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愛媛県史 民俗 上(昭和58年3月31日発行)

3 稲作の管理

 江戸時代の水田管理

 江戸時代の水田管理の様子を『農家業状筆録』は次のように述べている。

扨稲は水のかげん大事なるよしにて、水見とて稲植付て翌日より田を廻り、苗の切れたるはうゑ付、あるひは水ふかければ水戸を下げ、浅ければ水戸を上げ、水廻りあしければ水戸切直し、水の廻りよきように仕(り)、夫より一通りにて隔る地所によりて毎日行(ふ)事なり。また蟹の穴を明け安(易)き所、又水少なき所、或は水を盗ぬ所などは、一日に両三度も水見に行(く)事也。夜分とても行(く)。水廻りあしき田へ水を引には、甚骨を折(り)、力を費す事とかや。また旱魃に至りては、昼夜もなくかけ廻りて水を廻し、水の番をし、水を汲(み)いれ、畦のわれぬように幾遍もかぎりなくぬり、おもひこらし力を尽し、其辛労万苦、言葉にも筆にも尽しがたし。風水又は虫付等にや害うけ不熟に至りては、春来数日の心労骨折も空、第一食とぼしく痛心すべきにたへたり。又田の草を取(る)事、苗を植付より十日め、処によりては十四、五日めに取、郡内村々にては大概三遍取、よく手の廻る人力のとどくものにあらざれば、四遍はとり得ず、不手廻りにて人力のとどかざるものは、二遍にてやむも有り。されども米湊(現伊予市)辺にては通例五六遍とるとなり。右の田の草一番二番三番四番と追々差向き、苗植付後十日頃にして、いまだ草はめみ見えねども、早草の根は土用中にはびこり、上農人は見えざるにとり、中は見て後芸(取)るといへり。一ばん草は分て念を入、能とりおけば、跡の草とり安し。最早(初) ロク<竹かんむりに鹿>(粗)末にとりおけば跡取くるしといへり。二番草より追々あつさにむかひ、炎天の暑きにてり付られ、水沸て湯のごとくなり。
  水無月の暑きてる日もくれかけて
   とるや田草のおひたたぬ間も
 稲はおゐおゐ・<田へんに易>(暢)し茂りて風通ず。終日腰をかがめて手をつき膝行さることなれば、笠をきても用をなさず。足へは蛭なむいふ虫のはいり、吸付て血をすいいとかゆく、汗はながれて眼にいり、くらみながらも泥手なればふくことならず、気もとおくなるゆへ、畦岸の焼石もいとはず腰をかけ、濁水を手に掬飲て気をやしない、足の蛭をすこぎのけ、しばし休ぬ。粒々誠に辛苦なり。なんなく無事に出来立てすら、苦労ばかりなきに、年により虫付、旱り等に出合て、骨折苦心誠に夜も寝ず、昼夜も打かかり世話をなす事なり。少しにても水かかりあれば、其水をだんだん田より田へ引、或は番水とて番をつけ、昼夜もわけ何時より何時迄いづれのおとし、又はいずれの田へ落すと定め、昼夜その村、其所より番をつけ、扨、そのおとしたる水、又夫々の田へ引渡し、畦より水のもれざるやうに幾遍も塗、引わたしたるも、田毎に水の多少を考へ、かげんを見て掛引をするなり。旱甚しきに至りては、泉ある処又川近ければ、汲水をしてかける事也。(以下略)
 当時の大洲藩内の水稲管理の事情と辛苦を活写したものであるが、この文中に見るような実態は、近年の機械化農業が始まるまで県下全域に見られたものであった。ただ特に変わったことと言えば、除草作業にころがしや八反摺が使用されるようになったくらいであろう。

 除 草

 植付後の水稲管理は、①除草、②配水、③施肥、④害虫駆除ということになるが、除草は五度も六度もした。
 除草作業は「草取り」といい、辛い労働であった。「草取歌」があるが、それはこうした労働の中から生まれたものであった。
 明治初年までの除草はすべて手取除草であった。五、六回も草取りをすると爪は欠け、手は軟化してしまい、板間などに落ちた銅貨などを拾うのに一苦労したとのことである。その後、ブリキ製のカンヅメと呼ぶ指輪式のものを指先に被せて除草するようになったが、これも不便な点があって間もなく廃れた。
 明治二七年頃になって「田打熊手」ができ、一番草、二番草はこの熊手打ちをしていた。熊手打ちは、一日に七、八畝程度の作業能率であったという。
 ついで明治四〇年頃、この熊手打ちに代わって「太市車」が発明された。太市車は耕起の不十分な所や堅い土地に縦横ころがすと土地が膨軟となり、一日に二反歩位できるほどに能率化したという。これと前後してできたのが「八反摺」である。太市車で縦横をころがした後を、八反摺で一、二回除草すると、手取除草は後一、二回やればよかった。
 その後太市車に代わって「船形中耕除草器」ができて、熊手打ちや太市車が姿を消すことになるが、船形除草器についても改良が加えられ、軽便で能率化がはかられた。二連式の除草器も登場した。これら除草器のことを「ころがし」と一般に呼んだ。ついで除草剤の時代になるのであるが、それは昭和三〇年代からである。
 除草は収穫に直接響くことであった。『農業実験録』にも「草取は第一番の分肝要なり。而して植え付け後七日目より十五日目に取り終はらざるべからず。一番草少しく遅くなるときは、穂揃はず、株の張り方悪しく一反歩に付き二三斗の減額を見る。それより二番、三番草と五番まで順次に取るべし。もし水なくして草取りの出来ぬときは時候植えにしたる田は深くけづり、後れ植えの田は浅くけづるべし。遅く植えれは下根腐り、次の節より根を出すを以て浅くけづらざればその新根を害する憂あるを以てなり。水の十分あるときは一番と二番との間を以て必らず一度うちかへすべし。」と言っている。
 また松山藩においても「植付後草手仕候はば、直に畑の手入致、六七日過候得ば、一番草に取懸可(レ点)申筈之事、忽せに致置候得ば農人草に追れ可(レ点)申侯。百姓草を追候様致候得ば上作可(レ点)致侯事。」(「松山領代官執務要鑑」)と除草を篤励している。

 水 利

 水稲栽培においては水管理か重要である。土用までは浅水にし、土用後は深水にするなどのことが生育管理上言われる。それも水が豊富であれば問題はないのであるが、渇水期の場合は番水制に切替えて配水管理をする。各田の水掛かりの状況を水番がついて適宜処理する制度である。所有者は水田の高低によって水掛かりの悪い地点(高所)に目印の標示物を立てることになっている。
 なお、それぞれ水利慣行があって水の問題は複雑であり、簡単に言うことは不可能である。各地・各種の水利慣行については別章を立てて述べる必要があると思うのでここでは略するが、一つだけ宇摩郡土居町小林部落における「香盛り」による水利慣行を挙げておくことにする。
 小林地区は水利不便の地で、用水配分に「香盛り」を使用した。香盛りは、谷川の分水地にある香小屋に置かれていて、毎日二回、日出時と日入時に耕作者全員が集合し、半日の用水配分を決めるシステムである。責人者三名と書記がいて、個人別、水路別の用水時間を決める。不参者には配水しないきまりである。
 香盛りは、長さ五尺、幅一・五尺位の木箱に灰を敷き、その灰原の中央に溝を切ってそれに香を置くのである。(溝は二条切る場合もある)。この溝に平行して香の外側に鉄製のクシを立てる。このクシの立て方は水田面積に比例して立てるので、一反当二分二厘の長さである。クシは個人名を示し、香が自分のクシの所までくいぼってくると小屋をスタートし、自分の田に水を引く。この場合、早く自分の田に到着すれば、それだけ多く水を入れることができる。それによって「息切れ水」の異名が起こったのである。
 五畝とか三畝とか面積の少ない場合は、次の者に追越されて自分の田に水を引くことができぬ場合も生じた。
 しかし、早取りした場合には罰則があった。スタートが早過ぎたときは証人がいて、二回にわたったときは用水権が一回はずされる。その他、水の貸借が認められていた。しかし、大雨が降って配水できた時はご破算となる。香盛りによる水利慣行は、衆人監視の中で行われるので不正は許されないのである。
 この香盛りは合理的ではあったが、昼夜共に息切れ水の名のとおり走らなければならぬという苛酷な労働力が要求された慣行であった。しかし、昭和二九年銅山川疎水の貫水によって、昭和二八年をもってこの水利慣行は消滅した。
 香をもって時間を測定する風は、時計のなかった時代にあっては最も合理的な方法とされていた。たとえば、松山地方で田に灌水するのに「踏車」(水車)が使用されていた時代がある。発動機による水の吸み上げが普及する以前であるから、昭和一〇年頃までのことである。
 踏車は人が羽根状になった車を足で踏んで廻転させ、送水する灌漑器具であるので、これを踏むには交替で踏む。その交替時間が線香一本分になっていたのである。その他のことでも線香は時計代わりに用いられていた。

 番水制

 なお一般的な番水制について、温泉郡重信町上村の事例を挙げておく。上村では、農検二名、水引四名をとる。四名で間に合わぬときは「添え水引」が四人ついた。水の権利は農検にあり、水引も権利をもっている。添え水引は水引の指示に従う。区長にも権利があるが、農検に任せている、 村内に三か所水引番小屋を設けた。三か所とは、上・中・下で、上は仮戸口(二人)、中は鮒川(一人)、下は横井手(一人)に配置した。番小屋は昼間は休み場になる。水のある間は池水配水をやればよいが、水不足になるとたいへんである。それで、水引には手当として一日二升五合、昼夜になると六分夜勤手当がつく。それをブアシという。夜間水引きをするようになると添え水引がつく。
 水管理は湧泉と池とでは異なる。降雨があると、それによっても変化するなどこまかに取り決めがある。日照りの時の水管理には、①オオナラシ、②カケドメ、③ハシリコミ、④キリワタシ、⑤ハエキリの五方法があった。
 オオナラシ すべての田にまんべんに配水し、そのあと三日くらい休む。オオナラシから添え水引がつく。
 カケドメ それまでは満水してミト落ちするまで配水していたのを、大体田全体に水が行き渡れば止める。田の最高所に目印のホテを立てており、ここに水がかかれば止める。
 ハシリコミ 田の高低に関係なく、田全面に水がかかれば止める。なお、これにはブカケ(分掛け)といって、田の面積に比例して配水する方法があった。これをハシリコミノブカケと言った。こうなると雨乞いをした。
 キリワタシ 満水状態になるとミト(水戸)を切り、下の田に水を落とす。水口からも注水して水を早く落としてゆく。
 ハエキリ 水をハエ出すまでする方法。ハエルはすくい出す、汲み出すという語意で、一担入れた水をすぐに畦を何か所も切って、その田の水を早く下へ落としてしまう方法で、普通三か所くらいを切って落とす。
 現在では水利開発事業がすすんで旱害の心配はなく、それに伴う水争いもなくなったけれども、往年の旱害時の苦労話、たとえば、土瓶で水をかけたとか、川のちょろちょろ水を汲んでかけたとか、他所の田の水を盗んだとか、稲作をめぐってのエピソードは多い。

 肥 料
  
 肥料を一般にコエ・コヤシといっていた。昔は自給肥料が主体で、しかも元肥中心主義の農業であったから、普段から自給肥料の製造を心がけたし、これが農民の要諦であった。
 肥料は大別して、①刈肥、②下肥、③厩肥、④堆肥、⑤金肥がある。『清良記』の「親民鑑月集」は本県ゆかりの農書であるが、それには肥料に「糞」の字をあてている。「刈糞」「身糞」「上糞」などの語が見える。その後の江戸時代の農書にも肥料を糞と記している。
 『清良記』は「糞のかけ様、糞肉類、油粕を上糞として作にかけるに、春は三十五日計に其作を養ひ出る。……木草の葉をば刈糞と言ふ。糞肉類は、糖糟の類をば身糞と言ふ。(巻七、「万作物種子置様の事」)と記している。
 ①刈肥 草木による緑肥のことで、山野の草木を刈り取って来て堆積しておき、必要に応じて元肥として地下に敷き込むので、カリゴエ、カシキ(刈敷)などいう。
 刈肥についてはそれぞれ土地の慣習があった。越智郡玉川町などでは、田植後二八日過ぎに、山の草刈りをすることになっていて、それがすむと「肥刈り休み」をした。農休日であってご馳走をつくって仕事を休んだのである。同町古屋谷では、八十八夜を過ぎた頃から二〇日ばかりの期間をかけて肥刈りをした。
 刈肥には入会山(共同山)があって、時期を定めて採取するのが一般的慣習であった。それを「山の口明け」といったのである。温泉郡重信町の場合、上村など四か村は五月中(三〇日間)、牛渕・田窪の二村は五月中と九月一日より二〇日までの五〇日間であった。北濃田村大手鑑(弘化四年=一八四七)には、「五月節三十日之間、志茂林村左川奥野山エ草札以入山」とある。
 刈肥は肥効がよく、金肥で作るより収量がよいので、肥草山の拡大を要求したりしている記録もある。天保九年(一八三八)志茂林村(現温泉郡重信町下林)から代官所に願い出た文書に、「(前略)刈肥ヲ以作業来候迄、近年右刈敷不自由二御座候間、鰯、胡麻かす等相調作付仕候処、地味不相応、買肥ニテ作り候分ハからやし、或は穂枯等御座候得共、刈敷ニテ作り候向ハ殊之外実熟宜敷御座候。全ク刈肥地味相応候儀ニ奉存候(下略)」というのがあるのはその一例であるが、緑肥は刈肥とか刈敷といったのである。これに対して鰯、胡麻かすなどは買肥で、金肥である。
 刈肥のついでに水田の畦草について一言しておきたい。俗にクロがりと呼んでいるが、これも水田管理上重要なことになっていた。常に気をつけて刈らないと、相手側に迷惑をかけることになるので、その配慮をした。これも地域による慣行があることであって、たとえば温泉郡重信町上村の場合だと、土用三日までに一度目を刈ることになっている。その後は草の状況を見て刈るのだが、それを刈らぬときは、隣接田の耕作者が一度督促をする。それでも刈らぬときは隣接者が刈り、草もその所有権ができるのである。つまり畦草は畦側(上手)の田の所有権ということになっているのである。
 ②藻ば刈り この刈肥に対して、海辺地や島では海藻を肥料とした。それをモバガリといった。これにも慣習があって勝手にはできなかった。
 温泉郡中島町上怒和では、二月末から三月にかけてがモギリ(藻切り)の時期で、ドンザに縄帯のいでたちで、手に手に藻切り竿を持って浜に集合する。みんな焚火を囲み潮待ちする。そのうち半鐘が鳴り出し、それを合図に一斉に沖に船を漕ぎ出し、船に山のように藻切りをしてもどって来るのである。人びとはこの日のために前日から仕事を休み、米飯を食って構える程であった。
 越智郡の島では、ガラモといっている。ガラモの口明けは太鼓で合図する。吉海町椋名では、太鼓が鳴ると一斉に海岸に行き、ガラモ採りを始める。二、三日でことごとく採取する。勝手に採ることは許されないのであるが、それが唯一の肥料であった。
 ③下肥 人糞尿をシモゴエともダルゴエともいう。ドウミズ(中島町)という所もある。コエツボ(肥壷)で十分腐熟させて薄めて使った。以前は欠かせない肥料であったので、農家では風呂の捨水なども溜壷に落として用いていたし、都市近郊の場合は町家と契約してお得意をとっておき、肥溜にためるようにしていた。肥溜を野雪隠とか野壷と呼んでいた。伊予市郡中町の場合、一ヶ年の契約が、おとな一人糯米五升、子供三升であった。また今治地方では、一月四日に市中の得意先に出向き一人糯米二升五合~三升で一年間契約する風であった。この慣習は『今治夜話』にも見えており、延宝年間以来のことであると記している。
 大洲市黒岩などの桑栽培地帯では、川舟で下って喜多郡長浜町の町家から下肥を運んでいた。ニブキ(薪木)を町に売りに出たついでの帰り舟で、アゲダメ(下肥用桶)を二荷用意していて、それで持ち帰っていたのである。現在では田舎にも衛生車が汲取りに来るようになったし、下肥を肥料として田畑に撤く風景は見うけなくなった。昭和五〇年代になってからである。
 なお、下肥に関連して余談を記しておきたい。それは、昔の農家の便所である。便所はセチン(雪隠)、セッチン、センチなどと称したことは先に言ったが、農家の便所はどこの場合も溜壷が半坪余りもある大きなものであった。この上に板を渡した程度の便所であったので、よく踏み外して下に落ちたりしていた。
 便所に隣接して風呂場があり、その使い水は溜壷に落ち込むようになっていて水の無駄捨をしない工夫がされていた。また、下肥が貴重視されていた事例を挙げると、温泉郡重信町山之内で、部落集会のときにできた下肥を落札していた記録がある。それで野外へ小便した場合は罰金一銭をとったというのである。同じような話は、松山市河中でも聞いている。若衆宿をすると、若衆の落としてくれる糞尿が宿主の得分となるので、もし誤って野外に小便したりすると宿主からひどく叱られ、泊り宿を断られるほどのものであったそうである。
 ④厩肥 牛馬の駄屋でできる肥料である。ダヤゴエ、ダノコエといった。野辺から刈ってきた雑草や稲藁を牛馬に与え、また駄屋に敷いてやると、それを牛馬が踏み込むので多量の厩肥ができる。元肥として使用した。
 ⑤土肥 日常生活でできるごみや有機物に草木灰や土をかけて腐らせた堆肥をツチゴエと呼ぶ。このツチゴエをつくるツチゴヤと呼ぶ小舎を設けている農家もある。
 ⑥金肥 油粕・菜種粕・干鰯など購入肥料(買いごえ)をカナゴエと言った。大豆粕・焼酎粕などその種類も豊富になるが、のちにはいわゆる化学肥料が普及するようになって、これら金肥は姿を消した。

 虫よけ

 病害虫のことは後章「除災儀礼」の項で述べるつもりである。それでここでは農作業における虫よけについて記しておきたい。
 夏の農作業で困るものに、マムシ・ブト・ヒルなどの被害がある。マムシにはマムシ除けの呪法があったり、民間信仰があったりする。ブトはブヨ・カツボとも言う。特に曇天や小雨の日はブヨが多く出て来てうるさく飛びまわり、噛まれるとかゆいので難儀をする。それを防除するために考案されたのが「火すぼ」である。上浮穴郡や伊予三島市富郷ではカツコという。伊予郡広田村ではスボシとかブトイブシという。ボロ切れ、唐黍の毛、髪の毛などをない混ぜ、それを藁か青草で巻いてスボにし、火をつけてくゆらしながら腰に吊すのである。