データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 民俗 下(昭和59年3月31日発行)

三 風流その他

 1 風  流  芸

 「風流」という語はもともと歌舞とは直接のかかわりはなく、中国では古く伝統・余風を意味した例があり、日本では平安朝期に造形の意匠を意味するようになり、祭りの行列の意匠も含まれていき、やがて山車や仮装、中世にいたって華麗な衣装や採物を伴う踊りをも風流・風流踊りと称するようになったとされている。ここに風流芸というのは、この風流踊りに類し、またそこから派生したと見なしうる諸芸能のことである。
 太鼓踊り・念仏踊り・盆踊り・小歌踊り・採物踊り・仮装踊りなどがこれに含まれ、練り物もこれに含めるが、愛媛県にはこれらの芸能が、それぞれ伝存している。

 (1) 太鼓踊り

 太鼓を打ちながら踊るもので、太鼓を身につけるものと、手に持つものとあり、さらに、据えた太鼓を打つものでも、太鼓を打つ動作が一種の踊りとなっているものもこれに加える。
 愛媛県にはこれに属すると見うるものが少数例ある。

 新宮の鐘踊り

 歌詞に念仏を含む踊りであるが、打楽器を打つことに特色があるから、ここに加えて述べる。
 宇摩郡新宮村内野で旧暦八月一日(八朔)に(現在は九月第一日曜日)の大西神社の祭に行われるもので、太鼓と鉦を打つが、鉦の音のほうが大きく響くので、踊りの名となったものと思われる。
 一年交替で頭屋を定め、当日頭屋から役々が、この踊りのためにのみ用いる踊り坂という木の間の道から境内に練り入り、笹を立て注連縄を円型に張った踊り場に入る。役々は面をつけた猿田彦(鼻高面)一名、錦の陣羽織に野袴で陣笠を被った棒振り一名、長着に野袴、手甲・脚絆をつけ鉢巻を締め白足袋にわらじばきのはつり(まさかり)の役(男児)四名、白上衣に赤袴、鉢巻のなぎなたの役(少女)四名、裃で花笹を被った鉦打ち一〇名、棒振りと同じ装束の締太鼓の役二名、以上二二名である。なぎなたとはつりが切り結ぶ「打ち入り」を踊りつつ踊り場のなかで列を整え、神職による祓いなどの儀礼があるが、このとき面の役が神職のそばにいて、かしわ手を後ろ手で打ったり、拝礼は逆に反りかえったりする。棒使いの口上ののち、よせ・七つ・三つ・九つを一庭とする「念仏」の踊りに入る。片足ごとに二度ずつ跳躍する型に特色がある。最後に隊型を変えて、「ヤレトウ」の踊りで結ばれる。曲は「念仏」と「ヤレトウ」の二曲で、前者の歌詞は「南無阿弥陀仏や」の訛伝と思われる「ヘイ、ナムオミドーバ」の類の詞の繰り返しであり、後者の歌詞は次のようなもので、とじめの語の途中に近世初期風の小歌が挿入された形のものである。

ヤレトウトウは なんのこと なんのこと うしろ山から 月ゃ冴えてきた 月ゃ冴えてきた お月ゃじゃれもの また冴えてきた また冴えてきた 新宮のびやの瀬で 入れがみ落とした 入れがみ落としたとりにもどろや さいよ もどろや さいよ もどろや ヤレトウトウは われらが いとまのこと いとまのこと

 大西神社は天正五年(一五七七)七月一〇日に土佐の長宗我部元親らに敗れて自刃した大西備中守元武を祀る社で、この踊りはその霊を慰めるためのものだとされるが、踊りの始源は定かでない。

 薦田踊り

 宇摩郡土居町小林と畑野に、それぞれ薦田踊りと称するものが伝わっている。ともに太鼓を打って踊るが、形態や演目の名は同じでなく、ともに天正年間、豊臣秀吉の四国征伐で滅亡した薦田一族の慰霊のためと伝えられているが、小林では渋柿城主薦田治部義清を祀る薦田神社境内、椿堂、田尾池の堤防で八月一五日に踊られ、畑野では中尾城主薦田備中守義定のために阿弥陀堂境内、廃東善寺跡で踊られる。
 小林のものは前列で囃子方が締太鼓を打ちながら動作し、後列で踊り手が踊り、その横で歌い手が歌い、畑野のものは踊り手の少年男子一二名、青年男子若干、締太鼓・すり鉦各六、歌い手若干名で、円型に並び、右回りに進みながら、内側に踊り手、外側に歌い手が、それぞれ動作するものであり、演目は小林では「御上手」「入葉」「館」「七夕」「濃紅」「御(深)山」「宝」「鶴嬢」「塩屋」「日向」「志和久」「四季」の一二曲、畑野では「バンバヤ踊り」「喜造返し」「ひやりや返し」「扇の手」「姫君日向ドンドンの舞返し」「筑紫返し」「四季の踊り返し」「早弓」「姫君踊り返し、カンカンの舞戻り」「なんばや踊り、扇の手返し」「湯の山踊り返し、ゆり拍子」「喜造返し」「イザイ」の一三曲(重複を含む)である。歌詞には

ここは出釈迦か 弥谷さまか 岩を伝えば みな仏(畑野、「バンバヤ踊」、囃し詞省略)

 のような近世俚謡調のものと、

喜造来るかと出てみれば 喜造山かげ雲ばかり 喜造のおどりをひとおどり(畑野、「喜造返し」、囃し詞省略)ヤア館へ参りて 御門そろいを見ていれば ヤア御門柱やまき柱 ヤア桁はせんだん たるきを樫木とうち見ゆる ヤアなおも見事な館がかりを ヤア館踊りを〈以下略〉(小林、「館」)

 のような近世初期小歌風の形式のものが見える。近い土地で形態や歌詞があい異なるのは、のちに述べる小歌踊りにも見られる現象で、愛媛県のみに限らないものであるが、こういう現象がなぜ生じたのかは、現在のところ不明である。

 雨乞踊り

 雨乞いのために踊られる例は太鼓踊り以外にもあるが、雨乞踊りと称して定期または不定期に踊られるものが県下に三件ある。
 川之江市金生町山田井の雨乞踊りは、昭和一〇年ごろまでは二つの龍王宮の祭礼に神社の境内や所定の場所で旧六月一五日に踊られたが、九月下旬~一〇月上旬の間に現在は金生第二小学校の運動会に踊られる。小学生が伝承し、踊り手二〇名程度が締太鼓二、歌い手若干名の楽と歌とで、浴衣姿に花笠を被り扇子を持って踊る。
 越智郡弓削町の雨乞踊り(通称「トビ踊り」)は、干害時(当然不定期)に、社寺の境内、道筋の石仏の前、広場などで踊られる。もとの上弓削村、下弓削村、佐島村の各村から幡一、鉦一、大太鼓、締太鼓(大太鼓の倍の数)の隊をそれぞれ構成し、尻はしょりの浴衣、襷、鉢巻、手甲・脚絆に草履ばきの姿で、第一日目に下弓削から上弓削、第二日目に上弓削から下弓削へと、社寺・石仏の近くで円陣を作り跳躍しつつ歌う踊りを幾庭か(一回を「一庭」という)踊って練っていく。室町時代からのものとも、中国筋から伝わったとも伝えられているが、定かではない。
 西宇和郡伊方町の「雨乞い千人踊り」は、干害の際に不定期に、伊方・九町の八幡神社、二見一宮客神社の境内、大峰山山頂で踊られるもので、部落ごとの場合と、町全体で行われる大雨乞い(総寄せ・大寄せ)とがある。踊り手を兼ねた太鼓打ち一一名、他にホラ貝、鉦各一の構成で踊られる。
 前日の午後、五時から七時にかけて、八幡神社の境内に支柱と横二段の丸太で櫓を組み、部落ごとの太鼓を横に並べて取りつけ、翌朝五時に神事をはじめ、祓いののち、部落代表が社殿のまわりを三周し、六時ごろから歌と掛け合いで大太鼓を打ちながら踊り、一一時ごろ、各部落の代表が大太鼓を一斉に打ち、参集者が歌を唱和する。この間、火を焚き、水桶の水を笹の葉で撒き、社殿では神官による祈祷と楽太鼓が行われるのが作法である。
 明治以降昭和五三年九月までに二〇回実施された記録があるが、由来は不詳である。
 大雨乞いでも雨が降らないときは大峰山山頂(海抜三五八m)で雨乞いをする。これを「大峰ごもり」といい、人形を切り抜いた紙を持っていき、山頂に置いてくるものとされた。これは明治二九年生まれの古老の話では二回行われたという。なお、土用の二〇日間は行わないものとされる。

 (2) 鹿踊り

 所により「ししまい」・「しし踊り」・「デンデコ」・「鹿の子」などの名で呼ばれる、鹿の頭をいただきホロを垂らし、そのなかで胸につけた太鼓を打ちながら歌い踊る芸能が、南予地方に行われている。
 鹿に扮する歌舞は、『万葉集』巻第十六の「乞食者の詠」(三八八五)にその歌詞ではないかと思われる例があり、同じ巻の越中国の歌(三八八四)の「伊夜彦の 神のふもとに 今はらもか 鹿の伏すらむ 皮服着て 角つきながら」という仏足石歌体の歌謡らしい歌も、この種の芸能に何かの関係があるのかもしれないと思われるし、全国各地に古くから鹿の踊りがあってふしぎはないと思われるのに、現実には東北の一部と、その系統だと言われる愛媛県南部のものだけという状態なのは、なぜなのかはっきりしない。
 愛媛県のものは、鹿の数によって五つ鹿から八つ鹿まであり、現状では五つ鹿の例が多い。歌詞から見ると元来ただ一種の踊りが各地に伝播したものと思われるが、土地により鹿の数の変化のほかに、舞いぶりや歌の旋律、踊り手の年齢などいろいろ異なり、用いる楽器も太鼓のほかに笛の加わる例もあり、結局まったく同じものは二つないといってよく、こまかな差違はなお叙述しがたい。神社の境内と、練りに加わって街路で行われるのが通例である。
〈八つ鹿踊り〉 宇和島市裡町の、宇和津彦神社の一〇月の祭りに行われるものは、初代宇和島藩主伊達秀宗が元和四年(一六一八)に宇和津彦神社を一の宮と定め、慶安年間(一六四八~五一)に仙台伊達領に行われていた「八つ鹿踊り」をその祭りの練りに加えて演じるようになり、裡町の住民が担当することになったのが起源と伝えられ、嘉永二年(一八四九)の「宇和津神社祭礼絵巻」(末広伊作筆)では五つ鹿であったことが示されているが、大正一一年、摂政宮行啓のおり台覧に供してから八つ鹿に復元されたという。
 小学校三年生以上中学生までの男子で雄鹿七、雌鹿一に扮し、手甲・脚絆、わらじばきの姿で、雄鹿が雌鹿を探して見つけ、喜び勇んで帰るさまを、様式化された優雅な振りで、すり足で動作しつつ歌い踊る。
 歌詞は次の通りである。

回れ回れ水車 遅く回りて せきに止まるな せきに止まるな
中立が 腰にさしたる すだれ柳 枝折りそろえて 休み中立 休み中立
十三から これまで連れたる 雌鹿をば こなたの庭に 隠し置かれた 隠し置かれた
なんぼ尋ねても おらばこそ 一もとすすきの かげにおるもの かげにおるもの
白さぎが あとを思えば 立ちかねて 水も濁さぬ 立てや白さぎ 立てや白さぎ
風が霞を 吹き払うて 今こそ雌鹿に 逢うぞうれしや 逢うぞうれしや
奥熊が 奥の長路を 越えかねて 爪を揃えて はやす面白 はやす面白
つばくろが とんぼ返り 面白や 一つもさげなや あおちかやせやな あおちかやせやな
国から 急ぎ戻れと 文が来た おいとま申して いざ帰ろう いざ帰ろう

 短歌形式の、省略と繰り返しを含んだものをつらねて雌鹿探しのストーリーを表現した歌詞で、そのストーリーが多少の語句の変化や訛伝による差はあっても、県内の鹿踊りに共通しているのである。
 八つ鹿踊りはこのほかに大洲市森山大川、喜多郡肱川町予子林、東宇和郡野村町惣川、城川町窪野などに例がある。
〈七つ鹿踊り〉 東宇和郡城川町遊子谷と北宇和郡吉田町立間に「七つ鹿踊り」が伝わっている。遊子谷のものは猿の役一人を伴う。隣村の土居村(現城川町)三島神社の「八つ鹿踊り」を習い伝えたとき、一つ減らされて七つ鹿となったと伝えられ、立間では宇和島が「八つ鹿」、吉田が「七つ鹿」、その他は「五つ鹿」で、鹿の数に宗藩、支藩の格式や神社の社格が示されていると伝えられているが、この種の由来はなおはっきりしない。
〈六つ鹿踊り〉 大洲市蔵川、東宇和郡野村町西、城川町下相、南宇和郡城辺町鯆越、久良、一本松町広見などに「六つ鹿踊り」がある。数の由来は定かでない。
〈五つ鹿踊り〉 この例が最も多く、喜多郡から南予一帯に約五〇件が伝わっている。
 以上略述したが、これらの鹿踊りは一件ごとに他と異なる点を持っているといってよく、そのすべてを総合的に調査するのが、これからの課題の一つである。
 東北地方の鹿踊りについても、この種の調査が行われ、他の地方の一人立ちの獅子踊りの全体ともつきあわせて、より精細な比較研究が行われるべきだと考えられるが、それも今後の課題に属する。

 (3) 念仏踊り

 念仏は仏とくに阿弥陀仏を念じることであり、これに極楽浄土のイメージをありありと心中に描き出す観想念仏と、阿弥陀仏の名を唱えて帰依の心を表わす称名念仏とあり、この称名に曲節や踊りの振りをつけたものが踊躍念仏(また踊り念仏)で、一〇世紀の空也上人に始まるとも言われるが、一三世紀の一遍上人のひろめたものがあとまで影響をおよぼし、いろんな念仏踊りを生んで雨乞いや御霊会、また盆の供養に用いられ、太鼓踊り・小歌踊りなどを生む原動力ともなったというのがおよその歴史である。ここには歌詞に念仏を含み盆の供養に踊られるものを扱う。太鼓踊りに加えた「新宮の鐘踊り」も、念仏踊りの一種に数えることができる。
 県内に、この種の念仏踊りが、盆の念仏行事のなかにまじって、いくつか伝存している。大きく分けると、踊り手が仮装して太鼓を身につけるものと、べつだん仮装せず手に鉦を持つものとにわかれ、前者は松山市からその周辺にかけての山間部に、後者は南予地方に散在する。

 楽頭と提婆踊り

 温泉郡重信町山之内麓に伝わるものは、「楽頭」と呼ばれ、盆の八月一四日夜、部落内の薬師堂の境内で行われる。堂の傍らの高神様と呼ぶ石像(頭部欠損、文政一二年造立)のそばに、竿の先に行燈をつけた高灯籠を立て、高神様と堂わきやや奥の六地蔵様に奉納するのが本来の姿であったが、現在は五輪塔(近年発見された残欠で、室町時代のものと言われる)と六地蔵に奉納する形をとっている。
 白衣・白足袋で大数珠と榊を持った神主が五輪塔(ゴンゴロ様と称している)に向かって祝詞と般若心経を唱える間に、白衣・白足袋にわらじ・はばきの姿で頭にシャグマを被り胸に大太鼓をつけた大提婆と、同じ衣装で胸に小太鼓をつけた小提婆、および念仏鉦をもった鉦打ちとが、太鼓と鉦を打ち、絡み合って踊り、念仏衆が踊り場をはさんで向き合い、「ナーマミダーブヤ ナーマミダー」の称名念仏を掛け合いで唱える。この念仏にはべつだんの曲節はなく、傍線部が音の高い部分である。大提婆は後ろに反り、小提婆は前屈し、鉦打ちが両者の間を通り抜けるように動くのが、動作の特徴である。大提婆は面をかけるが、この面はこの地の重門城(別名「麓城」)の城主だったという加藤遠江守ゆかりの古面といわれ、雨乞いに効験があるとされている。室町時代の作(後藤淑鑑定)と見られ、竜もしくは鬼の面である。この踊りは雨乞いにも踊られ、明治三七年から昭和一九年までに四回その例のあったことが村の記録簿(明治三六年一月起)にある。
 松山市福見川町に伝わるものは、「提婆踊り」(また「庭入り」)と呼ばれ、八月一五日夜、徳正寺阿弥陀堂の境内で行われる。「みちびき」「御祈祷」「提婆踊り(念仏)」の順で行われ、神楽装束に鬼面をつけ大太鼓を胸につけた大提婆と、同様の面と装束で小太鼓を胸につけた小提婆が庭で踊り、神楽装束の鉦打ち二名が囃し、念仏衆若干名が唱和する。大提婆は頭上で太鼓のバチをまわし、小提婆は前かがみの姿勢で太鼓を打ちつつ旋回して踊り、一段落ごとに、膝をかがめ両手を地につけた姿で大提婆に向かい合い、これを七五回繰り返す。若者、家に差し障り(不幸、不浄)のない者を区長が役に選任するものとされ、この御祈祷をすると秋がよいとか、提婆の風に当たると夏病みしないとか言われている。この地の奥城城主と村内物故者の慰霊のための行事という意味をもっているが、起源は山之内麓の「楽頭」と同様、不明である。
 この種の踊りは山之内の各部落、藤ノ内、大野、御所、黒滝などにも盆行事として行われていたもので、黒滝のものは昭和五、六年ごろまであったという。
 以上の諸例については、森正史の諸報告(参考文献参照)に詳しい。

 東予の念仏踊り

 伊予三島市富郷町津根山(字)城師の百万遍(「大念珠まわし」ともいう)は、七月一六日、阿弥陀堂で行われ、多数が大念珠くりをしながら念仏を唱え、その輪の中で巫女姿に榊を持った踊り手一名が踊る形式のもので、町内の葛川、宮城部落でも似たものが行われている。同市中之庄町竹本の雨乞踊り(「なっぱいどうや」「水波踊り」ともいう)は六月一三日夜、および不定期に水波権現通夜堂、山田薬師の境内で踊られるもので、締太鼓四、すり鉦一〇、歌い手若干名が歌い囃し、成年男子の踊り手八名が揃いの法被にわらじばきで手拭、うちわ、傘などを持って踊るもので、盆行事ではないが歌詞に次のように念仏を雨乞いの詞とともに含むので、ここに数えておく。

エー なっぱいどうや なっぱいどうや〈中略〉なむでそら 雷さんじゃ 雷さんじゃ 雷さんじゃ なむでほい なむでほい 水神さんじゃ チャンチャンチャン

 南予の念仏踊り

 喜多郡と東・北両宇和郡に、念仏踊りがいくつか伝わっている。それぞれに相違点を持つが、踊り手が手に鉦を持つ点などは共通している。喜多郡五十崎町大久喜の踊り念仏(福岡、宿間各部落にもある)、肱川町山鳥坂(字)上嵯峨谷の「山鳥坂の念仏踊り」、河辺村横山(字)三久保の念仏踊、東宇和郡野村町惣川の興福寺、本光寺の念仏踊り、富野川(字)成城の成龍寺の念仏踊り、城川町川津南の念仏、魚成の「龍沢寺楽念仏」、北宇和郡広見町畔屋の「畔屋念仏」、小松の「善光寺念仏踊り」、松野町目黒の施餓鬼念仏などがその例である。東宇和郡のものは、それぞれに形態に多少の差違はあるが、太鼓を複数並べて据え、これを打つ振りが一種め踊りに相当し、鉦の役が太鼓の役と同じく笠をかぶり、鉦を打つ振りが同様踊りに相当する点は共通している。「畔屋念仏」は八月中に寺、茶堂などで踊られるほか、不定期で稲祈祷、虫送り、雨乞いなどに踊られる。
 太鼓を打つ動作が一種の踊りになっている点は、太鼓踊りとも共通するし、のちに述べる小歌踊りのなかにもその例を見ることができる。

 小踊り

 東宇和郡野村町小松の本光寺大師堂の施餓鬼会に踊られる「小踊り」は、念仏踊りの歌詞が近世初期踊り歌風の小歌になっている例である。堂の縁に太鼓を据えて打ち、踊り手は門前で一踊り鉦を打ちつつ踊ってのち堂前の庭に練り入り、円陣を作って、歌いながら鉦を打って踊る。歌詞には踊ろよ 浄土踊りを 踊ろ なむあみだよ なみあみだ〈中略〉七つとや ただ何事も ふり捨てて 極楽浄土へ 行くぞ嬉しや これまでよ 浄土踊りは これまでよ(「浄土」。囃し詞省略)

のように称名を含むものもあるが、

鎌倉の かじの娘は 日本一のお手ききと 聞こえた〈以下略〉(鎌倉)踊ろよ 伏見踊りを 踊ろ 伏見恋しゅて 出て見れば 伏見隠しの 霧が降る〈以下略〉(「伏見」)

のような恋を含む現世的な歌詞がほとんどである。なお「鎌倉」は半音抜きの長音階といってよい旋律を有して美しく、どういう経路でこの音階が入りこんだかが、興味をひく点の一つである。

 (4) 盆踊り

 盆に踊られる踊りは風流芸のなかにいろいろあるが、ここにいう盆踊りは、盆の仏事の一部として踊られるこれらの踊りのうち、太鼓と歌い手とを中心に円陣を作って不特定多数の人が踊り、歌詞は七七七五のいわゆる近世俚諺調のものや七七の句をつらねた口説を用いるものをいう。近年の、レコードの歌曲を流すものよりは古いが、小歌踊りよりは新しい様式のものである。むろん、盆の精霊供養のために踊る風習はかなり古くからあったと考えてよいであろうが、現存のいわゆる盆踊りがそのまま中世や古代の姿を伝えているわけではない。
 この類の踊りは全国に分布し、県内でも確認されたものは八〇件を数え、獅子舞(神楽芸の二人立ちの獅子)についで多い。他の種の芸能と同様、一つ一つくらべると多少の違いがあり、それぞれの特色を詳しく調べるのは今後の課題である。数が多いのと、成立が比較的新しいために、より古い芸能にくらべて歴史的価値がやや小さく感じられることなどによって、調査のいちばん及びにくい種類のものでもある。ここには目立ったもののみにつき、その要点を述べるにとどめる。

 東予の盆踊り

 「とんかかさ踊り」「とんかかさん」などと呼ばれる踊りがいくつか行われているのが目立つが、形態は所により異なる。
 西条市千町の「とんかかさ踊り」は、歌詞は「桜三里は源太のしおき 花は咲ことも実はなるな」のように近世狸謡調のものを持つが、単衣に袴をつけ襷、鉢巻の姿で刀や扇子を持って踊り、天正年間、豊臣秀吉の四国征伐のとき長宗我部元親の軍に加わって伊予に入った伊藤祐晴がこの地に土着して好華山誓願寺を創建し、供養踊りとして奉納したのが始まりだと伝える。東予市石田の大智寺境内で行われる「石田のとんかかさん」は、日の丸の扇子を合掌させる振りがあり、小早川隆景の四国攻めのとき迎え撃って敗死した金子備後守元宅はじめ一族の慰霊のため隆景が踊りを手向けたのに始まるという。宇摩郡別子山村弟地の「別子山のとんかかか踊り」は女は浴衣に編笠、男は侍姿で扇子を持って踊り、鎌倉時代開村以来のものを、長宗我部氏の落武者が再興したと伝え、周桑郡小松町新屋敷の「小松本善寺の盆踊り」(通称「トンカカサン」「新崖節」)は踊り手が各人二本の扇子を手先であやつって踊るもので、元文五年(一七四〇)、小松藩主一柳頼邦の生母延寿院が亡夫治良の冥福を祈るため、本善寺で興行したのが始まりで、延寿院の死後も遺言により行われてきたと伝える(『小松藩会所日記』『小松邑志』)。延寿会の行ってきたものは昭和四二年に後継者のないため中絶し、現在は盆その他不定期に、延寿会員のほか昭和五三年設立の小松町郷土芸能保存会が公開している。

 お簾踊り

 周桑郡丹原町田滝に伝わる「お簾踊り」は、盆にも踊られるが、もとは歌詞から見ても雨乞いの踊りで、背後の山中に奥の院、麓に遙拝所を持つ黒滝神社に奉納されるものであり、いまも旧七月三〇日、八月一日の同神社の祭り、その他地蔵市や文殊の祭りにも踊られる。盆の踊りのときには別の歌詞を用い、『日本民謡大観 四国編』にはその歌詞が記載されているが、現在は雨乞いのものが盆にも用いられる。雅楽の只拍子に似かよう拍子をきざんで太鼓が打たれ、踊り手二〇名程度が浴衣姿で扇子二本を開いて両手に持ち、くるくるとまれしながら左回りに円型をなして踊る。この扇子の手は別子山の踊りにも、のちに述べる伊予万歳の手にも通うもので、南予の「扇子踊り」や「はんや踊り」の手とは異なるものである。
 踊りの名の由来は、ある年の雨乞いで、護国院という祈祷師が代参者を踊らせて祈っていたとき神前の御簾が二、三度上下に動き、大雨を得たことによると伝えられる。
 雨乞いの歌詞は次のようなものである。(囃子詞は省略する。)

けわしきみ山の黒滝に まつる十二社大権現 人もおらぬに神かぐら 月に三度は 笛や太鼓の音がする(以下略)

 この歌詞の年代は不明である。他にこれと同型式の別の歌詞、近世俚謡調の歌詞、所作事として付加されたと言われる「牛若弁慶踊」、また早口ことばなどが伝えられている。
 その他、東予から松山市の近くにかけて見ると、仮装して踊る越智郡魚島村の「魚島の盆踊り」、新亡の家族が仏壇(位牌・写真・供花を飾る)を背負って踊る温泉郡中島町元怒和の「元怒和の盆踊り」などが特色を見せている。

 南予の盆踊り

 踊り手が仮装する例が喜多郡長浜町青島の「青島の盆踊り」にあり、八月一四日には死者への供養のため赤穂義士に扮して亡者踊りが、一五日には魚の供養のため賤ヶ岳七本槍の仮装をして大漁踊りがそれぞれ踊られる。東宇和郡明浜町渡江の「渡江の盆踊り」には、歌舞伎衣装を模した扮装をする例がある。
 喜多郡、両宇和郡、宇和島市に、扇子を持って踊る例があるが、そのうち宇和島市九島の「九島扇子踊り」は、扇子を回すのでなく払う手の目立つもので、東予の扇子の手とは異なる。なお歌詞は口説と近世俚謡調のものとで、近世初期にはさかのぼりえず、この点、他の同類の踊りも共通している。

 (5) 小歌踊り

 七七七五の近世俚謡調でもなく、七七の句をつづける口説でもなく、短歌形式を含む種々の歌型からなる近世初期小歌風の歌詞を幾種かつらね、その前後に「何々踊りを踊ろう」「何々踊りはこれまでよ」の詞を原則として配してこれを一踊り(一庭ともいう)の歌詞とし、これを何段かつらねて踊る形式のものを、小歌踊りと称する。似た形式は太鼓踊り、念仏踊り、採物踊りなどにも見られるし、この種の踊りはおおむね盆に踊られるので一種の盆踊りでもあるが、他の種類に入りきらない点もあるので、独立した一種とする。県内には、この種のものが主として宇和海沿岸部に、おもに盆の行事として伝わっており、なかには一八世紀初期以前にもさかのぼりうると見られる例もある。

 いさ踊り

 宇和島市遊子津の浦に伝わる「いさ踊り」は、一八世紀初期以前にさかのぼりうると思われる踊りの例である。その証拠となるものは、同地の保存会に伝えられている一通の文書の写しである。書き下すと次のようになる。

     口上 写し
一 貴様御出網、夜前津の浦の内、ゆるかごへと申す所あて引なされ候ところ、私どもも魚貰ひに参り、網船へ乗り、手伝罷り在り候。然るところに、たかみより御やといなされ候日用長次郎、海へ入り相果て申し候。夜分の義〈儀〉故、私どもその外網子中も存ぜず、網引きあげ仕廻ひ、その後長次郎を相尋ね申し候へども居申さず候故、貴様にても御気遣ひ、私どもも心元なく存じ、火ともし様〈カ〉々と相尋ね見申し候へども居申さず、余程間これあり網引きあげ申し候ところへ、しがいうきあがり申し候。しがい見届け申候ところに、何の子細もなく御座候。とかくその身時節にて相果て申し候にまぎれなく候。右の様子御公儀へ御
訴へなさるべき由、仰せ聞けられ候へども、私ども居合はせ、いさい見届け、別条なき上は、何分にも内分にて御済まし下され候やうにと、連れて御断り申し候へば、願ひの通り御内分にて御済まし下され、早速取り置きをも仕り〈致し力〉候。御所中へも御迷惑かけ、忝なく存じ奉り候。然る上は、此の後、長次郎義〈儀〉、一言申し分無く御座候。万一国元一家ども、とやかく申し候とも、私ども罷り出で、急度申しひらき、御当地の御苦労に少しも掛けまじく候。後日のため連判件のごとし。
     宝永七年とらの六月廿九日
           長次郎兄 たかみ 市兵衛
           同人口方 たかみ 金十郎(□一字判読不能)
           同    たかみ 吉太夫
           乗合   たかみ 傍輩中
     遊子津の浦
        太郎左衛門殿

 よそから津の浦へ働きに来ていた網子のひとりで長次郎という人物が、宝永七年(一七一〇)六月に津の浦の前の海で作業中に溺死し、それが本人の不注意(したがって定命)によるものであったことを同人の兄と傍輩が網元に対して認めた証文なのであるが、これが「いさ踊り」とどうかかわるかというと、津の浦に伝えられた文書のなかに、安政三年(一八五六)に網元吉見静寛のしるした『諌踊由来書 踊歌井拍子付共』があり、そのなかにこの長次郎のことが出てくるからである。以下にその本文から、書き下した形式で抜き出してみる。

そもそも津の浦は、西北の大海へ向かふ場所がら、歳々初冬中旬の頃より翌晩春初旬までは、強風波濤の難止む時なし。いはんや先年より遙かに隔たる沖相〈合〉において、自然弱〈溺死〉の亡霊、或いは迷ひの怨霊杯〈抔〉の災ひにや、折節妖怪有りて、浦内の人民愧ぢ恐れ、旦暮の産業心底に任せず、茲に因って種々修法を尽くすといえどもその倹〈験〉怨念なく、人々心を痛めし折から、誰人の云いしにや、不図風説あり、丹後の国にこそ、いさおどりと号したる盆踊あり、これを修行なす時は、必ず亡霊怨念の変災をさくと聞き及ぶ故に、浦人うち寄り、篤と熟談して、両三輩うちつれ、俄かに旅具の荘〈装〉ひして彼の国へ趣きて、そのもとを尋ね求めて、則ち師匠何の但馬殿と申す人江目見えて、躍歌弐拾条を伝授してそれぞれ礼謝なし、早早帰国し、所中の人々江その術を伝えて盆踊修行致しければ、不思議や、これまでさまざまの妖怪の災ひ、忽ち止みぬ。実に珎〈珍〉しき妙法なり。偏に人々の歓び、はじめて安堵のおもひをなしぬ。これより静謐に属したり。

 ここまでが土地に伝わる踊りの始原伝説であり、その次に前記長次郎の一件がしるされ、そのあとに次のように語られる。

その後静謐に相成り候ところに、遙かの星霜を経て、天明元年丑七月十七日夜、稀有の変災あり。当所又六と申すもの忰庄蔵弟浅之進と申すものあり。尤も壮年故にその頃若もの頭取たり。元来このもの常々友達どもへ物語致すにも、歳々当うらのいさおどりこそ、暑の節といひ、殊に大そふなる踊りにて、年々莫大の骨折りなり。もはやさきゞはやめる方がよい杯〈抔〉と申せしとぞ。これを亡霊ども恨妬に常々おもふにや、右十七日夜、浅之進并びに常七と申す若もの同伴にて、初夜過ぎ頃小網前を通りかかりしとき、浅之進不図汗〈沖〉の方を眺め候へば、数輩の亡霊どもなみ居、中には鉢まき杯〈抔〉致し、或いは煙草を含む風体にも相見え候うち、何やらささやき候体に、膽を冷やし候ところに、中より壱人の亡霊、飛び来るとおもへば、浅之進に取り縋る否、アッといふてそのまま倒れ伏す。然るに同道の常七には何も見えず、それより直に内へ連れ帰り、さまゝかい〈介〉抱致し候へども、更にその倹〈験〉なく、只々絶え入るばかり無言に成す。惣じて答へもなく、家内のものども歎き居り候ところへ、祖父太郎右衛門、かの庄蔵宅へ見舞ひ申しけるは、「浅之進、不図急病のよし、容体は如何、少しは快方にや、食事にても致し候や」と尋ねければ、兄庄蔵申しけるは、「先刻やみ付き候時より無言に罷りなり、食事迚も得仕らず、この体に候へば、最早助命は得仕る間敷」と答ふ。されば如何にも不便のあり様ながらも、すべき様なく、「然らば能く気を付けてかい〈介〉抱致し候へ」とて暇乞ひし、庭の敷居を越へんとせしところに、今まで倒れ伏したる浅之進、直様起き上がり、大音声にて、「旦那先づ待たっしゃれ」と、忽ち他国の詞に変じ呼びかけたり。祖父振り返り、「何の用事にや、申し分候はば、ありのまま申すべし、承はらん」と答へければ、大の眼を見開き申す様は、「私義〈儀〉は先年ゆるか越にて弱〈溺〉れ死に候高〈鷹〉見の長次郎と申すものにて、歳々盆の踊りを受くるを待ちかね、千部万部の経陀羅尼を授〈受〉くるより、苦滅〈患力〉を遁るるを明け暮れ楽しみ申し候。然るに近年は次第ゝに等閑になり、別〈し〉てこの浅之進と申すものは常々我儘もの、もはやさきゞは踊りもやみ、請〈ひ〉し踊りもらはぬ様に押し移りなば、傍輩どもも重々歎かしく思ふ故、我々に申しつけ、このものの返るを待ち受け、取りつき候なり。しかしながら私とてもこの事は辞退いたし候へども、傍輩どもが聞き入れず、余儀なく取りつき候なり。何卒このもの私どもへ是非々々くだんせゝ」と申すにぞ、祖父答へて曰はく、「先刻より汝が入割、夫々具さに承知せり。如何にも其方杯〈抔〉が申すごとく、以来当所のあらん限りは、軒別の男子ら拾五歳より六拾歳迄の者ども為相揃、年々七月十五日暁天より乗り組ませ、滞りなく踊り遣はすべし。仍て浅之進は前の通り早々返すべし」と申しければ、急病忽ち全快致し、常の身分になりけるは、夢の覚めたるごとくなり。実に不思議の事どもなり。必々疑ふべからず。〈以下略〉

 天明元年(一七八一)に、長次郎の亡霊が人にとりつき、その口を借りて、踊りを絶やしてくれるなと頼んだ事件があり、以来確実に踊りは毎年続けられているのであるが、この話は長次郎の事故死以前からこの踊りがこの地で行われ、そのことを長次郎も知っていたということが前提になっており、そして長次郎が一八世紀初頭に実在していた人間であることが先の文書で証明されるから、この踊りは一七世紀末ごろまでに津の浦で踊られはじめていたと考えてよいことになるのである。歌詞の形式がやや古風であることからも、こう考えてよいように思われる。
 二〇年ほど前から岸の仮設舞台で踊られているが、元来は船を三艘横につないで上に舞台を作り、部落の前の海上を移動しつつ踊られるものであった。一八歳の男子八名が踊り手となり、舞台に横一列に並び、岸に背を向けて、長さ一・三m、重さ一・五㎏ばかりのシデを振って踊り、囃し方は太鼓一つを交替しながら打ち、歌い手若干名が歌い、一六くさりの歌を一組として歌い踊る。一四日に総ざらえをし、一五日の早暁に船を出して、一くさりごとに神仏(長次郎を含む)に踊りを捧げ(これを「踊りを入れる」という)漕ぎ廻り、当日午後は新仏の供養のために踊る。本来はその家の前の岸辺で踊り、踊りをもらう家では親戚一同がオカに出て礼を尽くしたという。踊り手は白装束に絞りの斜め襷、黒帯にはだしで、一五日には黒襷となり宝結びにし、黒帯を虚無僧結びにして、赤の鉢巻に黒房を四つ垂らした姿になる。
 歌は導入部の歌詞の部分(ダシ)、本体の歌詞の部分(ジ)、歌一首と次の一首との惑いだの合の手の部分(コシ)とからなり、コシのみがやや早くリズミカルで、他は緩やかであり、踊りは太鼓のリズムに乗って進行する。太鼓の手はコシの部分のみが曲により差があり、他は同じ手をくり返し、これに歌がつかず離れずの間合いで乗っていく。踊りの手も一部のコシ以外は同じ手をおおむね緩やかに、時に早くくり返す。この歌の旋律とリズムはきわめて難ししく、歌いこなすのは容易でない。ただし一組の歌の末尾に置かれた「綾の踊り」のみは、ジとコシが一貫して定拍の軽快な曲であり、緩やかに延々と三、四時間つづく踊りの結びにふさわしくさわやかである。前踊りと称して、青年が踊り手の前に向き合って立って踊る例もある。
 歌はもと二〇曲あったといわれるが、現在は次の一六曲である。

龍馬(また「漁場」)踊り 月の踊り 丹後踊り 浦島踊り 薩摩踊り
屋形踊り 恋の踊り ひと夜踊り いの木(また「榎」)踊り 大黒踊り
金踊り 鶯踊り 鎌倉踊り 筑紫踊り 駿河踊り 綾の踊り

 このうち「鶯踊り」がいちばんよい踊りとされ、長次郎にはこの踊りを入れる。
 歌詞の形式は短歌形式を含め種々のものがあるが、歌詞の内容で目立つものの一つは、海に密接に関係するものが含まれることである。これは当然のことのようではあるが、この地域の小歌踊りの歌詞全体を見わたすと必ずしもそうでないので、やはりこの踊りの特色の一つとすべきである。そのことのいちばん明白な例は「龍場踊り」である。(噺し詞略)

  今日日がらもよいほどに えべすもいさめてまいらンしょや
  やがてえべすもいさみある まんにあまりた漁がある
  さぞな竹伐る笹がなる 魚を干そとて簀竹伐る
  この魚を千や万やに売りかえて 今でもこの浦栄えある

 「いさ踊り」の名の意味は、「諌踊り」と書いた例が吉見静寛筆のものにあるが、「諌め」ではなく右の歌の例から知られるように、力をふるい立たせる意味であり、力がふるい立った「いさみ」の状態にさせることであると考えられる。
 海に関係のある歌詞は、まだある。(囃し詞省略)

船は杉木よ 櫓でまかせ おれが身はまた殿まかせ(丹後踊り)

 「まかす」はあやつること、古語にも神楽歌の「階香取」に「櫂よくまかせ」の例がある。

さてさかひを見てあれば 諸国の船が集まりて 歌や連歌で酒盛よ いさみにいさんでふな遊び(浦島踊り)
薩摩の国から船が三艘おのぼりあるが 先なるお船にもの問へば えべす大黒お積みある(薩摩踊り)
筑紫の国の大津の殿は 商ひ船を千艘持ちて 千艘の船に宝を積んで 追風の風をお待ちある(筑紫踊り)
船がえじょ〈出でう〉なら乗らずもの 下の関まで(駿河踊り)

 いま一つの特色、それは「鶯踊」にある。祝言と恋の主題の多いこの種の踊り歌のなかで、この歌詞のみは深い哀傷と述懐を含むのである。

忘れても 寺の門場へ 宿とるな 鐘の響きで 夜こそ寝られぬ
上は滝 下は清水で ひやされて 開きかねたよ 唐梅の花
ほととぎす まこと冥途の 鳥なれば 親のありかを 語りめされよ
鋤鍬の やる手ひく手を え知らいで 弥陀の浄土の 父御恋しや
帷子の 肩の廻しを つけかねて 弥陀の浄土の 母御恋しや
親ほどに 人に心が あるなれば 人にやるもの 熊野への道
熊野から 銚子ひさげが 三つくだる いつが子の日ぞ 酒の盛りそめ
白鷺が 伊勢のお山へ 巣をかけて こはらやむとて 殿御うらみな

 「いさ踊り保存会」の保管する文献のうち、踊りの記録として最古のものは延享元年(一七四四)のものであって、それ以降絶えなかったことはたしかである。なお同保存会は昭和五〇年から、会員の年齢などの制限をやめ、有志によって行うこととしている。

 とんとこ踊り

 宇和島市蒋淵に行われる「とんとこ踊り」は、いったん中断した船踊りの形式が再興された例である。八月一三日夜に地区内の全集落六か所を廻り、集落の神々の数だけ、都合六五庭(踊り一つを一庭という)踊り、これを「神踊り」という。ついで初盆を迎えた家の近くに船を廻して新亡の供養のために踊る。これを「供養踊り」という。踊り船を迎えた区長は扇子を前において浜辺に平伏し、初の盆の家からは酒一升と肴とを献じる。一五日の昼間、蒋淵に祀られている神々に海上から踊りを捧げ、四八庭踊る。船は二艘を横に結びつけ、シルシと呼ぶ飾りをつけ、オモテ(へさき)の方にアユミ二枚を渡して踊り場とし、四周にはしごを横に倒して笹を飾り結界とする。以上が元来の形で、船は地元の有力な網元一四戸が交替で提供し、踊り手はアミの「ひきこ」がつとめ、各アミにより歌や所作に小異があったという。五年ほど中断し、陸上で子供会と老人会によって踊られていたが、昭和五一年に青年団により復興され、鋼鉄船二艘をつないで行われている。
 踊り手は上段に五人、下段に四人が向かい合い、太鼓と鉦の囃子に乗って歌い踊る。概して軽快な踊りである点は「いさ踊り」と異なるが、踊り手の足がきわめて狭い範囲だけで動くように振りがついているのは、この辺一帯の小歌踊りに共通する点であって、船上で踊られるのにふさわしくできていると理解できる。
 踊りは「宮島踊り」「住吉踊り」「寺見踊り」「花見踊り」「新吾踊り」「日向踊り」の六種で、「花見踊り」には「うたい」と称する自由リズムの一段があり、この部分は振りも緩やかであるが、旋法はべつだん謡曲には似ていない。謡曲のヨワ吟に多い五度の飛躍は「寺見踊り」の一部にも含まれている。
 起源は不明であるが、昔、平家の落武者が山伏姿で海上を渡っているとき大時化にあってこの湾の入りロの落鼻で四八人が水死し、その崇りをさけるため、その供養塔(正徳元年〈一七一一〉建立)に苔がむすまで毎年四八庭の踊りを供養することにしたと伝え、この踊りは蒋淵山智光院(現在海祥寺)の白岩和尚が教えたという。踊りの中止を主張した人が大病にかかったという話も伝わっているのは、「いさ踊」の場合とも似た現象であり、他の小歌踊りにも同様の話が伝わっている。

 はんや踊り

 宇和島市戸島と嘉島に「はんや踊り」が行われている。もとは蒋淵にも行われていて、『宇和地帯の民俗』に歌詞のみ紹介されているが、これは現在廃絶している。戸島には本浦と小内浦に行われていたが、小内浦の状況は現在不明である。
 嘉島には、もとは船上で踊られたという伝承があるが、戸島にはない。現在はいずれも陸上で踊られている。
 踊りの由来については、嘉島に、昔遭難した山伏、または平家の落人を供養するためにはじめたとか、丹後から習ってきたとか、蒋淵の「とんとこ踊り」や津の浦の「いさ踊り」と似た伝承が昭和三四年にはあったことが『宇和地帯の民俗』に報告されているが、昭和五一年以降の調査ではこの伝承は聞けなくなっている。戸島の方には二種類の伝承がある。一つは昔四八人の山伏が大崎鼻(東宇和郡明浜町)沖の三双碆で遭難して死体が蒋淵の赤崎鼻に漂着し、以来災厄がつづいたのでその霊を慰めるために始めたというもので、これは廃絶した蒋淵の「はんや踊り」にもかかわりのあった話ではないかと思われる。日向から船で来たおおぜいの山伏が佐田岬で遭難して戸島に流れつき、その後、魚が網にはいってもそれがネズミになって網を食い破るので、占ってもらったところ、山伏の霊が踊りを踊ってほしいといったというので、その供養のために始められたともいう。いま一つは、昔、補陀落上人という僧が庄屋で喜捨を乞うたところ、与えられたのがイワシの頭だったので、前の海に入って立往生をした。網船のトモヅナを握って満潮のなかに身を沈めたともいうが、その日が盆の一三日で、その供養のために踊りを捧げるというものである。三、四人が日向に行って習ってきたともいう。その後の踊りの継承については、戸島には大正六、七年のころ、お役所の方から圧力がかかって一年踊りをやめたことがあるが、やめると決めた晩、駐在の家を何者かがゆすって眠らせなかったので、また続けることにしたという話があり、嘉島には、大正の末ごろ、軍事教練のため青年団の分団長が多忙で、一年だけ踊りを休んだら、虫がわいてイモがすっかりやられたという話が伝わっている。海上の安全と除災とにかかわる祈願の踊りであることはまちがいない。
 戸島では八月一三日夕、補陀落上人が入水したといわれる海辺で上人のために踊る。これが「迎え踊り」であって、このとき新亡の家族は浜に出ぬものとされる。海辺には上人の名をしるした旗が旧暦の六月二八日から七月二八日まで立てられる。翌一四日午前には同じ場所で神々のために踊りを捧げ、午後には寺で新亡の供養のために踊る。寺で施餓鬼(「水まつり」という)のあと「神々の御法楽」のために踊り、そののち「神のつくらい」のため、すなわち海での遭難者の慰霊のために、本浦と小内浦に別かれておのおの二四庭、計四八庭を踊るのが元来の形であった。寺で新盆の人のために踊るときは、「恋の踊り」は踊らない。一五日には「送り踊り」があり、これは口説を含む普通の盆踊りである。四八という数は、由来にある山伏の人数と関係があるもののようである。
 踊り手は男子一六名で、これに大太鼓、締太鼓、鉦各一、ハタといって長い笹竹に色紙の短冊をつけて扇子で打って拍子をとるもの四名の囃子がつく。この人数は元来網船の作業の人数で、一列一六名が二列に並んで踊るのがもとの姿であった。現在は踊り手と囃子とがゴザの上にそれぞれ一列に並び、向かい合って囃し、踊る。キザキリという役が全体の進行をつかさどり、一庭ごとに笹の葉を並べて踊りの数を記録していく。踊りの稽古は、旧暦六月一日以降、漁の休みのときに行われるのがしきたりであった。
 踊りは次の一六曲である。

屋形踊り 恋の踊り 大和踊り 日向踊り 一重踊り 桜踊り 九州踊り 都節 五色踊り
東山 我が恋 あしだわけ 花の踊り 武蔵上り 反橋 住吉踊り

 踊りの順序は決まっていて、「屋形踊り」から「五色踊り」までは小さなシデを持ち、「東山」から持ち物が扇子にかわり、つぼめてカナメを先にして持ち、「あしだわけ」から扇子を開いて骨の中ほどをつまんで持つ。この持ち物の変化や持ちかたは嘉島のものと共通している。シデの踊りを「大踊り」、扇子の踊りを「小踊り」という。踊り手の足がきわめて狭い範囲でしか動かないことは「いさ踊り」「とんとこ踊り」と同じである。
 歌詞は短歌形式を含み近世俚謡調(七七七五)を含まないこと、「いさ踊り」「とんとこ踊り」と同じであるが、扇子の踊りに、半音を含むいわゆる都節音階の例が見られる。
 嘉島では現在八月一四日に、六字の名号の旗を立てた寺の庭で踊られるが、もとは船上の踊りがあった。盆の一三日の日没、七時ごろから約三時間、船二艘のあいだに板(「反橋」といった)を掛け渡して二間二方ほどの舞台をしつらえ、若い衆三〇名(この中から踊り子が出る)、歌(幹事数名)、太鼓(一挺、三名が交代で打つ)、締太鼓(二挺、二名)、鉦(一面、一名)の役々が乗り込み、イワシの地曳網のドウ(網を張る限界)のところまで漕ぎ出して、四八庭(「庭」を「切」ともいう)踊りながら海上を一廻りする。家々ではオショライダナを飾り、迎え火を焚く。翌一四日は寺で「水まつり」があり、本堂の前で「追善踊り」を四八切(ただし「反橋」を除いて)踊る。このとき前日一切ごとに太鼓に巻いておいた(「フシをつくる」という)縄を一切ごとに一筋ずつほどいていき、四八切踊ってのち新盆の供養のために一庭ずつ踊るのが作法であった。踊りの稽古は若者宿が昭和四〇年ごろまであって、そこの未婚の青年会員が旧の六月から四五日(実質三〇日ぐらい)稽古したという。現在は習い覚えた有志が当日集まって踊ること、戸島も同様である。なお、締太鼓を持った一人が打ちながら踊り、これを「八つ撥」と称する。
 踊りはもと「住吉踊り」「東山踊り」もあったが絶え、昭和二八年の写本(『宇和地帯の民俗』所収、現在所在不明)には次の一六曲が見える。

反橋踊り 寺見踊り 大和踊り 桜踊り 高橋踊り 清水踊り 博多踊り 足駄踊り 花の踊り
武蔵踊り 恋の踊り 日向踊り 大和踊り〈前出のとは別〉 戸島桜踊り 一夜踊り 五色踊り

 そして現存する昭和一八年の写本(佐々木護所蔵)には「一夜踊り」の途中までしるされ、昭和四九年の謄写資料には、「反橋」から「恋の踊り」までの一一曲の歌詞が収められている。
 歌詞には他に二種知られていて、戸島の小内浦のもの(秋田忠俊所有の写本)は次の一九曲である。

日向踊り 鎌倉踊り 恋の踊り 新吾踊り 一夜踊り 桜踊り 都節 伊勢節 夢見踊り 大和踊り
博多踊り 足竹 我が恋 住吉 反橋 花咲く 武蔵が原 東山 出舟

 また蒋淵のもの(『宇和地帯の民俗』所収)は次の一三曲である。

恋歌 九州歌 鎌倉踊り 一夜かよ 館踊り (以上シデ踊り) 吾が恋歌 なびけ歌 東山 住吉 武蔵(以上扇子踊り) 桜踊り あしだけ 大和の奥の (以上シデ・扇子いずれか不明)

 これらをつきあわせてみると、互いに辞句に多少の異同のあるほか、歌詞はもと同一のものと思われるのに名称が異なるもの(嘉島「武蔵踊り」、戸島本浦「武蔵上り」、小内浦「武蔵が原」、蒋淵「武蔵」がその一例である)、名称は同じだが歌詞が異なるもの(たとえば「大和踊り」に「大和の奥の」の歌詞のと「ハンヤこれから京都大和踊りは」の歌詞のとがあり、後者は嘉島にのみあり、前者は蒋淵では「大和の奥の」の名称を持つ)などあり、一方にあって他方にないものがあったりして、そのさま一様でなく、わざと異を立てたかのように違っている。これは全国のこの種の踊りに一般に認められる現象であるが、どういう経路でこういう現象が生じたのかは、まだよくわかっていない。
 なお、戸島小内浦にのみ伝わった曲の歌詞は、未紹介のものであって、次のようなものである。第一首のみ掲げる。

     新吾踊り
新吾殿こそ又おじゃる 白い木綿にしでの帯 ハンヤ黄金づくしに皮袴ハンヤ黄金づくしに皮袴
     伊勢節
伊勢の鳥居はいつや立つ 三月三日よい日じゃと 日和を見たて木をなおす あら見事よ
     夢見踊り
まず正月の初夢に 伊勢の御務所〈注、御夢想か〉を夢に見た ハンヤ何と見た ハンヤ男の子をもうけた夢を見た あら何事ぞ
     出舟
ハンヤけさの出舟はのをやと走る 舟は泊りやいと行きゃ島もと ハンヤ行きゃ島もと

 「はんや踊り」の名が、囃しことば「ハンヤ」から出たものであること、いうまでもない。

 しゃんしゃん踊り

 西宇和郡瀬戸町大久の「しゃんしゃん踊り」は、「いやしゃん」とも「八朔踊り」とも呼ばれ、八朔(旧暦八月一日)の日(現在九月一日)に同地の海岸の於幾世里大明神の祭りに踊られる。昔、大久の浜に漂着した水死の女人の供養のために始めたといい、五島や豊後から習ってきたともいう。その後中絶したが、五〇年ほど前、この浦の廻船業者浜本家に不幸が続き、祈祷師が踊りを復活するよう託宣したので、浜本家が二二組の踊り装束を整え再興したとも伝える。本来二二名の男子による踊りで、昭和五〇年ごろは男女の有志で踊られていたが、その後揃いの装束の男子のみで踊られるようになった。踊りは浜に於幾世里大明神の旗を立て、そのホコラの前のほか数か所で踊られる。
 大太鼓二で囃して踊られ曲により異なる太鼓の手が二種(一本、二本)あるが、太鼓を打つ手と踊りの手とが基本的には同じもので、踊り手は太鼓と同じ方向に向き、ほとんど一か所で動作する。曲により、つぼめた扇で左のたなごころを打ち、または開いた扇の端の骨の中ほどをつまみ、左、右に手とともに振りおろすなど、簡素な振りである。
 歌詞はもと「豊後踊り」「長崎踊り」「三味線踊り」を含み一三曲あったが、現在はこの三曲は曲節が伝わらず、次の一〇曲のみ演奏される。

たんじやく踊り おせど踊り 吉野踊り ふない踊り 正月踊り 雪の踊り しわく踊り こいの踊り 天じく踊り 五島踊り

 歌詞には

天じくの姫のかたから 細のの〈布〉一つ出てきた そのののを染めて着たいわさて何型をつけようや 片そそ〈すそ〉にはすだれ〈しだれ〉小柳 腰には諸国の唐松を植え 忍ぶ声には面白い 〈囃し詞省略〉 (天じく踊り)

のような一見自由律風のものも含まれると同時に、

おじゃろおじゃろと 名は立ちそめて 浜の松風 音ばかり (こいの踊り)

のような近世俚謡調をも含む。ただし都節音階の例は見られない。

 能山踊り

 南宇和郡城辺町久良の「能山踊り」は、御荘の領主勧修寺基賢が土佐の長宗我部元親に追われてこの地に隠れ、死に臨んで部落三軒になるまで踊りを奉納してくれるよう遺言したのにもとづき、その追善のために踊ると伝えられる。もとは旧暦六月二九日から七月一三日まで毎夜踊り、最終日は「扇子破り」といって扇子を裂き破り、一四日は能山公の祭りで、新しい扇子で昼に踊り、これを「あなたの踊り」といった。現在は八月一三日夜に能山公をまつる堂の前、能山公がついて来た杖が根づいたという大銀杏のもとで踊り、一四日は満潮時までに海辺で供物をささげて三庭踊る「浜の踊り」のあと、堂の前で踊られる。
 曲目はもと二二曲あったが、今は次の八曲である。

ろくじう踊り(「六字踊り」か) 梅の踊り 恵比須踊り 網曳き踊り 四節踊り 駿河踊り まり踊り

 買物舟踊り

 堂に向かって太鼓を据え、一人が座して打ち、周囲に八人が白の着流しに黒帯で扇子を持ち、円陣をなして踊る。歌と踊りのテンポはきわめて緩やかで、能の舞に似かよう動きもあり、曲節は都節音階を含まない。歌詞の例を三首のみ掲げる。

イヨ南無阿弥陀 アア南無阿弥陀 イヨ仏の御名を 称うれば これも極楽浄土なりけり(ろくじう踊り)
アン網曳きしょうや そのおり節は 浜に 浜に出て 小褄からげて 網を曳く ハアエサンアラエ網を曳く(網曳き踊り)
アアインヤ イヨ駿河の国なる 姫小松イヤンとまる白鷺 面白や アイヨ駿河の踊を ひと踊ろヤレ踊ろヤーエーしゃなら しゃならンならと(駿河踊り)

 別子山の踊り

 宇摩郡別子山村本村の「雨乞踊り」(通称「十二の踊り」)は、不定期に山城八幡神社境内、赤石権現山で踊り手七名、締太鼓三名、音頭出し一名の構成で踊られ、歌詞は次のようなものである。

サー皆一同にはおそろいよ(くり返す) サー雨乞い踊りをひと踊り〈中略〉サーそのまたお礼のそのために サー十二の踊りをひと踊り サー二月には サーつばきの花とて紅梅の サー青いや小柴をとりまぜて サー十七、八にはさも似たり(以下略)

 また別子山村で八月一五日と一一月三日に山城八幡神社境内、別子小学校校庭で踊り手多数、締太鼓三、大太鼓一、歌い手二名の構成で踊られる「牛若踊り」は次の歌詞をもつ。

サー皆一同にはおそろいよ 牛若踊りはひと踊り 牛若様はヨどこ育ち 鞍馬の山のヨ寺育ち〈以下略〉

 これらの歌詞の形式は、小歌踊りのそれに類するものと考えられる。ただし、いずれも起源や由来はなお不明である。

 (6) 採物踊り

 もの忌みのしるし、また鎮魂の呪物として舞人などが携えるものが採物で、これを持つ芸能は多くの種類にわたるが、持ち物にとくに意味があると考えられるものを「採物踊り」と称する。県内のものでは「伊勢踊り」「花取踊り」の類などがこれに属する。

 伊勢踊り

 「伊勢踊り」また「お伊勢踊り」と呼ばれる踊りが、高知県から愛媛県南部にかけて分布している。慶長一九年(一六一四)(一六一四)から翌元和元年にかけて全国に流行したといわれる踊りが伝存したものと考えられるもので、流行と伝播の状況および歌詞が高知県土佐郡一宮村の一宮土佐神社の慶長二〇年(七月一三日元和と改元)二月一〇日の奥書のある『御伊勢様をとり』に記載されており、東京都伊豆新島の盆の「大踊り」にもこれが伝わっている(『民俗芸能辞典』)。世によく知られている「ヤートコセ ヨーイヤナ」の囃しことばを持つ「伊勢音頭」よりも古いもので、愛媛県・高知県にはこれの広域残存の姿が見られるわけである。
 踊りの時日、装束、踊りの振りなどには所によっていくらかの差違があり、歌詞にも訛伝を含む異同が多少あって一様ではないが、元来同一の踊りであったと認められる。定期の神祭り、または臨時の雨乞いや病気平癒の祈願などに踊られてきたものである。
 太鼓一挺を打ち、そのまわりに踊り手が円陣をなしてとり囲み、所により定位置のまま、あるいは周囲を廻りながら、きわめて簡素な振りで敬虔に歌い踊られる。持ち物は所により御幣であったり扇であったりして一様ではない。歌詞はおよそ次のようなものである。

お伊勢ようだ〈山田か〉の神いくさ もくりこくり〈蒙古・高句麗〉を平らげて 神代君代の国々の 千里の末の人までも アリヤ豊かにて 踊り喜ぶ人はみな 歳は千年を保つなり 老若男女貴賤ども 栄え栄えるめでたさや お伊勢踊のめでたさや〈以下略〉(八幡浜市穴井の「長命溝伊勢踊り」)

 踊り手には、宇和島市下波(大字)結出では小学生男子六名が女装して花笠を被り、戸島本浦では幼児・児童の男子が平服の上に法被をつけ花房のついた笠を被り、八幡浜市穴井町では五〇歳以上の男子の長命講員が踊るなど、これも所により差違があり、楽器も打楽器のみのものや下波結出の三味線を加えるものなど、これも一様ではない。もと一つであったものが所の民俗に化して変化していった姿が見られる。
 踊りは躍動的なものでなく静かなもので、神迎え、また神送りの神事の一部であったと考えられる。

 花取踊り

 高知県に「太刀踊り」の名で行われているものと同様のものが、愛媛県南部に分布しており、「花取踊り」「花とび踊り」「花踊り」などと呼ばれている。抜いた刀を持ち、多くはシデの役がこれに対して、切り結ぶ型を見せるのが特色である。
 起源や由来については、この踊りを用いて敵将をおびき出して討ち取り、その霊を鎮めるために踊るという類の伝説が高知県にも愛媛県にも、所により伝えられているが、真の起源は定かでない。東宇和郡野村町蔵良(字)岡成の「花取踊り」には、寛永年間(一六二四~四三)に土佐の太刀踊りが隣の三間町に伝わり、岡成へは行商人から習い伝えられたという伝承があるが、むろんこの種の踊りが一七世紀にはじまるとは言えず、一六世紀にはじまるとも言えず、起源がどこまでさかのぼりうるかは、まだ不明である。ただし現存する歌詞はいずれも近世初期風の小歌形式のもので、所により小異はありながらもとは同じものだったと思われる歌詞が認められる。次はその一例である。

まだ今朝は霧の最中 静かにとべや石橋 石橋の下のせきを見よや はや早馬が馳せくる(東宇和郡野村町蔵良の「花取踊り」)
まだ今朝は霧の最中ぞ 静かにとべや石橋を 石橋を 朝日を 下の橋を見りゃ 午年が来たわいな 午年はどこの午年ぞ 行きゃ右 戻りゃ左の朝日のうら 午年ぞ (東宇和郡城川町下相の「花取踊り」)
まだ今朝は霧の最中 そろそろととべや石橋 石橋の今朝の煙 じょう〈定〉午年が来たげな 午年はおれも午年 どの午年のことやら(北宇和郡三間町曽根の「花踊り」)

 男子のみの踊りが本来の姿であり、打楽器のみで囃すのも共通しているが、持ち物には所により鎌の加わる例があり、楽器には、太鼓のみのもの、すり鉦を加えるもの、笛も加わるものなど一様でないこと、「伊勢踊り」と同様であって、所の民俗と化してそれぞれに変化の姿を見せている一例と考えられる。
 なお、南宇和郡城辺町久良の「へと踊り」は、歌詞は掛声のみであるが、飾りをつけた木刀を持って踊るもので、「花取踊り」の一変種かと考えられる。

 その他の採物踊り

 川之江市金田町金川で大西神社の祭り(五月九日)に踊られる「小踊り」は、巫女姿に烏帽子をつけた七名の踊り手が小石を入れた竹筒を両手に一本ずつ持って踊るもので、歌詞は近世初期小歌風のものと見うる。

ハー ぼんさしのにすむ きりぎりす (くり返す) はたおるぼうずは はたのきりぎりす はたのきりぎりす
ハー はねのおどしは おもしろや 〈以下略〉

 同所で翌日踊られる「笹踊り」は、女子七、八名が白上衣に紫の袴で右手に扇子、左手に幣をつけた小笹を持ち、締太鼓一と歌い手数名が裃をつける。この歌詞は近世俚謡調である。二つの踊りはともに新宮の「鐘踊り」と同じく天正年間(一五七三~九一)の武将大西備中守元武の霊を慰めるためのものと伝えられるが、「小踊り」がやや古風であるという以外、年代は不明である。
 伊予市上野(字)下郷の「雨乞踊り」は伊予神社の夏越祭(八月七日)に踊られ、大太鼓、拍子木各一で囃して、小学生多数がボンデン、扇子など持ち物を取り替えて「雨乞踊り」「綾竹踊り」など十余曲を踊る。歌詞には近世俚謡調のものが含まれている。
 小歌踊り、採物踊りなどに共通した今後の研究課題は、一つ一つの芸能についての総合的な調査を完成することであるが、そのなかでも大きな課題と考えられるものは、そのなかに含まれている近世初期風の歌詞の意味と原形とを、訛伝を正しながら全国にわたって考究していくことであろうかと考えられる。これらの、いろんな種類の踊りに含まれた小歌の類は、音楽の面からも歌詞の面からも、隣接地で異なると同時に遠隔の地にたがいに似たものが認められ、疑問点のなお多いものである。

 (7) 仮装踊り・練り物

 何かに扮した姿で踊るところに特色のある踊りを「仮装踊り」と称する。県内でしいてこれに属するものを求めれば、獅子神楽の変形としての松山市古三津の「虎舞」や、南予地方に多い子供の「相撲練り」がそれにあたるようであるが、後者は次の「練り物」の一部とも見るべきものなので、「練り物」の項で述べる。
 祭りの神輿巡幸に供奉して行列を作って行進するのが「練り物」で、音楽や舞踊の類を伴うものを芸能の一種にかぞえる。県内にも例は多いが、およその状況は次のようである。

 櫂練り・櫂伝馬

 ほぼ今治市あたりを中心とした東予地方の海岸・島嶼部に、神輿の海上渡御の供奉の行事としての「櫂練り」「櫂伝馬」が行われる。所により形態は多少異なるが、飾りつけた船の船首でボンデンを二本、船尾でケンガイ(櫂の形をし、金紙で飾る例がある)を持って振りながら踊り、大太鼓、半鐘一などで囃したてるのが特色である。
 この起源は定かでないが、似た船上・水上の儀礼は地域的に見れば東南アジアにもひろがって存在し、日本列島でも長崎市のペーロンや島根県の美保神社や、和歌山県の熊野速玉祭のなかの御船祭りにある諸手船などの例があり、歴史的にさかのぼると、唐代の詩(八世紀~九世紀)に、

 画いて飛鳧の艇を作り、双双 競うて流れを払む。(張説「岳州に競渡を観る」)
 大夫〈屈原〉楚水に沈み、千祀 国人哀しむ。〈中略〉標は緑雲に随ひて動き、船は清波に逆らひて来たる。(儲光義「競渡を観る」)
 擢の影は波を斡らして万剣飛び、鼓の声は波を擘きて千雷を鳴らす。鼓声漸く急にして標の将に近からんとし、両龍標を望んで目は瞬くが如し。(張建封「競渡の歌」)
 船を祭ること祖を祭るが如く、競を習ふこと讐を習ふが如し。(元じん「競舟」)

などと詠じられた中国南部の神事などとの、経路は不明ながらはるかなつながりも考えられる性格のものである。

 船踊り

 松山市興居島と温泉郡中島町二神にこの名のものが伝わっているが、ともに本来は「櫂練り」の一種であり、興居島のものはボンデンとケンガイの役を保存しつつ中央部で歌舞伎風の衣装をつけた役(現在中学生)数名が四楽節を一単位とする大太鼓のリズムに合わせてパントマイム風に「伊予水軍」などの曲を踊るのが特色となっているが、この踊りはより新しい要素と考えられる。

 相撲練り

 化粧まわしをつけた少年が練りに加わり、甚句を歌い、四股を踏むなどの形を示しつつ練っていくものが、大洲市以南の南予地域にいくつも例があり、温泉郡重信町の浮島神社の祭りにも青年による相撲練り(四股は踏まず、両手の掌を眼の前で合わせてひねる型がある)が行われる。

 その他の練り

 祭りの行列に奴姿で鳥毛の槍を振り、受け渡す形を示す例が越智郡、温泉郡にいくつか見られる。西条市大町・神戸の伊曽乃神社の祭礼の練りは楽車(ダンジリ)の練りで、伊予三島市寒川町江之元の石戸八幡神社の祭礼は船形の御輿と「八幡丸船歌」で知られている。この船歌の例は宇摩

郡土居町の諸祭にもある。
 南予地方の練りには、鹿踊りのほか、牛鬼が伴う例が見られる。竹で骨組みを作り、シュロの皮で覆って胴体と首を作り、多人数でこれを担いで勇壮に練り歩き、所により船に積んで海上を渡る例もある。

 (8) 風流芸雑

 風流芸と考えられるがいずれの種類に属するとも言えない例としては、温泉郡川内町北方(字)宝泉の医王寺十七夜入船祭の踊り(通称「十七夜」)などがある。船形の屋台一基をホラ貝の合図で笛、大太鼓、締太鼓各二の囃子で寺の境内に練り入れ、面をつけ四幅袴に袖なし羽織にわらじばきで竹のささら杖(一・五m)を持った「だいば」、紋付袴に白襷白鉢巻でわらじばきに六尺棒を持った「にわかり」「さんぞうろう」各一名などが所作をし、稚児が扇をひろげて両手に持ち、胸高に水平に構え、すり足でゆっくり前進し、一節ごとに「ハイヤ」の掛声とともに、前に出した足の爪先を上げ、扇のかなめを足先に近づけるように前かがみとなる型をくり返す簡素な振りで踊る。歌詞は短歌形式で、次のようなものである。

 南無薬師 ハイヤ 南無薬師 瑠璃の玉つぼ おしひらき 五穀成就と 祈りこそすれ 〈以下略〉

 三年に一度、旧暦六月一七日夜に行われる。起源や年代は不明である。

 2 祝福芸・郷土舞台芸

 祝福芸

 松山市を中心に、中予地域とその周辺に分布する「伊予万歳」がもっともよく知られている。元来よそから土地に訪れ来たって祝福する芸であって、特定の祭りとは結びついていない。
 松山藩祖松平定行が三河万歳を招き、これが地元に土着化して伝えられ、太夫と才蔵との掛け合いが本来の姿であったものが、いつしか太夫が囃子と歌にまわり才蔵の役がふえて群舞となり、やがて次郎松という道化役も加わって、きわめて賑やかなものとなったのが大体の経過だとされている。踊りの装束や振りは各所大同小異で、歌詞は「もの尽くし」の形式で祝言を述べる形のものが多く、踊り手が扇をつぎつぎにふやして松の枝ぶりを見せる「松尽くし」などが華麗な感じを与えるが、「柱揃え」が古いものとされている。三味線・締太鼓で軽妙にはやして踊られる。歌詞は次のようなものである。

 太夫一本の柱は 才蔵一天が世界〈四海力〉な 太夫治まる御世のしるしかな 太夫二本の柱は 才蔵二福月日 太夫明らかに〈以下略〉

 その他には、喜多郡長浜町青島の一月一一日の船下ろしに「恵美須舞」の行われることが報告されているが、この種のものの伝存例は伊予万歳のほか、ほとんど知られていない。

 郷土舞台芸

 上方などの都会から入りこんで土着した諸芸能、郷土歌舞伎、郷土文楽など、また地狂言の類が、少数例知られている。
 歌舞伎には上浮穴郡久万町直瀬に「川瀬歌舞伎」があり、「三番叟」「絵本太功記尼ヶ崎の段」などを伝えている。大正八年にはじまり、戦時中一時中断し、昭和二〇年復活、昭和三六年に保存会が結成され現在に至っている。「三番叟」のみのものは東宇和郡宇和町田野中の「寿式三番叟」、南宇和郡西海町福浦の「式三番叟」の例があり、前者は明治中期ごろに伝わり、後者は元来大漁祈願のため地元有志が地芝居を演じていたが、明治以降昭和初期ごろまで「手つけ」と称する子役者を招いて演じ、戦後地元の人により上演されるようになったといわれている。
 文楽には松山市古三津町の「伊予源之丞」、喜多郡肱川町大谷(字)久保の「大谷文楽」、西宇和郡三瓶町朝立の「朝日文楽」、東宇和郡明浜町俵津の「俵津文楽」があり、それぞれ「傾城阿波の鳴門巡礼歌の段」「絵本太功記尼ヶ崎の段」などを伝えている。「大谷文楽」は嘉永六年淡路の吉田伝次郎一座の座員が将軍家慶の喪による音曲停止のため一座解散となったとき村に滞在したのに始まり、「伊予源之丞」は明治の初め、「朝日文楽」は明治一〇年代、「俵津文楽」は嘉永二年(一八五二)に、それぞれ地元の人により始められたと伝えられている。
 その他、越智郡朝倉村古谷の多伎神社の祭りに行われる「下朝倉のにわか」、同村朝倉北の矢矧神社の祭りに行われる「朝倉北のにわか」が知られている。
 不定期に行われる喜多郡長浜町下須戒の「長浜の豊年踊り」は、田植えから年貢米調べまでを模して軽妙に踊るもので、大正一一年、同地の農民川田時衛の創作である。座興舞踊に数えるべきであろう。

 まとめ

 以上、県内の民俗芸能の大体について略述した。はじめにも述べたように、愛媛県の民俗芸能はその全体の姿がおおまかにほぼとらえられ、いくつかの例についての調査・探訪の記録がすでに野口光敏、森正史、秋田忠俊らによって発表されており、一部の総合的調査が愛媛大学地域社会総合研究所のグループによって行われたという段階にあり、全体にわたる総合的調査が、今後の変容状況の把握とならんで、これからの課題である。また細部にわたって研究すべき事項には、ところどころで指摘したように、歌詞の全国的規模での研究、神楽、櫂練りなどのより広域にわたる比較研究などが含まれる。

小踊「鎌倉」

小踊「鎌倉」


図7-1 「いさ踊り」の踊り船

図7-1 「いさ踊り」の踊り船


図7-2 「いさ踊り」踊り船の順路

図7-2 「いさ踊り」踊り船の順路


いさ踊(大黒踊)

いさ踊(大黒踊)


いさ踊(鶯踊)

いさ踊(鶯踊)


図7-3 宇和海沿岸の小歌踊りの分布

図7-3 宇和海沿岸の小歌踊りの分布


図7-4 とんとこ踊りの順路(8月15日昼)

図7-4 とんとこ踊りの順路(8月15日昼)


とんとこ踊(花見踊)

とんとこ踊(花見踊)


戸島のはんや踊(我が恋)

戸島のはんや踊(我が恋)


戸島のはんや踊(大和踊)

戸島のはんや踊(大和踊)