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愛媛県史 文 学(昭和59年3月31日発行)

一 和歌

 詠三首和歌

 頓阿の三島社への和歌の奉納に、自撰『草庵和歌集』(延文四年一三五九)の次の歌が最初であろう。入道左兵衛督家三島社奉納せられし歌に、
    いにしへのなはしろ水のためしあれば此の手向にや心ひくらむ      (巻十 神祇歌)
 入道左兵衛督は、足利尊氏の弟直義で、貞和五年(一三四九)直義出家、三年後四七歳で薨じた。入道後、間もないころ、能因が伊予守資業に伴って下向、旱天続きに祈願した和歌(能因法師集)をふまえての作である。
 「詠三首和歌」は、これより約二〇年後「花 春月 神祇」を詠じたもので、頓阿と、京都四条道場の時宗僧顕阿、風交のある勅撰集所載歌人、祇園の法印顕詮、吉田神社神官卜部兼煕と、河野家と思われる沙弥道雄、越智盛文、三島社社家か越智久軌らの作。河野一族の発議で一遍の門流頓阿らに依頼したものであろう。
    花 春ごとの花みるほかはやそちまていけるわがみの思出もなし    頓 阿
 頓阿八十歳は、応安元年(一三六八)であり、前年「当時第一歌人也」(後愚昧記)といわれていた。また、「春日陪三嶋社宝前同詠花和歌 従四位下行内蔵権頭卜部宿禰兼煕」とあり、『公卿補任』により、兼煕の正五位下と従四位上との間、応安元年か二年ころ従四位下に叙せられたようである。頓阿の八十路と、兼煕の従四位下時代から、応安元年か二年ころ、道雄と兼煕と社参、社家越智久軌社頭詠を添え奉納したと思われる。

 続百首和歌

 巻子一巻。七代管領細川頼之(源頼之朝臣)を中心に、次弟頼有、三弟八代管領頼基(頼元)、四弟詮春や一門関係者、僧侶顕阿ら一九名参加。年時や奉納趣旨は、巻首五首分欠損のため明らかでない。春二〇首(現存一五首)、夏一五首、秋二〇首、冬一五首、恋二〇首、雑一〇首、計百首の構成である。顕阿は、三首和歌の作者と同一人であろうか。頼有は、応安五年讃岐から伊予を攻略し、三島社造営と天下安全、家門の繁昌を、応安八年(一三七六)に立願(大山積神社文書)している。京都から讃岐に帰った頼之が康暦元年(一三七九)伊予を侵攻、河野通直(通尭)は討死している。そのいずれかの時の奉納であろう。
    初花 ひまもなくこゝろのかよふ山の葉に かゝるもしるし花の白雲
源頼之朝臣(詠三首和歌・続百首和歌『頓阿法師詠と研究』所収、昭和41年)