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愛媛県史 社会経済5 社 会(昭和63年3月31日発行)

二 英学の普及

 英語の時代へ

 鎖国政策を採っていた我が国が、西洋の文物と接触する対象は長らくオランダに限られ、従って「洋学」と言えば、「蘭学」を意味していた。しかし、幕末になると、内外の情勢の変化によって英語・独語・仏語の必要に迫られ、洋学の大勢は安政四年(一八五七)あたりを境に蘭学から英学へと転換し始めた。明治に入ると急速に英学が中心となり、外国語=英語といった状態が今日まで続いている。
 明治五年(一八七二)九月に文部省は「中学教則略」を発布し、中学を下等(一四歳より一六歳まで)上等(一七歳より一九歳まで)に分けた。本県でも翌六年、西条に洋学校が設立され、県ではこれを援助した。さらに県は同八年に松山二番町の旧明教館のうちに英学所(後、松山中学校)を設置して、小学令による普通の教科を修了したものに限り入学を許した。「英学所規則」によると、教科書は一部を除いて英文の原書が使用されており、当時の英学は単なる英語の学習だけではなく、西欧の実学そのものであった。教科書の内容は相当高く、県下の英学を志す者が競って英学所を目指した。

 中学校の英語教育

 英学所と同じく英学を基とした学校は、やがて県下有数の中学校の源流又は直接の母体となっている。当時の教授陣の多くは、福澤諭吉の慶応義塾の出身者であった。「海南新聞」(明治二〇年七月二三日付)の「宇和島学事近報」と題した文中に「宇和島の学校は高等小学校、尋常小学校、継志館、英語学会の四箇所あり。高等小学校は去月一日始めて開校(中略)英語教師は藤山佐市□(□不明)とて慶応義塾の卒業生(岡山県人)なり。(後略)」とある。本県の英学と中等教育の基礎は、慶応義塾に学んだ俊秀の力によって築かれたといっても過言ではない。西洋の文明にあこがれ、その吸収に狂奔した明治期においては、大学の研究の根幹は飜訳であり、中学・高校のそれは語学であった。(県史・「教育」四二〇~四二二頁参照)。
 次の内容は、明治中期の中等教育における英語のウェイトについて、伊予尋常中学校の終業式(明治二一年一二月)で山崎忠興校長が行った演説の一部を要約したものである。

  「教員の増員について、西洋人を英語教師としてまず一名傭うことを計画している。すでにアメリカ合衆国の本国において、よい返事をいただいている。遅くとも三月末か四月の始めには来松することになる。
   教授学科について、生徒諸君の英語学力は一般に不充分なので、一層その教授法を改良すべきであるが、生徒も英語をもっと奮発して勉強することを熱望している。
   授業時間及び分級について、授業時間は総てで一週三一時間になっているが、学力の不充分なところを補い教育の充実をはかるため一週三四時間にして、英語・数学・博物学の授業時間を増やすつもりである。また、一学級の人数が多くなると授業にさしつかえることが多いので、教員が充分なときは、一学級四〇人以上となるときには、必ずクラスを分けて授業をするようにしたい。」

 明治二八年(一八九五)には、愛媛県尋常中学校に外人教師ジョンソンの後任として夏目漱石が赴任している。漱石にしてみれば田舎の中学校の子供相手では物足りなかったであろうが、生徒への感化は大きかった。当時は、他教科でもなお英語で書かれた教科書を使用することが多かった。しかし、次第に国語または邦訳の教科書が使われ始め、英語は知識・技術修得の媒体の役から数学・理科などと並ぶ一つの教科へと転換していった。
 女子については、「愛媛県立高等女学校規則」(明治三四年)によると「外国語ハ生徒ノ志望二依リ課セサルコトヲ得」とあり、英語の毎週時数はせいぜい男子の半分以下で、しかも希望者のみであった。このことは、良妻賢母の養成を金科玉条とした女子教育方針からは当然のことで、実科・技芸の女学校では英語は課せられなかった。