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愛媛県史 社会経済6 社 会(昭和62年3月31日発行)

五 痘瘡と種痘

 明治前期の流行と種痘の法制化

 明治三年四月二四日、政府は各府藩県に対して種痘を実施するよう指示した。これがいわゆる太政官布告の「種痘方規則」であり、「種痘ノ儀ハ済生ノ良法ニ候処、僻陬ノ地ニ至テハ今以テ相行サル向モ之レアル趣ニ付、府藩県ニ於テ末々迄行届候様厚ク世話致スヘキ事」といった告諭であった。
翌四年一一月政府は大学東校に種痘局を置き、種痘したい医師は東校に申し出て免許証を受けた後痘苗を分譲することにした。
 このように種痘が免許制になり、伊予国では宇和島日新館病院の教授谷口泰庵・谷如橙らをはじめ松山の会社病院回春社の今井鑾、今治の半井真澄・菅研吉らに最初の免許状が与えられた。明治五年四月、石鉄県は、種痘を取り扱う医員を今度更に検査の上文部省免許状を渡すので五月一五日までに会社病院に出頭して免許医今井鑾の検査を受けるよう指示した。しかし検査を受けに来院する者が少なかったので、今もって何等の申し出もないのはどうしたことであろうか、これをなおざりにしてはおれないので希望者は六月一〇日までに病院に申し出るべきことと種痘検査を督促、越智・野間両郡では半井真澄・菅研吉が免許済みであるので両者の検査を受けることを指示、心得違いの者があって、免許を受けずみだりに施術するようなことがあってはならないと警告した(資近代1 四九~五〇)。
 明治七年一〇月三〇日、政府は「種痘規則」を発布、愛媛県は一二月九日にこれを伝達した。この規則は、種痘は免許医でなければ出来ないこと、種痘医を志す者は師について技術を習得した上、履歴書に師の証明書をつけて地方庁に提出すること、種痘は生後七〇日より満一年までの間に実施し、その後七年ごとに再三再四種痘することなどを規定した。この年の冬以来東京府下に天然痘が流行翌八年にかけて全国に蔓延、県下にも患者が出たので、県は八年二月一七日に「種痘仮規則」を各区々戸長宛に発し、各大区「人煙稠密の村市」に種痘所を設置し、緊急の時であるから種痘医の免許のない者でも種痘技術の心得ある者ならば種痘掛となってもよいと指示、種痘料は一人五銭で僻地には医師が巡回して種痘を行っていくことにした(資近代1 三六六)。
 種痘は毒を植えるとか牛痘を接種すれば牛になるといった迷信がこの時期にはまだはびこっていて接種を忌避する傾向が強く、種痘仮規則でも「漸次其(牛痘接種)効用を弁知すと云へとも兎角等閑に打過ぎ、殊ニ僻郷遐陬に至りては妄に疑惑を起し謂れなき浮説を唱へ至重の生命を度外に差置き、終に無数の患害に罹り剰へ余毒を郷隣に流し候様立至り以ての外」と説いているが、翌一八日には県民を対象に「種痘告諭」を発した。告諭は、まず「疱瘡ハ人一生のうち必らずのがるゝ能ハざる大
厄にして往古より此病に罹りて夭折する者幾許そや、辛してその死をのかるといへとも玉の如く美くしき顔も瓦のことく醜き面にかはり」と過去の疱瘡との宿縁を説き、「近頃種痘の発行せしより市町にてハ此病にかゝり死する者少なく又面部に痘痕のある児を見ることまれになりゆきしはまことにありがたき事ならすや」と都市部での種痘の効果を強調した。故に「朝延よりも仁慈を垂れ玉ひ津々浦々迄行ハれん事を毎々御布令あり」ながら、「僻土辺隅に至りてハ、厚き御主意を解せすあたら命を徒に失ふもありと、返々も愚かなるの甚しか事ならすや」と辺土での無理解を憂慮した。また「人として我子の醜からぬと長生とを祈らすして、或ハ死し或ハ片輪に成行を願へる親」は居ないはずであるのに、「彼の或は死し或は片輪と成り行くは全くいはれなき流言に迷て種ほうそうの何物たるを弁へぬより終に悔しくかなしきめをみる事となりゆきいたましくも又あまりなりといふへし」「とりわけかなしきは其惨害の隣村近所に蔓延して他人の可愛き子まてにこの患を及ほすはいとも本意なき事ならすや」と母性愛と隣保関係に訴え、「能々此意を会得してわが子のつゝかなく生長するを願ハヽ其最寄のたのみて其術を受くへし、一度種痘すれハ万一天然痘に感する事あるとも其毒必らす薄けれはすこしも疑念なく早く予防の手当をなし天質の美をうしなはす百千の命を全くし各繁栄を待つへくして必謂れなき恨なし言に惑て其子を過つ事あるへからす」と諭した(資近代1 三六七~三六八)。朝旨まで持ち出して天然痘の恐ろしさと種痘の効用を繰り返し説いたこの告諭に、種痘が容易に普及しない当時の世相がうかがえる。
 その後、政府は明治九年四月一二日に「種痘医規則」、五月一八日に「天然痘予防規則」を布達した。特に後者の規則は生後一年以内に一回及びその後五ないし七年の間隔で二回種痘を受けるべき義務、種痘済証提示の義務、種痘について流言を発した者に対する処罰条項を規定しており、事実上強制種痘に踏み切ったものであった。愛媛県はこれに基づき、明治一一年四月一三日、従前の種痘仮規則を廃して、「種痘所及び支所規則」を定めた。これは、種痘所を従来同様各大区ごとに開設、四大区は高松病院、一三大区は松山収養館病院に置くが、その他は各区医事会議所・私立病院・医務取締の私邸など各区適宜であること、土地の広狭と区内の便否により支所を設けること、新生児七〇日から満一年間は善感の期であるので必ず接種し以後も五~七年ごとに必ず再三接種すること、接種の時期は新生児の多少により毎月あるいは隔月としその期
日を小区務所に通知し父母にも告示すること、天然痘流行の際は速やかに未痘児に接種するはもちろん初種の年月に関係なく必ず再種すること、点検の際善感不善感を審査し善感のものは初種と再三種とを区別
して種痘済証を交付すること、種痘表は種痘所で取纒め毎年二月と八月に医務取締を経て届け出る、種痘手数料は「各自分限ニ応シ適宜タルヘシ」と規定した(資近代1 八〇七~八〇八)。
 明治一一年三月一五日付「海南新聞」は、松山病院の医員が第一〇大区各所に出張して三、〇〇〇人に対し種痘したことを報じている。次第に種痘が普及している状態を知ることができるが、明治一二年は一月以来の痘瘡流行のため臨時種痘の急務を喧伝したので表2―9のような接種状況であり、この年だけで愛媛県で一〇万三、〇〇〇余人(うち伊予国五万余人)が種痘した。なおこの年の統計書によると、医師一、〇七七名(うち伊予国六三五名)中種痘医の免状を所持する者は四一八名(うち伊予国二八二名)であった。
 明治一二年は痘瘡(天然痘)に加えてコレラが猛威を振い、県当局は防疫に大わらわであった。同一三年二月四日県は、県下各郡内において天然痘が流行し死亡者の届け出もある、種痘の件はいつも布達しているけれども簡単に考え最愛の子孫を非命の死に至らせるのは哀れむべきことであると諭して接種を督励した。明治一三年五月の「県政事務引継書」には、「客年二月以降、愛媛県各郡ニ於テ天然痘流行、漸次病勢惨劇ナルト雖トモ各自医ニ就キ施術ヲ乞モノ甚夕乏シク、種痘セサルモノ過半ニシテ、夫力為メ自然蔓延目下生民ノ食禄二関シ秒時モ捨置キ難シ」(資近代1 八一九~八二〇)とあり、県関係者から見れば種痘がまだまだ行き届かず天然痘蔓延の最大の因であるとしている。
 明治一四、五年も引き続き痘瘡が流行したので、県当局は種痘の一層の普及を図った。明治一四年一〇月二九日従前の「種痘所及び種痘規則」を廃し「種痘普及法」を布達、種痘医は郡役所衛生掛、町村衛生委員と協議して受持区内を定めておくこと、新生児名簿を取り調べて接種期日を衛生委員に報ずること、衛生委員は期日を種痘児の父兄に告示し「懇篤示諭勉メテ忌避ノ弊ナキ」よう注察すること、種痘済の日種痘医は点検の日を父兄に告示すること、点検の当日参集しない者がある時は衛生委員に通知、衛生委員は父兄を督促して即日点検を受けさせること、種痘医は点検の結果を衛生委員に通知、衛生委員は生児名簿に記入し善感の人名を戸長役場に報告、戸長はこれを戸籍簿に記入し他町村への送籍状に済否を記載することなど、種痘施行を徹底しようとしているが、種痘は依然有料で、種痘医は従来どおり「各自ノ分限」に応じて五銭以上二五銭以内の料金を徴収するとしている(資近代2 二三七~二三八)。同一五年四月二六日には、各町村戸長や衛生委員を督励して未接種児の一掃を図るよう郡長に通達した。このころは年二回配布されていた牛痘苗が不足がちであったが、同一六年四月二七日付で、今より以後は従来配布の定数を倍にして支給する旨内務省衛生局から通知があったので各部ではこの意を体し戸長衛生委員を督促して、新鮮な牛痘苗をもって種痘を普及させるよう重ねて郡長に通達した。
 明治一八年一一月九日政府は「種痘規則」を定めた。これは従来の「種痘医規則」「天然痘予防規則」を廃して両規則を整理統合したものであった。愛媛県は一二月一一日にその施行細則を布達、種痘は毎年春秋二期施行するが天然痘流行の兆しある時は臨時施行すること、医師は戸長と協議して接種期日場所を定め戸長はこれを町村内に告示すること、種痘料は受痘者各自の意思に任す、貧困者は町村費で支弁せよといったことを規定した。この施行細則は同二四年一月二〇日に改定され、定期種痘・臨時種痘に必要な経費は市町村費で支弁するようになり、無料接種の途が開かれた。また種痘医には、明治一八年四月に内務省衛生局の作成した「種痘施術心得書」が告示され、同二六年には松山病院長谷口長雄が施術法をとりまとめた「種痘施術心得」を配布して、的確な種痘法の実施を助言した。しかしこの時期、明治一八年から二〇年、同二四年と痘瘡(天然痘)は全国で三万余の患者を出し、依然猛威を振っていた。

 明治後期の流行と種痘法の制定

 明治後期には四回の痘瘡流行があった。明治二四年一一月茨城に発生した痘瘡は関東・東海・東北地方に流行し、同二五年気候温暖とともに下火となったが、一〇月にはまた盛り返し京阪から下関などに流行した。この年の患者は三万四、〇〇〇人に近かった。明治二六年には中国九州四国地方にも拡大、この年の患者は四万人を超えた。この年愛媛県の患者は二〇九人で死者は五二人を数えた。
 明治二九年の流行は春宮城県に起こり、東北から東京に及び、秋になって神戸に侵入し患者一万人余で止まったが、翌三〇年は大流行となった。前年に患者五四人(うち死者一一人)を出していた愛媛県は、
この年二月二一日までに松山市を中心に患者九九人(うち死者二一人)に達した。相次ぐ発生で対策を迫られた県は、一月二九日と二月二六日郡市町村に訓令を発して種痘励行を指示、特に罹病者中年齢三〇~五〇歳の者が総患者数の四分の一強に当たることに注目して、五〇歳以下で明治二九年一月以降種痘を行っていない者はこの際接種するよう督励した。二月二五日には県民に告諭を発し、「本病(痘瘡)ノ予防ハ種痘ナル萬全ノ法アリテ能ク之ヲ未然ニ防制シ得ヘキ」ものであるが、「該法モ永ク其効ヲ持続セス年ヲ経ルト共ニ免疫ノ効ヲ喪失」することが実例で明らかになったとしてかつての接種者も再三種の実施を呼びかけ、また患者を隠蔽し互いに交通したり物品の交換を行うことが流行を助長しているとした(資近代3 二九八~二九九)。この年の患者は三六八人で死者八五人という大流行であったが、翌三一年にも終息することなく、六三人の発生があり一四人が死亡した。
 明治三七年当初ウラジオストックに痘瘡が流行し朝鮮にも流行の兆しありとして、県は一月二九日付訓令で種痘施行を指示、一一月五日にも農繁期のためとかく怠りがちな秋季種痘を勧めた。しかし翌三八年一月一日越智郡亀山村で児童一名が罹患して九日死亡したのを最初に各地に患者が発生したので、県は一月一四日臨時種痘を指示、二月二七日には一時に多数接種しようとして種痘法が粗雑に流れないようにすること、被接種者には接種後部位を保護するよう注意すること、種痘名簿を整理すること、接種後必ず医師にその感否を調査させることなどを郡市長に通牒した。この年の患者は八五人、うち死亡者は一四人であった。
 明治四一年全国で痘瘡が再び流行した。この年の流行は神戸が中心で初発以来二、六六〇人に達し、福岡・東京・横浜にも多数発生した。本県への侵入必至とみた松山市は、神戸ではすでに種痘を行い善感した者の中からも発生している事実により免疫効果が永久的でないとの確証を得て、市内一〇か所の寺院・神社・教会に臨時種痘所を設け、種痘接種を督励した。
 海南新聞・愛媛新報ともに痘瘡の記事に多くの紙面を割き、種痘励行のキャンペーンを行った。とりわけ「愛媛新報」は、二月一八日付論説「天然痘の猖獗」、二二日付矢野県衛生技師の「種痘の注意」、二三日付「種痘の不善感に就て、松山医界の反省を促す」などを掲載、三月六日には北宇和郡長土居辨次郎の「五十二歳で痘瘡がついた」の体験に基づく再三種痘の必要性を説くなど熱心であった。同紙の報道によれば、松山では〝痘瘡除け三ヶ寺詣り〟と称して、久万の台の成願寺・古三津の儀光寺・太山寺へ参詣が賑わったようである。この年の患者は一三〇人うち死者は一八人であった。
 相次ぐ痘瘡流行に直面して、政府は種痘をいっそう強化するために明治四二年四月一四日「種痘法」を公布しこれに付随して一二月二一日「種痘法施行規則」を制定した。この法により、種痘は国民全体に強制的に施行することとし、定期種痘を二期に分け、第一期は出生より翌年六月まで、第二期は数え年一〇歳と定めた。この頃から明治九年以来の新生児強制種痘が効果を現し、再三種の普及と相まって患者も激減、とりわけ重症による死者が少なくなった。愛媛県でも大正五年の流行に至るまで一名の発生もなかった。

表2-9 明治一二年種痘接種状況(伊予国のみ)

表2-9 明治一二年種痘接種状況(伊予国のみ)