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愛媛県史 社会経済6 社 会(昭和62年3月31日発行)

四 ペスト

 明治三二年の流行

 ペストは、ボッカチオの『デカメロン』に描かれて有名であり、この病気にかかった者は吐血し、腕や股に腫物が出来数日後に死んだので〝黒死病″と呼ばれた。明治二七年香港で流行したとき、北里柴三郎らが菌を発見した。ペストは飛沫感染するほか、患者の分泌物・排出物で汚染されたもの、鼠及び蚤による伝播で呼吸器・皮膚や粘膜の傷・扁桃腺などから侵入した。潜伏期は一日から五日ぐらいで、突然に起こる悪寒・戦慄とともに高熱を発し、目まい・嘔吐・意識混濁をきたし、心臓血管系は高度に侵され、四・五日で死亡した。
 日本へのペスト侵入は明治三二年一一月五日に広島で発生し、以後阪神地方に続発した。この患者第一号は台湾から帰航して下関から汽船で広島に来て投宿した横浜の男であった。突然の死に疑いが持たれ細菌検査をした結果ペスト菌が発見された。
 ペストの恐ろしさ、鼠が媒介することは日本で知られていたので、愛媛県でも早速一一月一五日に予防注意が出された。告諭は、「ペストハ伝染病中最モ病毒ノ猛劇ナルモノ」と警告、伝染経路を解説した後、「本病ノ予防トシテハ発生地ニ往来スルコトヲ避ケ、一層摂生ヲ守り過度ノ飲食ヲ慎ミ且家屋身体衣服等ヲ清潔ニシ、本病誘起ノ媒介トナルヘキコト最モ肝要ナリトス」と注意した。
 さらに流行の区域が広島・兵庫から大阪に広がるに及んで、二五日には再度予防心得を発し、身体の創傷、衣服、飲食物、住居に関する注意を与えた。特に鼠について、(1)ペストは「鼠疫」または「斃鼠病」と名付けるほどであって本病と鼠とは深い関係があるので鼠には特に注意し、捕獲して焼棄すること、(2)鼠の死体を発見したときは警察に通報すること、(3)鼠の死体は直ちに手で取り扱うな、火箸などで採った後其火箸は烈火中に投入すること、(4)鼠の死体を送致しようとするときは二〇倍の石炭酸水もしくは千倍の昇汞水を浸した綿布片または紙片で包み、もしこれら薬剤のないときは死体を鉄薬鑵あるいは竹筒に収め密閉すること、(5)鼠には常に蚤が附着するものであるから深く注意することと説いた。
 同日特に学校に向けて職員・生徒などの創傷は軽微であっても速やかに医師の治療を受けること、身体に異常を覚え発熱ある者は速やかに医師の診察を受けさせること、学校の内外を清潔に掃除し塵芥は焼棄すること、学校医に予防方法を講話させることなどと訓令した。このような注意と警戒によって、本県は最初の流行の被害から免れることができた。

 明治三九年の流行

 明治三九年一一月六日の午後二時ころ、川之石の穀物商の四女六歳が急病で腹部に異状を呈して死亡した。主治医はペストの疑いがあるとして八幡浜署に届け出たので、同署で取り調べたところ、この家では前月末に生後一〇日の三男が胃腸炎で死亡、続いて一五歳の長女が舌下腺炎で死亡しており、その症状にも疑うべきふしがあると、四女の死体から肝臓内部の液汁を採って調べたが、ペスト菌は発見されず、大腸菌を認めただけであった。
 当時神戸・大阪にペストが流行しており、その火元になったのが神戸の鐘淵紡績の工場であった。川之石は阪神地方との関係もあり、紡績工場があって九月ごろ斃鼠を発見したので、棉花の陸揚げに厳重な警戒をしていた矢先であった。そこでいちおう同家を消毒し、村全体に対しては斃鼠の発見と捕鼠を勧めながら警戒していた。
 九日午後三時五〇分、県庁衛生係は八幡浜署から、「川之石村に疑似ペストあり技師の派遣を請う」という電報を受けた。患者の容態を問い合わせると、「患者は熱四〇度六分にして右股腺・鼠蹊腺腫脹・ペスト類似菌多数あり、容態危篤なり」との返電であった。県から、和田事務官・粒良技師・警部三名・技手・赤十字看護婦二名・巡査五名が川之石に向かった。現地には出張中の検疫医二名と宇和島・卯之町・大洲の三署からも一五名の巡査が応援に出るという物々しい事態であった。
 新患者は二名、七〇歳の女と二六歳の男で共に先の穀物商の家と軒を並べていた。老女は七日正午ころから風邪気味で、八日朝発熱頭痛を感じ唇乾き渇を催すという症状であり、九日午前八時に八幡浜署の依頼で医師が出張して老女を診断すると熱四〇度五分、脈搏一一五、右股腺及び鼠蹊腺が腫脹しており、血液を検査すると多数のペスト菌を発見した。男は八日午後二時ごろ往診を求め、九日の診察では老女と類似の容態であった。粒良技師は現地に到着し患者について厳密な調査を行った。二名とも臨床・鏡検ともに真性ペストで、老女は一二日朝死亡した(明治三九・一一・一一付海南新聞)。
 ペストが発生してからは、川之石村及び宮内村字刈畑の交通を遮断し、この区域からの物件搬出を禁じ、鼠族駆除を厳重にした。まず患家付近を第一遮断区域とし四周を亜鉛板で囲んだ。この戸数五五・人口
二二八で、一時は全屋焼き払う案も出たが、一〇万円以上の弁償金が必要なので取り止めとなった。第二予防区域は斃鼠を発見し伝播の恐れの多い所で戸数一五二・人口六五四、これに準ずる地を第三注意地域とした。これらの遮断地域では、人体消毒として頭髪から指先爪の下に至るまでの身体全部を石炭酸で洗滌し、衣類夜具は石炭酸または昇汞水・ホルマリン瓦斯で消毒、家屋は畳を外して石炭酸を撒布し日光に曝し、天井を取り除き屋根裏その外室内全部をポンプで石炭酸消毒を行い、床下内庭などは石灰乳消毒を実施した。なお第一遮断区域の男女全員を収容する予定で川之石埋立地に隔離所を新築した(明治三九・一一・一七付海南新聞)。
 このような騒ぎで、川之石には日用品を運ぶ船舶も怖れて近寄らず、交通は全く杜絶した。鼠の駆除には捕鼠器、殺鼠剤を備えて全力を注ぎ、ネズミ取りの名人を動員して、一二月七日時で七八四匹を捕獲した。松山・今治をはじめ県下各地でも捕鼠の奨励、買い上げが行われた。
 一一月二〇日県当局は川之石のペストを報じ、伝染経路・症状を解説して、土地家屋における鼠族を捜索駆除し、絶滅を期すると同時に清潔法を持続励行し、あわせて各自の摂生を守り、人命財産に対し不慮の損害を招かないよう深く注意警戒することを諭した(資近代3 三〇七~三〇八)。
 その後の患者については、第一遮断区域で予防消毒に働いていた人夫一人が感染死亡、はじめの男患者は快方に赴いており、一二月七日時治療中の男一、注意中の熱性病患者七であった。その後は新患者もなく、患者六名うち死亡四名で終息した。川之石のペストについては、おそらく綿工場が大阪北区から買い入れた輸入綿花にぺスト菌が附着していたものと考えられ、流行の数か月前から斃鼠が発見されていた事実から、病菌は久しい以前からこの地に入っていたものであろう。この年のペストは和歌山一八七人・大阪一五二人をはじめ四八八人の患者が全国に発生した。

 明治四二、四三年の流行

 明治四〇年一月二〇日今治町でペストの有菌鼠が発見され、駆鼠清潔法消毒法を実施して警戒に努めたので患者は二人にとどまった。明治四二年一月一〇日高浜の大阪商船会社南倉庫でペスト菌を持つ斃鼠一頭を発見、一七日には宇和島運輸会社所有の第十宇和島丸からも有菌鼠一頭が発見された。五月に至り高浜字水場でペスト疑似患者の少女一人が死亡、大騒ぎとなったが、後に発生はなかった。
 七月二三日、西宇和郡八幡浜で死亡した七歳位の男の子が疑似ペストと検察された。患者を診療した堤積造医師は、「その患者は七歳位の男子にして七月十八日新川に河遊びに行き、十九日の朝より悪寒発熱四十度乃至四十一度に達せしといふ、余が診せしは翌二十日午後九時、脈搏九十五、大体温四十度八分、顔面蒼白、口唇粘膜は紫紅色、四肢厥冷にして一般にチアノーゼを起して最早心臓麻痺の徴候を具備せり、然れども精神は昏睡せず全く脳膜炎とは診定せられず、呼吸器には異常なく又普通の内臓自家中毒とも認めず、余り経過迅速にして甚だ診断を迷はしめたり、故に其の翌日二十一日午前七時診査するに熱は三十八度五分に降るも諸症は依然として悪徴を呈出す、其の時迄に全く頸腺の腫脹は認めざりき、実に何とも言へぬ病症であり勿論予後は不良と認め居りし、と報告した。
 県衛生課は色めき立ち、脇田警務長らは巡査二五人と共に現地に急行して須崎・新川両部落を交通遮断し、ぼろ・古綿等の物件搬出を禁じ、発生地をトタン囲いとした。小学校は臨時休校の措置をとり、引き続き夏休みに入った。二四日となって新患者男女二人発生して避病舎に収容した。川之石から先のペスト経験以来設備していた消毒器具などを送り込まれ、捕鼠に経験のある五人の者を雇い入れて鼠の捕獲に努めた。患者二名のうち男は二六日死亡、女は真性ペストと決定した。駆鼠防備のために二四目から須崎二四戸、新川では紡績会社外一四戸、矢野崎村大字大平七戸の三か所を亜鉛板で囲いはじめ、二六日に完了した。そして四五戸一八九人の隔離所を須崎・新川の両村に設け、この一三五畳敷と九九畳敷と外二二棟を借り受けて消毒の上、漸次収容することにした(明治四二・七・二八付海南新聞)。捕鼠のために石垣に目塗りをし防疫に努力したが、捕獲した鼠や三年の斃鼠にはペスト菌が多く、患者も続出して一か月を経た八月二四日には初発よりの患者一〇人うち六人死亡という状態であるので、さらに下道・高須・須賀の三か所を交通遮断
区域とした。
 先の堤医師は、「患者は新川の某に引続き二人三人と続発するにより、本県に於いても非常の防禦工事を起し、患者一たび発せんか其の一町内は五十戸百戸ありと雖も皆之れ仮バラックに隔離せしめて患者は直に避病院に収容…、巡査八百人以上各部より来援して人夫数百人を駆りてトタン張りを町内縦横に張りつめ人の往来もいとむつかし、鼠さん甚だ利口発見、甲より乙に乙より丙に伝えるものか数万円の費用を捨てて捕鼠捜鼠のために二千戸の家屋の大掃除大清潔と戸毎に実施すれども、こそこそと地下にかくれ山に登りて畑の作物を喰い海を渡りて向灘に難を避けたるや一疋乃至二、三疋、稀には大家高家に数十疋の生死の鼠ありと、如何にして斯く鼠は少きものやと捕鼠長某巡査はいぶかり給ふ、さりながら鼠の有無はとも角に大清潔を施行せられたるは有難かりき、………数十日にして殆ど二千戸以上の大掃除清潔法を行ひしは英断にて心地よし、さりながら其の費少からず総て数万円以上とやいはん、黒死病も八月十六日頃に一、二名続発して以来殆ど其の跡を絶ち、十月初めより自然と各村の者共来浜し人気恢復せるは嬉しかりける」と、大がかりな隔離と鼠族駆除のための清潔法実施の有様を戯画的に巧みに表現している。
 一〇月下旬には南宇和郡東外海村に発生した。一〇月二六日東外海村に疑似ペストの男子患者が出たので、直ちに同村避病舎に収容したが三〇日に死亡。二九日に疑似ペストで斃れた女子二人について検鏡した結果、いずれも一一月三日に真性と決定した。また二日発見された斃鼠・捕鼠各一頭に疑似菌があった(明治四二・一一・五付海南新聞)。東外海村のペスト患者は一二人で死亡一一人というすさまじい致死率であった。八幡浜町と合計するとこの年のペスト患者二九人うち死亡者二三人であった。
 八幡浜町・東外海村をはじめ南予の人々を恐怖震駭させたペストは、翌四三年にも南宇和郡御荘村・城辺村で猛威を振った。一〇月の中旬になって、御荘村大字平城にペストらしい患者が発生したというので、宇和島署勤務の多田検疫官が出張して検査したところ、男子三人がペストに罹りうち二人死亡、また城辺村で病死した女子一人の屍体から疑似ペスト菌が発見された。報告を受けた県警察部は、直ちに県下各署から巡査三七人を召集して現地に派遣、防疫用具を取り揃えて発送した。また柴田警務長は衛生課長・技師をはじめ巡査部長ら一〇余名と共に一九日夜現地に向った(明治四三・一一・二〇付海南新聞)。
 城辺では有菌鼠一頭を発見し、平城でも二頭を見つけて検鏡の結果真性ペスト菌が検出された。各地から集まった巡査一同は観自在寺に宿泊し、人夫は警察置畏手に仮家屋を急造して起居させ、防疫作業に当たることになった。県は二一日に区域を設定して交通遮断を指令し、この区域内の健康者は厳重な消毒を受け、大神高の隔離所に二三日午後五時までに全員収容せられた。また二二日から遮断区域の消毒にかかり、各戸に殺鼠剤を配って駆鼠に努め、捕鼠一頭三銭で買い上げたが、二五日からは五銭に値上げして奨励した。平城のトタン張りは町全体にわたったが、溝や石垣が多いので、鼠の目つぶしに多額の費用と日数を要した。ここでは二七日までに有菌鼠八頭を捕えた。交通が杜絶したため、日用雑貨が値上がりして住民を苦しめた。平城郵便局は発送郵便物を一通一通消毒するので多忙を極めたという(明治四三・一〇・二八付海南新聞)。
 このたびの伝染経路については、阪神地方から来た貨物に有菌鼠がいたのではないかと推察された。この年のペスト患者は二六人うち死者一八人であった。
 その後、愛媛県でのペストの流行は絶えてない。