データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 県 政(昭和63年11月30日発行)

7 高度成長と求人ブーム

 求人難・農家出稼ぎ

 戦後潜在失業者のプールとなった農村の役割は、昭和三〇年ころから限界に達していた。農家二、三男の過剰労働力が農村に滞留し、二四~二五万人といわれる潜在失業者が問題となっていた。一方、農業の負担を軽くし第二、第三次産業を興す近代化成長の過程にあって、三〇年代前半は「生産性向上」を重視する人員整理も厳しく、井関農機、木藤鉄工所など長期の労働争議が起こり、安保改定阻止などの政治色も帯びていった。後半は、おおむね堅実な経済闘争重視、労使接近に転じ、四〇年ころには不況、物価高の中で生活権防衛闘争の季節となり、県下でもかなりの賃上げが実現した。昭和四〇年代に入り政治安定と多党化、高度経済成長、技術革新、生活向上など長期的展望に立った現実的運動を進める傾向が強まり、四五年には八〇四組合、組合員数一二万七千余人と組織の拡大成長ぶりを見せている。労働者雇用指数も四〇年を一〇〇として四五年一二〇を示し、一般労働市場でも新規求職者は年々減少し安定した経済成長を謳歌した。
 一面農家の出稼ぎは深刻化し、三八年ころには三五歳以上の出稼ぎ農業者が半数近くを占め、その増加の勢は激しく、三五年に比べ二・七倍にもなっている。しかも「主に農業に従事している者」が七五%を占め、また、農業後継者三九%、同経営者四四%、計八三%にのぼる実状は、単なる二、三男問題を通り越して、もはや農業の基幹労働者の一種の「離農」の一面さえ見せるにいたった。その原因の根源は都市と農村との所得格差の増大、すなわち経済成長のひずみの一現象ととらえることもできようが、ともかく就労先は建設業が五八%で過半、製造業二〇%、農林漁業一四%などで、出稼ぎ期間も短期的、季節的なものから長期化する傾向があった。出身地は後進的農業地帯で近隣に就労機会の乏しい南予や山間へき地からの出稼ぎ傾向が強く、逐次平地農村や中農層にも浸透して、農村の基幹的男子労働者が比較的長期に就労する現象は農政、労働の両面から無視出来ない問題となった。しかも高度成長の急進する大都市など県外の求人が多く、地元職業安定所に頼らない就労も盛んに行われた。当然長期単身就労の社会問題も起こり、県内の公共事業活発化による就労確保対策等が県政の課題となり県議会で論議された。出稼ぎの要因としては、①労働力需要が技術者のみならず単純労務者に及んだこと、②所得格差の拡大が県外出稼ぎもいとわず、農家労働者を都市や他産業へ吸引したことなどが考えられる。
 こうして農家は高騰する生計費の穴埋めのため兼業への志向を強めた。農業経営の拡大が農業近代化の指標であることは疑えないが、既出稼ぎ者のデモンストレーション効果、賃金問題、単作農業の副業の行き詰まりなどもあって兼業は不可避の大勢となり、その兼業も安定した地域密着型兼業よりも安易で収入の多い出稼ぎの方向をとった。この農民の「離農」は、挙家離農の形をとらないで兼業農家の増加という、複雑な問題となって将来へ尾を引いていった。昭和二五年と三五年を比較すると、本県の農家人口は、若年層中心に八万六、〇〇〇人減っているが、一方では、兼業農家の増加がめざましい。特に第二種兼業は三万一、〇〇〇戸から四万六、〇〇〇戸へ増え、第一種の約五万戸と合わせて全農家一三万七、〇〇〇戸のうち、兼業農家はこの当時すでに七割を占めた。兼業の内容は、三割以上が季節的出稼ぎか日雇人夫など不安定就労が特徴で、三〇年代から農業の就業構造は信じ難いほどに劣弱化していった。就労者の半数は働き盛りというものの、実体としては青壮年男子は僅かに二割で、農業就労者の八割以上を婦人及び六〇歳以上の老人や兼業片手間の労働力で支える「三ちゃん農業」となった。二七年には学卒者で四〇%が自営など農業に就いたが、三七年にはわずか五%となり、農業人口補充率も二六年の九〇%が三七年には一三%台に落ち、地すべり的な農業の様変わりとなった。 
 学卒者の就労も高度成長期で変化した。昭和三六年以降の課題であった若年中学卒業者の県外流出超過は四一年を境に逆転し、県内就職が五二%を超え高校卒業者は六〇%へ接近する勢いとなった。
四三年には求人倍率四・四倍と史上最高の逼迫を見せ、製造業、建設業の求人難、大企業の労働力不足、特に若年層、事務職中年層の求人難時代となった。四五年ころには中高卒業者の地元就職の増加、移動の小さい中高年労働者の増、企業の地方進出などの原因が重なり、終戦以来続いた労働力の都市流入が鈍化し、逆に一たん都市へ就職した若年層が出身地あるいはその近傍へ「Uターン」して還流する新現象が起こり、高度成長期の一つの転機ともなった。

 労働条件の改善

 中小企業は労働条件でも大企業との格差があり、労働力確保のハンディとなっていたが、高度成長期に健康保険、退職金制度、住宅、厚生諸制度を含め労働条件の改善が進んだ。労働時間も昭和三五~四五年の間に一般に短縮が進み、全国平均で月一五時間の短縮が実現した。昭和四〇年代に入って卸小売商業も同様で、松山市湊町・大街道商店街では三三年月一回の休日が定められ、午後九時の閉店が三五年に実施され、県下の他都市でもこれにならう商店が増えた。戦前の住み込み店員のしきたり以来、家族的労働の惰性から非近代的な労働条件の下に置かれた小売商業従業者にも時代の新風が吹き込んだ。
 この時期、中小企業者を対象とした各種の福祉共済政策も進められた。その中でも中小企業従業員住宅は、厚生年金資金による二五年々賦償還の施策(融資額八・八億を県が一括立替え払い)で三九~四六年の間に世帯者向け五二六、単身者向け五〇四、計一、〇三〇戸が建てられた。勤労青少年ホームは三九年新居浜、四四年伊予三島、四六年宇和島と国・県助成で各市に建てられ、三九年には今治市に「働く婦人の家」が建設された。また、中小企業退職金共済制度は四七年三月時で、事業所一、六〇三が加入し、被共済者二万五、二九九人にのぼった。