立地条件と、さらに第二点として幕末時代から高橋長平らが長崎貿易を営んでいた伝統も考慮されよう。長崎貿易では櫨実・蝋・茶・銅・和紙・海産物の産物が当地から長崎へ積み出されていった。対価として長崎から八幡浜へは、天竺木綿・更紗などがもたらされ、これらの移入商品は大阪方面へ売られていった。この再移出貿易から大きな利益をあげることができた。このような商業の伝統のほかに八幡浜の人々の進取の気風があげられよう。例えば大正三年(一九一四)二月の川名津の萩森音次のほか真網代・穴井の出の者達一六人のアメリカ密航事件は、そうした一端を示すものであろう。彼らはアメリカから強制送還されたにもかかわらず、再度、アメリカ渡航を企てている。
 立地条件、商業精神、人々の気風、このような土地風土が八幡浜の行商の発展に大きく作用していたと言えよう。

 松前の行商と滝姫伝説

 オタタと人々の間で呼び親しまれてきた松前の行商の歴史は古い。その行商の範囲も松山周辺域から戦前期には中国大陸・樺太にまで及ぶに至る。この段階になると、もうかつでのオタタと呼ばれた女性の振り売
り時代から、男性がオタタと一緒に行商に出る(夫婦)形態を取り始める。
 まずオタタの由来からみていこう。この由来には幾つかの説がある。
 第一の説は滝姫伝説から出たものとする説である。つまり滝姫、通称おたき様が、オタタになったとする説である。滝姫伝説を『松前村郷土誌』によって述べてみよう。慶長年間(一五九六~一六一四)、京都の
ある公卿の娘滝姫は、ある事情から泉州堺の港から流され、武庫の海、播磨灘を流れて松前の海岸に漂着した。地元の漁師達は物珍しがって集まり、やがて彼らは親切に滝姫の世話をし、滝姫は松前に永住すること
になる。滝姫は生活を立てるため売魚婦となって松前城下を売り歩いた。滝姫は一般の人々が利用できなかった平打の銀かんざしをもって、黒髪を巻いて、どんす(緞子)の帯を前に結び、黒羽二重の紋服の裾をからげるという、いでたちで「魚買え、魚買え」といって町中ばかりでなく、武士の住む堀の内にまで売り歩いた。当時の人々は尊き姫に同情して、「おたきさま、おたきさま」と呼んでいた。武士といえども姫を呼びすてにするものはいなかった。松前のオタタは、このおたきさまが転化したものであるとする転化説がオタタの由来として最も代表的なものである。
 なお滝姫は五十数歳で病没、地元の人々は、これを悼んで松前町古泉に葬り、そののち神に祭って今もその場所にお宮がある。当時、松前の売魚婦も皆、この滝姫にならって同じ姿で「魚買え、魚買え」と城下を
売り歩いたと伝えられる。
 第二の説は、加藤家遺臣の婦人が行商するところから、人々の間で松前のお方」と呼ばれるようになった。そしてこのお方が、「オタタ」になったとする転化説である。
 第三の説は、オタタとは、幼児の言葉の、おとと(御魚)の転化したものであるとする説である。この、おとと転化説を強調する意見もみられるが、しかし賀川英夫は、『おたた研究』の中で松前では、おととよ
りも、むしろ「ぢぢ ぢぢ」と魚のことを呼んでいるとして、おとと説に異議を表明している。
 第四のオタタ由来説は、「イタダキ」(頂き)の転化したものであるとする説。滝姫が松前にたどり着いてから、やがて地元の漁師と一緒に魚をとり、そして京都の大原女のように頭上に桶をのせて松山城下を売り歩いて暮しを立てていた。この姿を松前の婦女子達がみて、滝姫にならって頭の上に桶をのせて市中を行商してまわり始めた。この頭上にのせたそれをイタダキと呼び、これがタタに転化したとする見方である。
 ところで、頭上運搬をさして近畿・四国地方では、イタダキと呼ばれていた。また同じ意味で、カベリ、サザゲなどとも呼ばれた。カベリ、という表現は四国地方・中国地方・九州地方でみられ、またサザゲは伊
豆諸島で頭上運搬をさす言葉として使われていた。
 運搬には人力運搬・畜力運搬・動力運搬など、さまざまである。最も原始的なものは人力運搬である。そしてこの人力による運搬方法には、オタタのように頭上にのせるものもあれば、肩に担うもの、背負うもの
、腰にさげるもの、といろいろであり、その部位によって、それにふさわしい用具があみ出されていた。オタタのような頭上運搬についてみると、頭に布・藁で輪形の頭当てをつくり、この上に桶あるいは壷、寵な
どの容器をのせて歩いた。松前のオクタは、頭の上にゴロビツ(御用櫃、あるいは御用桶)や桶のかわりに笊(シタミ)をのせて行商に出向いた。頭上運搬の中で、やや変わったものとしては沖縄・奄美諸島・伊豆諸島・北海道のアイヌの集落地でみられるような、負いひもを前頭部にかけて運搬する方法、一般に頭部支持背負い運搬と呼ばれる形式のものもある。四国地方では、松前のオタタに類似したものを徳島県にみることができる。
 徳島県海部郡由岐町阿部・伊座利は、農地のない漁村であった。ここでは海産物を頭にのせて行商する婦女子がみられ、彼女達のことを一般にイタダキサンと呼んでいた。彼女達も松前のオタタと同様、行商範囲
を次第に遠隔地へと広げていった。瀬戸内海沿岸地域・関東・北陸・北海道をはじめ九州さらに朝鮮にまで行商の商圏を広げていった。また取扱い品目も海産物から次第に反物・陶器類にまで及んでいた。陶器につ
いては佐賀県の唐津から仕入れており、彼らの船をカラツ船とも呼んだ。これは、また今治の桜井の行商とも大変酷似している。ところで、この徳島のイタダキサンの行商も関東・北海道・九州のような地域に進出する段階になると、行商の主力は女性から男性へと移行していった。
 頭上運搬による行商は、中世にまで確実にさかのぼることができる。販女と呼ばれる女性の行商も、やはり頭上運搬であった。
 さて松前のオタタの言葉の由来が、どのあたりから生まれたのか諸説あって定かでない。松前のオタタを滝姫伝説に結びつけていたほうが、なにか歴史的ロマンがあり面白味もある。最後にオタタの言葉そのもの
は、女子を指す意味で用いられていることを一言つけ加えておこう。例えば富山県地方では、女の子の軽い尊称で用いられ、また新潟県中部地方では、お母さんの意味をもつものである。徳島県の美馬郡では、主婦
・おかみさんを意味する。

 オタタ行商の背景

  五月雨や 漁婦ぬれて行く かかへ帯

  五郎櫃を 追いかけて行く 蜻蛉哉

 正岡子規が句にも詠んだオタタが、本格的に商業史的観点から注目され始めるのは、やはり取引規模が大きくなる大正以降のことであろう。そしてこの段階では、行商の主力は男性へと移っていった。
 松前のオタタは、慶長八年(一六〇三)の加藤嘉明の松前城から松山城への移城の時代から、人々の間でよく知られるところとなった。その点をもう少し述べてみよう。加藤公が慶長五年、関ヶ原の戦いで戦功を
たて、七万石から二〇万石に格上げされ、その権威を誇示するためにも移城が必要となった。もちろん、このほかにも松前城の規模が小さく、風水害に悩まされたことも松前城から松山城への移城の一因であった。この移城の際に、松前のオタタが城の石を桶に入れて頭上運搬した。その功績にたいして加藤公は、松山城下での行商について一切免税扱い、という特権を付与した。また彼女達が城北地域の多数の寺院の建設にも協力を惜しまなかったことから、藩はオタタに営業税免除の特権を与えた。その際、彼女達の桶に御用櫃の焼印をなし、これが鑑札として通用することになった。オタタの藩主に対する功績から営業税免除の特権が与えられ、松山城下の中で人々の知るところとなった。彼女達に対する営業税免除の特権は、廃止されることなく明治になっても存続していた。賀川英夫によれば、明治八年(一八七五)県税として営業税が設定され、免税点以下の者は府県税としての営業税が規定されることになったが、彼女達には、その収入の少ないところもあって慣習的に免税が認められていたとの事である。そして、さらに明治二九年(一八九六)三月に国税としての営業税が設定されるが、物品売買業の場合、売上高二、〇〇〇円以上が課税対象であり、オタタの場合、県外への遠隔地行商へのり出すまでは、その売上高も課税対象には該当しなかったようである。
 さて、加藤嘉明が松前城にいた時代、松前藩は城下の港として殷賑を極めていたであろうことは想像に難くない。しかし松山城への移城は、松前港の要港としての地位を奪うことになった。そして三津浜が松山の
城下の港として発展することになる。かくて三津浜港は松山を後背地として発展、郡中は砥部・中山・広田の地方を後背地にして発展するが、松前港はそれと対照的に衰微をたどった。港の機能か後退していく中で
人々は、その活路を漁業に見出した。漁師のとった魚をオタタが松山城下へ振り売りに出歩くことになる。
 このオタタの近接地行商に始まって県外への遠隔地行商に至る松前の行商の従事者は、新立・本村から成る浜地区から多く出ている。今、この松前地区の就業分布表でとらえてみよう。それでみると、浜の場合、筒井・南黒田・北黒田に比較して農地が少なく、農業依存度の低さが目立つ。他方、浜では漁業が盛んで、南黒田・北黒田では漁業に対する依存度はゼロであり、筒井では一戸にすぎなかった。それともうひとつ浜の特徴は、他地区に比較して人口数が極めて多いことである。しかも女子人口が男子に比べて多かったということも数字の上で確認できる。もし、松前地区に十分な労働力を吸収するほどの工業の発達をみておれば過剰人口に雇用機会を提供することも出来たであろう。しかし実際はそうではなかった。たしかに北黒田では武智勘次郎・佐伯呉三兵衛の二人が甘庶の栽培から砂糖製造の事業に着手しているが、失敗に帰している。一時期には砂糖製造戸数一五戸、就業者一〇八人に及んだが、外国産の砂糖におされてしまったことによるものである。また絣生産も明治三八年(一九〇五)ごろには年間産出額三万五、〇〇〇反以上にまでなったが、国内各地で織られた商品と競合して、結果的には生産過剰となり不振に陥った。一時期には機業戸数五八戸、従事者四二〇入であったものの次第に衰微し、明治四二年(一九〇九)には絣の年間生産額は九、二一二反でしかなかった。このように松前地区の産業の不振から人口の多い浜地区では、生計維持のため漁業からの収穫物を行商で婦女子が振り売りに出向いたものと考えられる。そして大正時代には缶詰行商を通じて男子が中心になって県外へ進出していった。
 浜地区から行商が盛んに出たことは、農地が少なく人口が多いといった背景によるものである。明治四四年の『松前郷土誌』には、余剰労働力の多さを裏づける数字が示されている。出稼人口数はそのひとつであ
る。明治四二年の松前地方からの出稼人口数は八〇五人、そのうち七〇%を浜地区が占めていた。浜地区は大正・昭和にかけても他の南黒田・北黒田・筒井の地区に比べて人口は多かった。しかも女子が多いという傾向は変わらなかった。
 松前の行商の積極的展開は、今、見たように農地が少なく、漁業に活路を見出さざるを得なかったこと。しかも女子労働力の多さ、ここに婦女子を使って漁獲物を売る行商スタイルがとられたと理解できよう。そ
してさらにこれから遠隔地行商へと発展をたどっていくのである。

 行商圏の拡がり

 松前の行商も近接地商業では一人の販売量にも限度があり、当然、利潤にも限度があった。この商業上の限界を打ち破るために行商の県外進出が生まれてくる。前にもみたように藩政時代、行商の範囲は松山城下
とその周辺であった。しかし明治になると近代交通機関の登場は行商の範囲を大きく変えた。鉄道が敷設されるまでは行商の距離も一〇キロメートル程度の日帰り行商圏にとどまっていた。しかし明治二七年(一八九四)
に松山~郡中間の鉄道開通、二九年に松山~森松線の開通、そして三二年の松山~横河原線の開通は、松前の行商圏を一〇キロメートル範囲から松山市駅を起点として一五キロメートルにまで拡大していった。つまり松前・郡中
・松山・上伊予・南伊予・北山崎・南山崎・余土・原町などの一〇キロメートル地域から道後・味生・久米・桑原・小野・砥部・坂本・荏原の各村々の一五キロメートル範囲にまで日帰り行商圏の拡大をみた。また上灘・中山・佐礼谷も日帰り行商圏に組み込まれている。鉄道に加え、そののち自動車交通の普及がみられる。大正一二年(一九二三)ごろに松山と八幡浜・久万・内子間で乗合自動車が走るようになり、これにより久万町・明神村・川瀬村・広田村が行商の範囲に入った。距離にして三〇キロメートル圏内である。しかし、この範囲に及ぶと松前のオタタ行商も、日帰り行商の形から一泊以上の行商へと移っていったのではないかと考えられる。
 松前のオタタ行商から缶詰行商へと遠隔地商業への進出が大正ごろから本格化し始めるが、しかし遠隔地商業そのものは浜の男達によって陶器行商の名で行われていた。この陶器行商の始まりは、松前の背後地に
陶器の生産地砥部がひかえていたことによる。現在の松前町役場から七キロメートルの距離に砥部が位置していた。砥部の生産者は比較的近接地に陶器
の積み出し港を見つけることは決して難しいことではなかった。松前の商人は陶器を港まで運び、港から四国・中国・九州方面へと送り出した。明治初年には松前には四〇軒もの陶器問屋が軒を連ねるほどの賑わいで、その面影は今も残っている。また松前の港を臨んだ所に住吉神社がある。ここには神社改修の際の砥部焼業者の寄付者芳名の石碑があり、我々に松前商人と砥部焼業者の深い商業関係のあったことを語りかけている。
 明治四〇年(一九〇七)には松前の港には四〇~五〇隻の陶器行商船、一般にカラツ船とか、五十集船あるいはわいた船と呼ばれる船が輻輳していた。販売陶器も砥部焼を主体にしていた段階から各地で需要のある多治見・瀬戸の焼物・伊万里の焼物など幅広く取扱い始める。ちなみに昭和三年(一九二八)の陶器仕入先とその価格をみると、砥部一七万円、多治見六万円、三島(愛媛県)五万円、伊万里五万円、瀬戸四万円、信楽五、〇〇〇円、出雲三、〇〇〇円といった具合で、県外産陶器のシェアーは四〇%に達していた。行商日数も三~六か月、さらには一年と長期間に及ぶもので、行商者の中には皿まわしをしながら客寄せをして売りさばく者もいた。
 松前ではこの陶器行商に加えて、大正期ごろから缶詰行商と呼ばれるものがあわられる。この呼称は松前の行商人が缶に商品を詰めて行商に出かけたところから出たものとされる。その起源も一説によると旧士族
岡本通馬であると言われる。またある説によると泉州・堺の和田甚四郎であるとする説もある。後者の説によれば大正二年(一九一三)に彼は松前町の鶴田トヨノと結婚した。甚四郎は石けん行商、トヨノは煮干な
どの行商に出た。甚四郎は、行商生活の中で奈良県が陸封地帯で海を持だないところから小富士煮の販売を思いつく。これを料理屋・宿屋などに販売し利益をあげた。そののち甚四郎自らが小富士煮を自家製造し始
める。加工した商品を缶に詰めて行商を行い、次第に県外を対象にした缶詰行商が松前の人々の知るところとなり、一般化していった。その普及は、既に陶器行商で県外各地の市況に松前の人々が少なからず通じて
いた土地柄も一因していたであろう。 缶詰行商ではオタタの役割は大きなものであったことは言うまでもないが、行商地の選択・決定では男性の果たした役割が大きかったものと思われる。缶詰行商の範囲も全国各地にとどまらず朝鮮や台湾などにも及んでいた。昭和五年(一九三〇)の松前行商人の県外行商地をみてみよう。樺太一〇三人(男七三、女三〇)、北海道二一五人(男一三〇、女八五)、東北五二(男二五、女二七)、東京一〇七人(男五五、女五二)、中部九五人(男七五、女二〇)、近畿二九〇人(男一六○、女一三〇)、四国四四人(男二〇、女二四)、九州二四〇人(男二〇〇、女三〇)、朝鮮一八五人(男一三五、女五〇)、台湾七七人(男三五、女四二)、の計一、四〇八人(男九〇八、女五〇〇)の数であった。朝鮮・台湾の外地には二六二人の人が出かけていた。行商者の中には、北海道で行商をして、この地が一〇月ごろから降雪期に入るため、この時期を台湾で行商する者もいた。また行商者の中で成功し、資力を蓄えた者は行商先で自ら工場経営を行い、その商品を自己の行商得意地区に売子を通じて代理販売する者もいた。
 昭和五年(一九三〇)に一、五〇〇人にも及んでいた缶詰行商者数も昭和一四年(一九三九)には四〇三人へと減少している。行商者数の減少は、わが国の戦時体制への移行と関係しているのかもしれない。昭和
一三年には、国家総動員法が公布されている。しかし戦時社会の中で大陸への行商者数は五〇人に及んでいた。彼らの多くは軍隊の移動先に料理屋・カフェーができるため、それらを相手にしていた。中国大陸奥地
に行けば行くほど危険は伴ったが、そこでは物資が不足しており、商品の売上げも大きかったようである。なお昭和一四年の缶詰行商先をあげておこう。千島・樺太二〇人、北海道六〇人、東北一八人、関東・北陸・中部・近畿二五人、阪神地方一五〇人、中国二〇人、四国(特に高知)一〇人、九州二〇人、朝鮮一五人、台湾一〇人、満州・中・北支五〇人、海南島五人の総計四〇三人であった。

 睦月の行商

 忽那七島の一島である睦月は、明治期のころから反物行商が盛んとなった島である。この睦月は周囲三・三平方キロメートルの小島で、かつては牟須岐・無月・無須喜とも呼ばれていた。明治一一年(一八七八)の『伊予国風早郡地誌』によれば、睦月島は「薪ニ飽キ、炭ニ乏シ、魚多ク塩少シ、土居港碇繋ノ便ナルヲ以テ隨テ運輸ノ道ヲ得タリトス」と記されている。この島の高松山の頂上には高さ七間ほどの一本の老松があって、船舶航行の目標になっていた。『風早郡誌』によれば戸数二一五戸、人口数一、〇九二人の島である。荷船は五〇石以下のものが五七隻で漁船はわずか九隻であった。島でありながら漁業に対する依存度は低く、漁業従事戸数は一四戸で、農業従事戸数が一九二戸であった。これに対して野忽那島では総戸数一七二戸、人口数九五二人で、五〇石未満の商船一隻、漁船一三四隻である。
 さて睦月が明治に入って全国各地へ反物行商に進出していった下地は、藩政時代から沖に碇泊する船に対して薪や野菜を売っていたところから出来あがっていた。瀬戸内海海上交通路上にある睦月は、昔から船乗りの間で潮待ちや避難港として利用されてきた。そのため島民の間で、これらの船に対して食料や縞・絣の商品を売り訪ねる風習が自然のうちにうまれていた。また大阪・尾道方面にまで北海道から「にしん船」が寄港し、これらの船が睦月の近辺にまで航行してきた時にも、睦月の人々は商品を小船に積んでにしん船を訪ねていた。沖売りを通じて睦月の人々が遠い町のもうけ話しを聞いていたことは想像に難くない。
 沖売りという初期の行商形態から明治になると遠隔地行商へと発展していく。そして取扱い商品も反物が中心となっていった。行商先へは明治中ごろ、長さ一〇メートル、幅三メートルたらずの小船でもっぱら帆と櫓の力にたよった。これらの船は「五ひろ舟」と呼ばれ、そののち「五ひろ舟」から「八反舟」へと代わり、大正期には機帆船へと移っていく。一隻の舟には親方と一〇人前後の売り子が乗りこんでいた。舟の中で寝食を共にしながらの生活であった。売り子は目的地で商品を売り、夜は船の中で寝る。彼らが寝ているときに親方は櫓をこいで舟を次の目的地に進めていくのである。反物の中には睦月で造られたものもあったが、一般には松山で伊予絣を五〇〇反とか一、〇〇〇反買って舟に積み込んだ。また八幡浜の酒六や広島の立石商店や岡山からも仕入れていた。酒六や立石商店と睦月のつながりは強いものがあったようで、酒六は村の会堂に柱時計を寄贈したり、立石商店は野忽那の学校に寄附金を贈ったりしている。行商先では売り子は親方の仕入れた反物を販売したが、その売り上げ高も一日三〇〇円から五〇〇円に達する者もいた。行商先は全国各地に及び、対馬・奄美大島、さらに朝鮮にまで足を伸ばしている。行商者の中には行商地に商店を構えて、盆と暮れの年二回、島に帰る者もいた。また得意先と親しくなって結婚する者もいた。行商は長期間に及び、行商者に子供が生まれると子守りを雇って、一緒に行商の旅を続け、また就学年齢の子供は島の祖父母などに託した。結局、島民のほとんどが行商に出たため、島内には老人・子供・病人などが残ったにすぎなかった。
 昭和になると戦時色が濃くなり、行商にもその影響が及んできた。衣料品統制がそれである。しかし昭和二四年(一九四九)には衣料が自由販売に切りかわったため、再び行商は復活し昭和二六年当時、行商者数
も七〇〇人の多きに及んだ。行商先でみると、北九州が多く次いで北海道・東北・平城・宿毛・五島列島などである。このころの仕入反物は京都の銘仙、名古屋の服地、大阪のキャラコなどであった。しかし戦後の
高度経済成長の波とともに睦月の行商は衰退の道をたどる。全国各地で都市の商圏が広がり、行商地がそれらに組み込まれていったこと、あるいはまた睦月島内においてみかんの栽培経営が始まったことによる。
 昭和三九年(一九六四)の睦月の行商先でみると都市部周辺域はなく、奄美大島など辺鄙な所に向かっていることが分かる。
 昭和の高度経済成長時代下、睦月の経済事情も大きな変化を遂げた。島内におけるみかん栽培の普及はかつての行商や、あるいは大洲の酒造りや萩への出稼による生活の維持の苦労から島民を解放することになる


 桜井の行商

 愛媛の行商の中で、さらには、わが国の行商の中で最も注目されるのは桜井の行商であろう。一般に行商は明治・大正・昭和の三世代を生き抜いてきたものの、多くは栄枯盛衰の道をたどるものであった。しかし
桜井の行商は違っていた。桜井の行商者達の間から一般大衆消費時代を先取りするような形で、独自の月賦販売の道を切り拓こうとするパイオニアがあらわれた。そして今日、わが国の月賦販売業者の多くが、桜井
出身者あるいはその子孫達によって占められるまでに至るのである。現在、わが国の行商の歩みを振り返って見ても、近代商業制度の発達の上で偉大な足跡を残したのは、この桜井の行商のみであったと言える。

 桜井の位置と行商の始まり

 桜井は東を瀬戸内海に接し、後方を南は長沢村(現今治市)、北は国分村(現今治市)、西は且村(現今治市)に接する東西一八町、南北一里一五町余りの土地である。農地は限られ半農半漁の土地である。明治
初年の『地理図誌稿伊予国越智郡』によれば、桜井は戸数五八〇戸、人口二、五三九人(男一、二九七人、女一、二四二人)と記され、農業に特に適した土地でもなく、米麦の産物以外、見るものはなかった。ただ
桜井では漆器を製造して諸国に販売して生活をする者多し、その一歳商うところ(年商)四、〇〇〇円前後であった、と記録されている。この諸国振り売りの行商の始まりは、既に藩政時代の「ケンド舟」にまで遡る。
 加藤嘉明の統治時代、家老堀部主膳は拝志北村(現今治市)の管理を加藤公に命じられその任に当たる。元来、この土地は農地に恵まれず生活は貧しい状態にあった。そのため堀部は拝志の人々に竹とカズラで造
るケンド造りを教えた。人々は農業の傍らケンド造りに励み、また蓑・笠・箕をも造って近在で売り歩いた。この近地行商から次第に瀬戸内海沿岸の小邑をも訪ね始める。拝志の人々がケンドを舟に積んで行商に出
たところから、ケンド舟と呼ばれ、海の行商を意味する言葉となった。もちろん隣村の桜井にも行商は伝わった。明和二年(一七六五)に桜井・且・登畑・宮ケ崎・長沢・孫兵衛作・朝倉上・朝倉下が天領地とな
ったことは、土地の人々に藩支配下の時代よりも行商活動を自由にさせた。ケンド舟は紀州黒江や淡路の港にも姿を見せ始める。ただし、紀州黒江とのつながりは桜井が天領下に入る前の宝暦時代ごろからあったと
されている。「紀州黒江には伊予方面から椀の荒木が入っていたが、これを積んで来た船が漆器を積返り、また九州から陶器を仕入れて瀬戸内海を行商した伊予船がたまたま黒江へ寄港して漆器に着目、これを仕入
れて行商したところ御三家の紀州の産物であると好評を得たので引続き取引をはじめたと言われている」(冷水清一著、『海南漆器史』八七
ページ)。
 桜井の人々は紀州黒江で木製燭台を買いつけ、これに漆をぬって高く売っていたが、しかし後になると彼ら自身が漆器製造にのり出すことになる。磯部喜一の『日本漆器工業論』によれば、桜井の漆器製造は文化
年間(一八〇四一八)に始まっていたとみる。そして天保~二~三年(一八三一~一八三二)ごろには月原久四郎によって串指法と呼ばれる工法が開発され、この工法により桜井漆器は堅牢無比の製品として、人々に知られるようになった。以後、桜井では漆器製造の上で一連の動きがみられる。串指法考案ののち、西条から蒔絵師を、明治九年(一八七六)に輪島から沈金師高浜儀太郎を、明治一一~一二年に紀州黒江から宮崎藤蔵を招き漆器造りに当たらせた。明治一九年(一八八六)には加賀の山中という土地から下岡松太郎・岡野平蔵・高本與三吉らのろくろ師、また宮島から稲田政吉・魚谷勝蔵・金子定吉らのろくろ師が桜井に住みついている。これら外部からの技術者の移住は、桜井漆器の名を着実に高めていくことになる。明治二〇年には黒江から桜井に職人十数名が訪れ桜井漆器の製造にたずさわった。
 明治期、桜井は漆器製造が盛んとなり、それはまた販路の拡大をはかることの必要性を認識させるに至る。既に明治一〇年代末に樋口安蔵・横田小十郎・村上大八郎・田村只八らが合資会社国栄舎を設立している
。当社は丸盆などの漆器を製造して、これを大阪商人を介して清国へ輸出する計画を持っていた。しかし実際の輸出に当たっては、黒江・静岡・横浜の漆器にかなり市場を奪われていた。そのためか国栄舎は期待すべき業績をおさめることなく、三年間の短命で倒れた。このような非運なケースもあったが、桜井の漆器の販売は着実に伸びていった。しかし反面、製品の品質低下といった事態も生まれた。これに加えて日清戦争後の不況は業界を不振におとしいれ、ここに明治二九年、苦境克服策として伊予国桜井漆器業組合が設立され、また伊予桜井漆器用指物工養成工場が創設され、徒弟教育にも力が注がれ始める。桜井漆器発展のため、業界一丸となっての企業努力は大正に入っても続けられた。大正五年の桜井漆器業組合丸物部、同九年の桜井漆器同業組合設置、同一一年の桜井漆器原料株式会社創設がそれである。
 桜井の漆器製造・販路の隆盛は、町勢の発展につながった。桜井の港は阪神・中国・九州地方へ向かう汽船の寄港地となり、今治商業銀行の支店の開設は、そのような動きを反映するものであった。
 さて、やや前後するが、再び行商の歩みに戻ろう。行商も、初めは一本の天秤棒を肩にのせての振り売りから、やがて三〇石積みの扁舟をあやつっての行商へと移っていく。桜井の港を出た小舟は櫓の力を頼りに
、あるいは潮流を利用して、あるいは風を利用して瀬戸内海沿岸地帯や九州の玄海灘へと赴いた。各地の港に船を泊めて、これを根城にして親方と売り子が行商に出る。行商先の戸別訪問では、桜井の人達は、「私
は紀伊大納言家の御産物の披露に参りたり宜しく頼む」と切り出して、商いにのぞんだと言われる。
 ケンドなどの農具を扱った行商は、次第に漆器・陶器が加わり、やがて漆器・陶器が行商品の主役となる。春に唐津・伊万里で陶器を仕入れ、これを中国・阪神地方で売り、帰途、紀州黒江で漆器を仕入れて、秋に九州各地で売り歩いた。この行商パターンを、「春は唐津、秋は紀州」、「春は唐津、秋は漆器」と称した。今治の人々が焼物をカラツと呼ぶのも、ここに由来するのであろう。伊予商人の唐津・伊万里・紀州黒江との商業関係は相当密であった。天保六年(一八三五)の『伊万里歳時記』には伊万里港からの陶器諸国積出記録が記されている。これによると伊万里港から伊予へ七、五〇〇俵の積出しがなされていた。これは伊万里港から約四〇か所にも及ぶ移出地の中で関八州(一一万俵)、大阪(三万六、〇〇〇俵)、伊勢(一万六、〇〇〇俵)、備前(一万三、〇〇〇俵)、駿河(九、〇〇〇俵)に次ぐものであった。また伊万里の中下町には儀右衛門という人物が伊予宿を開いていた。黒江では伊予商人を宿泊させて取引をする業者のことを伊予問屋と呼んでいた。彼らの中には五〇人近くの伊予商人を取引相手として持つ者もいた。伊予商人の中には黒江に一週間、一か月と長期滞在する者もいた。彼らの中には黒江の行商先で死んだ者もいた。伊予商人のものと思われる墓石がある。予州越智郡桜井村住、月原清輔、当所於平野屋病死ス、文久(  )年。予陽越智郡桜井浦住人、野村六平墓、天保五年。伊予桜井、田邑和平治、天保七丙申戌九月七日(『海南漆器史』)。これら墓石からも桜井と黒江の結びつきがうかがえよう。そして黒江の漆器を仕入れて九州で売り歩く伊予商人のことを九州の土地の人々は紀州屋さんと呼んだ。
 伊予商人と伊万里の結びつきの強さは、志々満ケ原の綱敷天満宮に残されている。嘉永五年(一八五二)二月吉日建立の石燈寵がそれである(写真参照)。また風呂神社の寄進玉垣石は伊予商人の大坂・佐賀との
商取引のパイプの大きさを物語っている。その玉垣石には大坂長堀・奈良屋、肥前今里・堀側屋七太郎、大阪横堀・伊丹屋平兵ヱ、江戸本郷・山寄文蔵、肥前今里・岩見屋儀右ヱ門、肥前今里・立屋宇右門、加州金沢・伊吹山竹松、大坂船場丸屋仁兵衛ら多数の商人が名を連れてい

る。

 椀舟行商

 桜井の人々が行商の主力を漆器におき始めるにつれて、彼らの行商は椀舟行商と呼ばれ始める。漆器は陶器に比べて軽く、破損率も低く、しかも九州地方で高く売れた。
 椀舟には親方と売り子五~六人が乗り込んだ。どちらも桜井の出身者であり、親方は舟持ちで商品の仕入れをし、売り子はその商品を行商先で売り歩く。明治後期になると舟持親方も次第に姿を消し、親方連中は
、波止浜の廻船問屋から舟を借りての商業経営へと経営形態を変えていった。舟持親方から舟借親方への移行である。
 椀舟行商については明治四年(一八七一)『冬下り和城物語』、明治五年の『肥後降一条有無日記』がその様子を教えてくれる。『肥後降一条有無日記』から椀舟の航路をたどってみよう。「神力丸にて、二月二
二日桜井の河口を出発、同日、今治川へ入る。船頭啓助をはじめ乗組員七人が今治で上陸、翌二三日今治を出帆して予州松山の相嶋に一潮でつく。二六日まで追い風なく網打(錨を下すこと)して休む。二六日防州
上ケ之庄(現上関)まで降りて、翌二七日田之浦へ夜到着、二八日、福浦(現福岡)へまわって三月二日まで同地に停泊する。二日に出帆して地之島へ泊まる。同地で悪風のため六日まで滞留、六日地之嶋を出帆し
たが姫嶋沖で夜に入り、小川嶋に船をつけた。八日、朝から大雨で南風のため心配したが、琴平様のおかげで呼子口ヘつくことができた。八日の暮六つころ、相島(加部島)に入船、良港のため十一日まで滞在、十一日同地を出帆して板之浦に到着、十二日板之浦を出帆して樺島へ着く、十六日天草へ寄り、八代沖小嶋に到着、十七日陸川へ到着、同地で商売をするも、商売にならず。十八日大雨、雷雨、十九日松橋へ入港、商売をする。二〇日荷揚げ、二一日宇土に不知火大相撲見物、二二日、商売始める。」
 桜井を出帆して三〇日に及ぶ椀舟航路の模様である。樺島では「卯市様乗組」と呼ばれる伊予商人の一行と出会ったりしており、彼らの九州各地の行商の一端を物語っている。
 九州では桜井の行商人を椀屋さんと呼び、盆踊唄にも歌われるほど、地域社会に深く入り込んでいたことが分かる。漆器を肩に担いで一日中売り歩いた。九州地方では漆器の需要は大きく、かなり売れたようであ
る。農村部での漆器販売は節季販売方式をとっていたために比較的、農村の人々は買いやすかった。節季方式とは、農村地方では現金収入があるのは、一年のうち秋の収穫時期であるため、春に訪れた椀屋さんは品
物を農家に預け、秋の収穫時期再び訪れた際に商品代金を頂く、また秋に渡した品物の代金は春に頂くといった方法である。年二回の節季勘定から、行商の顧客の中にも都市勤労者があらわれはじめると、彼らの月給にあわせて商品代金の月払い方式が採用され、ここに月賦販売方式が
生まれてくると言われる。しかし節季勘定から月賦販売方式へと直ちに移ったわけではなく、その間に桜井行商者の間で採り入れられていた無尽講式販売があった。「無尽講式販売とは、一〇人くらいが組で一定額
を積み立て、抽選で当選者が順々に品物を受けとる方法」(鳥羽欽一郎、田中淑生共著、『クレジット商法に生きる』)であり、無尽講そのものは古い歴史を持つ。桜井の人々が、いつごろから採り入れたかは、今となっては知り得ない。一説によると村上清三郎という人物であったとされる。無尽講方式は明治の中ごろから桜井の行商者の間で採り入れられていたようである。井野屋の創始者で現在、桜井在住の河上重雄所有の資料の中に海南漆器合資会社の案内状(明治四一年ごろ)がある。それには講方式の販売がみられ、また一九か月払いの払込方法が記されている(『愛媛県史資料編社会経済下』商業、海南漆器合資会社案内状参照)。

 田坂善四郎と月賦販売

 桜井の人々が無尽講方式の商品販売を行う中から次第に月賦販売の方法が確立する。この月賦販売の確立者が田坂善四郎であったとされる。
 田坂善四郎は明治九年(一八七六)八月五日、田坂文蔵の六男として桜井村(現今治市)に生まれる。父文蔵は漆器の行商で蓄財をなし、「丸善」という呉服店を開業していた。善四郎自身も父同様、一五~一六才のころには椀舟に乗って行商に出ており、商才を発揮、二〇才のころには父に無尽講式の呉服販売を勧めているほどである。そののち明治三七年(一九〇四)、父文蔵から資本を出資してもらって、博多の商業地、上土居町に店を構えることになる。ここに彼の本格的な商人活動が始まる。博多の丸善・田坂漆器店は、従来の農村中心の行商形態から都市の一般消費者への販売に焦点をあわせ始める。対象が炭鉱労働者や八幡製鉄などの勤労者、つまりお客が月給生活者になるにつれて、田坂はそれにあわせて、二〇回掛けの二〇回払いの月賦販売方式の新商法を編み出していく。この販売方法は都市勤労者にとって便利なものであった。田坂の新しいアイデアはあたり店は繁昌した。これに加えて、もうひとつの革新は出張陳列販売である。出張販売は一定の場所で(芝居小屋やお寺を借りて)一定期間(五~六日)行われた。各地での開催に当たって、店員はその町の人々の名前・住所を前もって調べあげ、そして封筒書きをして、出張販売の案内状(『愛媛県史資料編社会経済下』商業、海南漆器合資会社参照)を配ってまわる。この手作業を行ってから陳列販売を開催し客を寄せ集めるのである。商品は現金売りのほか、月賦販売方式で売られ、売れた商品は店員が顧客の家に配達した。丸善の店員は、こうした厳しい仕事を負わされていた。しかし厳しい日常勤務から彼等は田坂善四郎の商法・商売上のノウハウを体で学んでいった。事実、善四郎のもとから、我が国の月賦業界の発展に寄与する逸材が出ている。ちなみに門田幸作(明治二〇年生、拝志出身)、村上栄吉(明治一三年生、桜井出身)、武田浅吉(明治九年生、拝志出身)、曽我部千代吉(明治一三年、桜井出身)、宇高音一(明治一四年生、拝志出身)、渡部清一郎(明治九年生、拝志出身)、日浅数馬(明治一三年生、富田村出身)らが田坂の店から独立して、新しい月賦販売の時代を築くことになる。その意味でも田坂は、わが国月賦販売の確立・普及に寄与した人物であると言えよう。また独立した武田浅吉は丸武を創業、渡部清一郎は丸共を創業していく。彼らの配下にまた優れた人材が集まり、その人々ものちに独立していく。渡部清一郎のもとからは、丸二を創業した村上市太郎(旦出身)、丸十の田中武之助(浦和市出身)、丸興の徳生忠常(玉川町出身)、丸正の正岡頼重(拝志出身)らがいる。田中を除いて皆、同郷である。また緑屋の創業者岡本虎二郎(西条市出身)も丸共に入店、のちに独立した人物である。村上市太郎のもとからは丸井の創業者青井忠治、大丸の創始者井門富士逸を輩出している。青井は明治三七年生、出身は富山県射水郡であるが、村上の丸二商店で一〇年近く働き、桜井商人の商法を身につけた人物である。また井門富士逸(明治二九年生、朝倉出身)も村上のもとで商売のノウハウを教えられた一人である。村上のもとから青井・井門の月賦業界で大成功をおさめる人物を出すのである。
 大阪でも宇高・曽我部・大日方・門田らの田坂善四郎から独立した人達が月賦販売を普及させていった。宇高音一は渡部清一郎・日方丈太郎、門田幸作らと出資して設立した丸共合資会社を明治四三年(一九一〇)に設立、その後、渡部が東京進出をはかって同商会を去った後を引き継いだ人物である。門田幸作は宇高と別れて大阪で丸キを、曽我部千代吉は丸太を創業した。宇高の丸共と称する店を継ぐものが彼のもとから出てくる。武田政市(明治三三年生、拝志出身)、政木仙一郎(明治三四年生、桜井出身)、宇高勇(明治三九年生、拝志出身)、武内至昌(明治三九年生、拝志出身)らがそれである。また大阪には戦後、進出して月賦業界で成功をおさめた者もあわられてくる。河上重雄(明治四一年生、桜井出身)の井野屋(昭和二七年設立)などがそれである。
 わが国月賦業界は、圧倒的に桜井・拝志・朝倉などの周辺からの出身者で占められている。業界の中には、県外出身者もみられるが、しかし、彼らの商法のルーツは、桜井商人達から教えを受けていたことが分かる。そして桜井商人達の販売方式をみていくと、それは田坂善四郎の丸善へと行きつく。その意味からも田坂の演じた役割は大きい。桜井の人々が行商の売り子時代から将来は親方として独立しようと努力してきた伝統は、その出張陳列販売の時代にも受け継がれていた。桜井の人々に、もしこのような気概がなければ、今日の月賦業界の発展はのぞめなかったのである。
 逸材を育てた田坂善四郎自身は、丸善の経営を多角化の方向へと進めていた。彼は漆器ばかりでなく呉服を取扱い、米穀部を商店内に設けて米穀取引にも手を出していた。また博多は背後地に筑豊・大牟田などの
炭坑があったこともあってか、彼は石炭取引にも、また石炭輸送のために汽船を所有して船舶部をつくり海運経営にも、さらには住宅の月賦販売計画をてがけたり、株相場にも多額を投資している。このような新し
い事業経営に乗り出せたのには彼に相当の資金力があったことを示すものである。と同時に彼の商才も大きく作用していたであろう。残された彼の写真を見ても、企業心に富んだかつ精悍な人物であったことを思わせるものがある。
 ところで彼が手がけた取引には、どちらかと言えば投機性の強いものもあるが、しかし善四郎は彼の商売においては、安く買って高く売る商いを戒め、利益は二割を超えてとってはいけないと常々言っていたそう
である。事業心に富みながらも、その商いでは堅実さを失わないように心がけていたのであろう。利益二割の言葉は、そうした彼の商業感覚を示すものである。
 善四郎の事業が多角経営の色を濃くするにつれ、そこでは月賦販売商的性格よりもやや商社的性格が強くなる。しかし彼の優れたアイデアが事業経営に反映されたにせよ、果たしてどの程度成功をおさめたのか疑
問である。しかも彼のもとに同郷の人々が集まってきていたが、彼らは田坂商法を学ぶや、退店して独立の道を選んでいった。田坂善四郎のもとに片腕となる有能な人材がとどまっておれば丸善の発展もあり得たか
もしれない。
 田坂は昭和六年(一九三一)八月二四目、五六歳で人生を終える。彼のもとから月賦業界の発展に寄与する人物を輩出していった点で、やはり田坂のこの方面で果たした功績は偉大なものがある。
 現在、月賦販売は、消費生活の中で大きなウェイトを占め、商業界においても月賦販売業界は大きな地歩を占めている。昭和三八年(一九六三)には月賦販売業界の人々が桜井の綱敷天満宮に集まって月賦販売発
祥記念の碑を建立した。その碑には彼らの先輩が椀舟行商から月賦販売方式を生み出していったという自負心が強く刻まれている。この月賦販売方式を確立していった先覚功労者として発祥記念碑の裏には田坂善四
郎、村上栄吉、木原林治、本宮武平、南条和蔵、富田茂三郎、武田浅吉、渡部清一郎、宇高音一、曽我部千代吉、正岡喜平太、村上市太郎、日浅数馬らの名が刻まれている。このほとんどが田坂門下であることに注目したい。

   月賦販売発祥記念の碑

 当地方は伊予国府が置かれ文化並に経済交通の中心であった徳川の末期桜井漆器の販路開拓を目指す多数の帆船が遠く九州中国近畿等の地に活躍した椀舟と呼ばれたこれらの舟行商の殆どが分割払の便法を用いて
販路の拡大に成功したこの販売方法が次第に発展を遂げ我が国における今日の月賦販売方式を生むに至った濫觴の地である。菅公鎮座一千年余の佳辰に当建立してその発祥を記念する次第である。

         昭和三十八年五月三日  全国月賦百貨店連合会

 さてわが国の月賦販売業の創始者については、村上市太郎の名前もあげられているが、一般には田坂善四郎であったと言われている。善四郎は明治三九年(一九〇六)に一八か月払いの月賦販売を佐賀県の郡部で
手懸けていた。つまり彼は従来の無尽講方式から都市の勤労者をお客に持つことによって、月賦販売方式を次第に編み出し定着させていった。こうして月賦販売は田坂によって独自に切り開かれたものであると言わ
れている。
 しかしただこの当時、舶来の高価品の販売については、割賦方式がとられつつあったことに触れておかなければならない。実は外資系のシンガーミシンが明治三四年(一九〇一)に横浜に進出、明治四〇年に『東
京日日新聞』に「月賦大販売」の広告を出している。しかしシンガーミシンの実際の月賦販売はもう少し古いようである。明治三七年八月二三日付の『愛媛新報』紙上にシンガーミシンの広告が小さなスペースで掲
載されているが、それには「月賦販売有り」と記されている。これは田坂の月賦販売開始のころとほぼ同じ時期にシンガーミシンが月賦販売を行っていたこと、しかも愛媛でも月賦販売が行われようとしていたこと
を示すものでもある。しかし、これよりも一年早い明治三六年にエンサイクロペディア・ブリタニカの月賦販売広告が『朝日新聞』に掲載されている。ブリタニカの販売はロンドンタイムス社と早矢仕有的の創業した丸善(田坂とは全く別の会社)が協力して売り出したものである。この百科全書は総革製二八五円、クロース製一七五円の二種であった。月賦方式では前金五円の支払い、残金を一九回・二三回・二六回・三一回の分割払いとしていた。この販売方式は好評で、国内需要に追いつけず、ロンドンの版元に数回追加注文している。高価な買い物も、月賦方
式によって購入動機を高めることができた。同じころに田坂善四郎、その他月賦販売に乗り出していった人々がシソガーミシンや丸善が商品販売に月賦販売方式を採り入れていたことについて、ある程度の知識を持
っていたのではないかとも思われる。しかしこれを知る手がかりは全くない。
 アメリカの月賦販売はインストルメント・セリング(Instrument Selling)とかイージーペイメント(Easy Payment)と呼ばれる。月賦販売をアメリカで最初に開始したのはサイラス・マコーミックという人物である。彼は一八四〇年、収穫機を販売する際、春先に一時金をもらって農民に収穫機を手渡し、秋の収穫期に残りの代金を受け取るという、節季勘定方式を採り入れ、農器具の販売を伸ばしていった。この方式を発展させて月賦販売方式をつくり出したと言われる。この流れをみると、まさに田坂善四郎らの販売方法と大変似通っている。アメリカではその後、ワナメーカーという百貨店が明治三二年(一八九九)にピアノ
のような高級商品に割賦販売を採り入れ、これによって高級品の販売を拡大することに成功した。この販売方式は、当時のアメリカの一般家庭に現金販売では、およそ買えなかった商品を買えるようにした点で、大
きな革新であった。例えば大正一四年(一九二五)の数字であるが、アメリカの自動車販売の七七%、家具類七〇%、ピアノ九〇%、蓄音機八〇%、ラジオセット七五%、ミシン九〇%、電気洗濯器九〇%が月賦販
売によるものである。アメリカの消費者が高級商品の購入に当たって、いかに月賦を利用していたかを物語っている。それはまたアメリカ社会においていかに月賦が普及していたかを教えている。わが国では、同じころアメリカのような販売総額の七〇~九〇%を月賦販売が占めるまでにはまだ至っていなかった。
 桜井の人々が地盤としていた九州は、漆器類・紋付袴を一式揃えているかどうかで、その家の格式が判断される土地柄であった。とはいえ一般家庭では、高級品であるため現金では購入できないものであった。そ
こで田坂らは一時金を買手に払わせて商品を渡し、残金を分割で回収する方式を採用し、商品の売り上げを伸ばし、買い手も容易に商品を手に入れることができた。高価品販売に当たって、割賦販売が如何に適して
いたかをアメリカや田坂らの例は示していると言えよう。

 一金二才三学

 わが国の月賦商法を普及させる上で、大きな貢献をしたのは桜井及びその周辺の人達だった。彼らは、椀舟行商の体験者達でもあった。このような経験を経て新しい商法を築き、あるいは学びとっていった。多く
は独自の力でたたきあげた、まさに立身出世型の人達である。中には成功せずに終わった人も少なくないようである。また成功したものの一代で終わる者もいた。彼らの多くは、その幼年時代教育らしきものはほと
んど受けていなかったものと察せられる。このことは特に桜井では子供の就学率は、他の町村に比べてかなり低かった事実からもうかがえる。『桜井小学校百年史』によれば、桜井村の児童の就学率が愛媛県の平均
就学率を下回っていた。その傾向は特に女子児童に強くみられた。明治二五年ごろの桜井尋常小学校の学齢児童数一、〇七五人のうち就学児童数三八一人で就学率は三四%で県平均の五四%、国平均の五五%を大き
く下回っている。明治二六年でも就学率三五%の状況であった。桜井地区の就学率の低さは、当時盛んであった桜井漆器製造や椀舟行商など家業の手伝いなどによるものであろう。事実、小学校の児童の中には家業
の手伝いのため欠席者が多く、授業が遅々として進まない有様で、このため村長が時の県知事勝間田稔に対して明治二六年一二月に冬期休暇の振り替えを申し出て承認をうけている。
 桜井の人々にとって教育よりも、むしろ家業第一主義が強く意識されていたようである。漆器を造り、それを他県に売り込もうとする人々にとって大事なことは「一金二才三学」であった。つまり一番大事なことは資金であり、第二が商才(才覚)、そして第三が教育であった。教育は金・才に並ぶものではなく下に位置するものであった。もちろん当時の日本の社会では、これは似たようなものであるが。
 田坂善四郎をはじめ桜井の多くの人々が、このような環境の中で育ち、鍛えられて成功を手中にした。もし彼らが近代的教育を受けておれば、その後の姿はどうであったろうか興味深いものがある。

図商1-3 八幡浜合田の行商の進出状況

図商1-3 八幡浜合田の行商の進出状況


表商1-4 南黒田・北黒田・浜・筒井各村落の就業状況

表商1-4 南黒田・北黒田・浜・筒井各村落の就業状況


図商1-4 松前地方からの出稼地域とその人数

図商1-4 松前地方からの出稼地域とその人数


図商1-5 昭和初期松前町・松山付近略図

図商1-5 昭和初期松前町・松山付近略図


図商1-6 オタタ行商区域

図商1-6 オタタ行商区域


図商1-7 行商船の図

図商1-7 行商船の図


表商1-5 睦月行商人の反物売上高(仕入れ先別)

表商1-5 睦月行商人の反物売上高(仕入れ先別)


表商1-6 睦月行商者の行先

表商1-6 睦月行商者の行先


表商1-7 桜井漆器生産額・製造戸数・職工数推移

表商1-7 桜井漆器生産額・製造戸数・職工数推移