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愛媛県史 社会経済6 社 会(昭和62年3月31日発行)

四 県医師会の結成と活動

県医師会の創設

 明治四〇年から四一年にかけて郡市医師会が結成された後、県衛生課では県医師会の結成をしきりに勧奨した。かねてから医師団体の必要性を痛感していた松山市の高橋恒麿・菅井昇平の両医師は、県当局の意を受けて県下各地の医師に呼びかけたが、地域的に交通不便や、時期尚早を理由として賛成しない者があって、県医師会結成の動きは容易に進まなかった。高橋・菅井の両医師は学術研究を目的とする会を開催し県下の医師が集合する機会も得れば途も自ら開けるであろうとして市内有志会員と謀って明治四二年四月松山医学会を結成、松山病院長津下寿を会長に推載した。以後会則により学会を毎年春秋二回開いて、各自の研鑽を発表すると共に中央講師による講演を催すことにした。この研究会は年を追うごとに盛大となり、県下各地から医師が相会することによって意志の疎通が図られ、県医師会結成の気運を醸成する上に好結果をもたらした。
 高橋・菅井両医師の努力にもかかわらず、県医師会の結成運動はいったん挫折した。しかし、県当局はその後も各郡市医師会幹部を説得し速やかに県医師会を創立するように勧めたので、各地域でも結成の必要性を感じはじめた。この機会をとらえ、大正二年一〇月伊予郡医師会長藤井與三らが松山医師会長添田芳三郎らと意見交換、さらに堀江まで足を伸ばして温泉郡医師会長土肥衛を訪ねて県医師会創立に関して意見を交換した。
 三郡市医師会長の合意で、一一月六名ずつの委員を出して創立委員会を開催、添田芳三郎・菅井昇平を創立委員総代に選び、他府県から取り寄せた医師会規則その他規約類などを参考にして規約草案を作成した。翌三年二月第二回準備委員会を開催して、他の郡市医師会に県医師会結成を呼びかけたところ、五月二〇日までに賛意を表明して加入するとの回答が集まった。準備委員は創立総会を六月二五・二六日に松山市で開催することにし、各郡市に案内状を発送した。
 ところが六月一〇日に至り、突然に北宇和郡医師会から一部の規則に納得できない点があるとして賛成を取り消す旨の通知があり、さらに同月一四日に喜多郡医師会からも同郡の総会にはかったところ、県医師会加入は見合わすこととなったという通知に接した。準備委員会は両郡の医師会に不明の点を説明し、全国未結成の県はわずか一、二であると訴えたが、二郡医師会の了解を得ることができなかったので、後日説得を続けることにして創立総会を決行することにした。
 大正三年七月二四日の創立総会は、午前八時松山市の県会議事堂に各郡市医師会の代表者が参集して開かれ、郡市医師会員も多数傍聴席を埋めて盛況であった。ただ参加を予定していた上浮穴郡医師会から交通不便のため代表を選出する機会がなかったので出席を見合わすとの通知があって集会者を落胆させた。
 総会では創立委員を代表して松山市添田芳三郎の挨拶、菅井昇平の経過報告があって後、議事に入り会則を付議して満場一致で可決、同日付で直ちに設立認可申請手続をとることになった。総会で承認された「愛媛県医師会々則」は、第一章名称、第二章目的、第三章組織、第五章議員、第六章役員、第七章会員、第八章郡市医師会責任、第九章会議、第一〇章会計の四五か条からなり、愛媛県医師会は各郡市医師会の秩序風紀を維持し、一致疎通をはかり、医権の伸長と医事衛生の進歩普及を期することを目的としてうたっていた(資社会経済下八〇二~八〇五)。
 総会第二日は午前八時三〇分から開かれ、添田創立委員長から昨日知事の認可指令があった旨の報告があった。ついで会則に基づいて役員選挙があり、会長に添田芳三郎、副会長に山崎集が当選した。ここに正式に県医師会が成立したので、発会式を挙げることになり、知事代理として出席した警察部長時実秋穂が祝辞演説を行い、その後第一回総会に移った。
 待望久しかった県医師会は結成されたが、上浮穴郡・喜多・北宇和郡の三郡医師会が未加入であったから、添田会長らは説得と勧誘に当たった。その結果、三郡医師会はようやく入会に応じ、県医師会でも大正四年四月三日の臨時総会で入会を認めた。名実共に愛媛県内医師の団体となった県医師会は、大正五年一一月の第三回総会でこの年創立し九大日本医師会に加盟した。

 医師会令と強制医師会

 大正八年四月一一日「医師法」が改正され、郡市医師会と道府県医師会は公法人として認められるとともに、これまで医師会加入は任意であった公私立の医療施設に勤務する医師は、すべて医師会に入会することが強制されるようになった。九月二五日、改正医師法の規定に基づき「医師会令」が制定され、設立手続・会則・総会・役員・経費・監督などに関する詳細な規定が設けられた。この法令によると、郡市医師は郡市医師会を設立し、郡市医師会は道府県医師会を設立すること、医師会設立の議決が終わったならば設立委員は会則案を添えて速やかに地方長官に認可を申請し、地方長官はこれを認めたときは医師会の名称と成立年月日を告示するなどとなっていた。本県は、同年一二月二六日「医師会令施行細則」を定め、医師会設立認可申請の書類、総会の届出手続、議決事項の認可などを指示した(資社会経済下八〇五~八〇六)。
 医師会令と同施行規則により、愛媛県内の郡市医師会は表3―17のように、大正八年一二月の松山市医師会を最初に、翌九年三月までに新しい医師会組織に変更した。各郡市医師会が新発足した後、各郡市の会長からなる設立委員は、会則案を作成するなど県医師会創設の準備を整え、大正九年三月三〇日午後二時から松山市二番町愛媛県農工銀行楼上で設立総会を開催するために代議員を招集した。当日二九名の代議員が出席、設立委員長大内通が仮議長となって会則案を付議したところ満場一致で可決した。ただちに認可申請の手続がとられ県の即日SS認可指令を得て、ここに強制医師会が新発足した。
 翌三月三一日第一回総会が開催されて役員選挙を行い、会長に添田芳三郎、副会長に三並知夫・樋口虎若を選出した。なお、旧県医師会が発足した大正三年七月以来会長を歴任していた添田芳三郎は新県医師会に改組して間もなく勇退、大正九年一〇月一五日から山内正雄、同一一年一〇月一六日大内通、同一三年一〇月一日から再び山内正雄がそれぞれ会長に就任、山内医師が昭和一〇年四月一〇日まで一一年間会長を務めた後、安井雅一が五代会長に就任した。
 毎年一〇月に開かれる総会の第一日午後には松山医学会が開かれ、講演や研究発表会が催された。しかしこの会の名称が示すように発表者のほとんどは松山市在住の医師であったので、広く県内医師の参加や学術発表が期待できる医会にすべきであるとの声が早くから起こっていた。赤十字支部病院々長酒井和太郎は大正一二年一〇月松山医学会の席上愛媛県医学会の設立趣意書を配布して賛同を求めた。翌一三年一〇月一日第六回総会の午後愛媛県医学会の発会式を挙げ、酒井医師が会長に推された。

 県医師会の活動

 県医師会は結成以来、毎年の総会で医事衛生問題の討議を重ね県に建議するとともに、県の諮問を受けてその答申に努めた。任意医師会の時代は、コレラ・腸チフスなどの細菌検査所を各郡に設置すること、らい病患者の取締法を励行すること、結核予防のため風俗営業者に一年二回以上健康診断を実施すること、学校生徒のトラホーム病に対し予防治療上実績を挙げることなど大正五年の第三回県医師総会の場合のように県医師会が県当局に働きかける建議の型が主流であった。ところが、強制医師会の時代には県衛生課が県医師会にいろいろな衛生医事問題を諮問することが多くなった。大正一三年の第六回県医師会総会を例示すると、一般に対する花柳病予防思想啓発、一般公衆に対する保健運動の奨励、結核予防思想普及徹底に関する意見を求められ、その答申案を討論決議している。また翌一四年三月には特に臨時総会を開いて、県諮問の農村保健改善方法について答申案を協議、「衛生思想の開発に努むる事」「医師の開業分布を均衡ならしむる事」「伝染病院又は避病舎の完成を企図すべし」「住宅の構造を改善」「糞壺の改良」「寄生虫駆除に努むる事」など一八事項を指摘答申している。
 こうした県当局の依頼は県医師会の社会的地位を高めた。これに伴い、医薬分業・産業組合病院・健康保険など医権を圧迫する問題が起こると政治面に強い力を蓄積発揮するようになった。周桑産業組合病院反対運動・簡易保険被保険者診療契約問題などで敗退した県医師会は、政治的に目覚めて開業医の業権擁護をはかるべく、昭和一一年三月一七日の第一九回総会で愛媛県医政同盟会を結成した。