データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 民俗 上(昭和58年3月31日発行)

4 収     穫

 稲刈り

 稲の刈時期はカリシオと松山あたりでは言っている。稲穂が三分黄色になったら刈るとか、穂の元が少し青色を帯びたときに刈り取るのがよいとか言う。稲に限らず熟することをウレタというのであるが、稲については別にアリツイタという言い方がある。いかにも農民の気持ちを言い表して妙である。
 稲刈りは稲刈鎌と呼ぶ刈鎌を用いるが、昭和三〇年頃より鋸鎌が流行した。稲刈りの方法には、四株なり五株を刈取り、そのまま地面に並べて置く方法が最も一般的であって、これをベタガリ、ヒラガリなどといっていた。地面が湿地の場合はタナガリにした。これは一株だけ刈り残して、その上に刈り稲を置いてゆく方法である。
 稲の干し方は、ジキボシ、ベタボリ、ジボシなどというようにベタガリの状態で三日干して取り込み、籾にしてさらに三日以上六日位ムシロボシをする。棚刈りの状態で干すのをタナガリボシ、前列の刈り稲の上に穂部を重ねて置くのをヨロイボシと称した。その後イナギボシが一般化して来た。
 稲架には一段がけと六、七段の高稲架とがあるが、後者は上浮穴郡など山村地帯に見られる稲架で、しかも常設稲架である。これを宇摩郡地方ではハデという。屋根を設けている所もある。
 稲架干しの場合は、そのまま乾燥を待って脱穀するが、稲架になる以前は束ねて田の中に積み上げていた。これをヨセグロといったのであるが、穂先部分を中央に寄せ合わせて円筒型に積み上げて雨にぬらさぬようにする。

 脱 穀

 脱穀は干歯扱ぎであった。一握りの稲を千歯の子にかけ、引張って籾を落とす作業で、力の要るしんどい仕事であった。女の人で一日に籾一石五斗から二石位まで扱ぐのが普通一人前であった。温泉郡重信町西岡などでは、トコギといって人を雇って出来高に応じて賃金を払う扱ぎ方があった。しかしこれは専ら扱ぐだけの作業であったから二石四斗から三石ほども扱いだという。東宇和郡野村町の惣川付近では、脱穀をイネオトシといっていた。
 千歯は徳川時代から使用されだした脱穀機であるが、その後いろいろ能率を上げるための改良が加えられてきたわけであるが、松山地方では大正一〇年ころまでこの千歯を使用した。千歯には稲千歯と麦千歯があるが、麦千歯はなおその後も残っていた。
 大正一〇年ころになって「足踏脱穀機」が使われるようになった。また昭和一〇年頃から「動力脱穀機」が登場し、やがて機械化農業へと進展するようになるのである。

 調 整

 籾すりは「斗臼」を用いた。ヤリキウスともいった。臼は土製臼で、竹籠のかまちの中にニガリで練った黒粘土をぎっしり詰め込み、これに歯を植える。竹を割った歯が用いられたが、胴割れ米が多くなるという欠点があったので、えんじゅの木や樫の木の歯が用いられた。臼作りは、器用な人なら自分で作れるものであるが、臼作りの専業者がいた。
 この臼をヤリキで廻転させて籾すりをするのであるが、籾すりの必要人数は最低一〇人を要した。臼を廻す者(四人)、籾かけ(一人)、臼の口(一人)、万石(一人)、俵製(二人)、ぬがび(一人)である。臼の口は、臼から出たものを唐箕でさびて、ごみとすくもを除く仕事で女の人がやった。万石も大抵女の役目で、米と籾とを選別するのである。俵製は元気な男の仕事である。ぬかびはごみや籾殻の中の実のあるものが混入しているのを唐箕でさびて取る仕事で、普通女の人がやった。
 籾すりは大抵夜間に行った。疲れて眠くなるので「もみすり歌」をうたったりした。籾と玄米を選別するのは万石を用いたが、それ以前はユリバコ(揺箱)を用いた。温泉郡川内町の古老の話によると、籾すりは大抵の場合麦の播き付の終わった一二月に入ってからであって、倉か長屋で昼間から始めたが夜中に及び、時には夜明けになる時も稀でなかった。薄暗い石油ランプの中で、汗と塵埃にまみれての重労働であった。
 籾すり臼は、初めドウウス(男臼)という遣木で上臼を廻す形式であったが、大正末年に「女臼」といって木の枠の中に臼を入れ、足踏みで下臼が廻る改良型が入って来たという。
 籾すりは家族およびイイでやっていたが、賃ずりに任す方法もあった。温泉郡重信町下林の古老によると、明治三〇年代から大正年間にかけては村の若連中がこの賃ずりを請負っていたという。一組九人メンバーであったそうだが、若い衆はよく米のマツボリをした。ぬかびの女に頼んでおいて、籾をすくもの中に混ぜ込んでおき、あとでサビてマツボリにしたのである。またこの仕事場へ、他部落の若い衆が手伝いに来ることもあった。そのときこっそり土臼の上にローソクをたらしたりして悪戯をし、臼を空転させておもしろがったりしたこともあったそうだ。
 松山市久米地区の場合は、籾すり八人であったという。すり手四人、籾かけ一人、臼の口の万石(一番)一人、米万石(二番)一人、さび手一人の計八人である。なおこれに唐箕まわし、米取り各一と、俵装二人、それに炊事主婦を加えると合計一三人を必要としたという。
 籾かけ・さび手・米調整・俵装は交代しないが、すり手四人と万石二人は一俵交代で交代することになっていた。一俵俵製が完了すると「上り」と合図し、これをもって交代する。一時間の工程五、六俵であった。この作業は重労働だったから、空腹を満たすために雑炊が出たり、炊き込み飯が出た。