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愛媛県史 文 学(昭和59年3月31日発行)

七 栗田樗堂

 天明(一七八一~一七八八)から文化(一八〇四~一八一七)にかけて、いわば伊予俳壇の中心的存在であった人に、栗田樗堂がいる。樗堂の動静とその周辺の人々について記述することは、そのままこの期の伊予俳諧史を素描することにも通じよう。彼の江戸・尾張・上方の俳人たちとのつながりや、彼の俳諧活動の量的質的な大きさ、あるいは地域における影響力の強さなどが、その裏付けとしてある。

 樗堂略伝

 文化一一年(一八一四)八月二一日没。行年六六歳。逆算して寛延二年(一七四九)の生れである。松山松前町の酒造業後藤昌信の三男であった。同業の廉屋栗田与三左衛門政賀が明和二年(一七六五)病死したので、樗堂は嗣子として栗田家へ迎えられた。三津浜の豪商松田次郎左衛門信英の娘で、今は政賀の未亡人となったとら(後に俳名羅蝶)の後夫となったわけである。三歳年長の姉さん女房であった。栗田与三左衛門政範として家業のほか、明和八年から大年寄役見習、安永二年(一七七三)から寛政三年(一七九一)まで大年寄役であったという。また寛政八年から享和二年(一八〇二)まで大年寄役を勤めている。その後安芸国御手洗島
に小庵を設げて隠棲し、土地の俳人たちとの交遊に明けくれた。

 樗堂の俳諧活動

 樗堂が俳諧の道に入り初めたのがいつの事であるかは明らかでない。妻の前夫政賀が没した時樗堂は一七歳であり、入夫したのもこれに近い時期であろうし、養父すなわち先代(五代目)与三左衛門政恒は初代二畳庵を営み、浄甫・砧山・点山・天山などと号した俳人でもあったから、この頃を初学の時期と考えてよかろうと思う。『萍窓集』(文化九年・一八一二刊)序には「樗堂翁嗜誹詞也蓋五十年一日矣」とある。そのまま逆算すれば、宝暦一二
年(一七六二)一三歳の時となるが、文飾もあろう。
 天明七年(一七八七)に『暁台七部集』の一つ、『つまじるし』が成立した。二畳庵蘭芝こと後の樗堂が、京都・大和・尾張をめぐった紀行文と、暁台・臥央・佳棠・蘭芝の四吟歌仙一巻を収め、佳棠・臥央を含めて四四名の発句を添えている。序文は暮雨奄暁台その人が書いた。

  青陽我を率て千里の情をすすむるより、やうやう杖の長おし切り、足ゆひかため、まづ門出の戯れにへたと落書して、
    花に行く我を忘れな此柱    二畳菴蘭芝
  おほくはすなりける旅日記といふも、我はせずもあらむ、数ゆく日次にただ思ひよれるはしばしばかり爪じるしして、あやもきれぎれのすぢりもぢりに、みぢかき筆さしぬらさんと思ひ立てる其日は、まづいひしるすべき事もあらず。
と、『奥の細道』を念頭に置きながら書き出されたこの文章により、「つまじるし」の意は明らかである。文末は、
  そが後の事は、暮雨菴の阿叟に供せられて尾陽に下るべき心いそぎにやみぬ。
となっている。四吟歌仙の方は、「伊予の国松山の蘭芝、大和の国めぐりしてふたたび都に帰りのぼり、ともしかくもし書き集めし日記やうのものをみたるに、おもひさすはしばしよく心かよひて聞えければ」と前書して、
    袖にみん御吉野の蚤三輪の蟻    暁台
を発句に、樗堂が脇をつとめているものである。また、発句を寄せた四四名の中には、蘭更・几董・百池・士朗の名も見えている。これらのことやその編集をまかされたことを考えれば、加藤暁台あってのこととしても、すでに樗堂の力量は人々の認めるところであったと言わなければならない。時に彼は三九歳であった。
 同年には『俳諧七不理』も成立した。「天明七丁未年冬夜、残燈のもとに息陰叟書」と文末にある序文には、訪れてきた友人麦士(現庵門屋祐助、松山藩士)と「夜すがら滑稽のいと口を解々ほどけて、其調急々とやまず、緩々と続く。さればかりそめに幽なる筋のものに類へて、似ざるにもあらず似たるにもあらずなど、打興じぬれば、天も鵲の霜にならみ、四隣ものの音ほの聞へて、やがて七曲なりぬ」とある。すなわち「擬冬日集風調」「擬春日集風調」「擬ひさこ集風調」「擬曠野集風調」「擬猿簑集風調」「擬炭俵集風調」「擬深川集風調」の両吟歌仙七巻を収めている(資料447)。
 『樗堂俳諧集』に収められている連句の中には、寛政三年成立の「庚戌夏於平安客中名古家文通之俳諧」および寛政五年成立の「癸丑初冬於平安曲江亭会」「同冬於洛東西阿弥会」「同仲秋於平安桂輪亭会」「同仲秋於洛下会」の五巻があって、樗堂両度の上洛が知られる。やはり風交の旅であったろうと思われる。そしてこれらの連句を含めて、今までの作品を集めて一集となし『樗堂俳諧集』と名づけようと思ったのが、寛政六年であった。「古き世の俳諧はとまれかくまれ、中比深河にありける翁の一碗に正風の淡味をすすり得て、……雪夜の炉辺にありて樗堂みづから此端に題す」と序文を認めた。実際には未完のまま残され、後年の作品を合せて、孫娘婿の松田三千雄の手により文化二年(一八〇五)に完成する。同時に企てられたものに『樗堂俳句集』がある。「寛政六年きさらぎ二十八日尾張朱樹叟士朗序」とした序文が付いている。収むる句二千三百余、上巻「春之部」「夏之部」、下巻「秋之部」「冬之部」とする。下巻末に自跋を付している。この跋文には、「われもむそぢにかたむきて」とあり、巻末に「文化丙寅孟夏寒桃三千雄写」とあるから、「文化丙寅」すなわち三年に全容を整えたことになる。この士朗の序文は年月日を削って、『萍窓集』の序文として利用された。
 寛政七年一月一五日には二畳庵に俳諧寺一茶の来訪をうけた。一茶の『寛政七年紀行』には、「十五日、松山二畳庵に到る」とある。また、寛政八年秋から九年にかけて再度来訪をうけた。前掲『樗堂俳諧集』には「丙辰中冬二畳庵会」「丙辰年抄会」「丁巳初春二畳庵会」の一茶・樗堂両吟歌仙三巻を載せている。
 寛政九年秋には、暁台門の井上士朗が訪ねてきたとされる。天明七年の上方紀行や尾張行きの際に膝を交えたはずの人である。同じく『樗堂俳諧集』には「丁巳秋於二畳庵会」の半歌仙が収められているからである。しかし、これはやや疑問で、発句のみが士朗であり、脇以下は樗堂と斗入の両吟になっている。
 寛政一〇年九月には『月夜さうし』が成立した。月についての短い文章一〇編と、所々に八句の発句を掲げている。左に冒頭部分を挙げる。

  秋はもののあはれもことなりけるに、月見るこそまたおかしけれ。おもふきはは見ぬ世の人も、今あひ見しやうに思ひ、つねにもの問ふ友人も、月見る宵のほどはやうさるにとく来りける。かほさしむかふさへいとめづらかなるここちこそしけれ。なにかはとざまかうざまにいそぎてものがたり出でたるこそ、またおかしき。荻の葉のからからと軒端の柳ち  り初むる頃など、三日よかの月のみそかにさし入りたるこそ、いと猶おかしけれ。
     さむしろやめし喰ふうへの天の川
  七日やうかのほどは、月のかたちのおかしくこそありけれ。なににかは似たりけむ、おほぢ行きかふ人の誰ともわかちがたきに、あやなく見かはしたるこそ、猶おかしけれ。此ほとはなべて松の葉がくれなる月ぞことにおかしき。

 本書は文政三年(一八二〇)に、西坡によって出版された。星加宗一氏の報告(『伊予の俳諧』伊予の俳書解説)によれば、この文章を一〇部に分け、「三日月」「七日八日の月」「十日ばかり」「待宵」「最中」「いさよひ」「ゐまちふし待」「廿日ばかりの月」「うしみつ頃いづる月」「有明の月」とし、その間に諸家の秋の句を挿入しているとのことである。
 寛政一一年には、『月のためし』に序文、『俳仙集』に欧文を書いた。(『筆花集』による)
 翌寛政一二年には、別業庚申菴をつくった。『庚申菴記』(文化二年・一八〇五成立)はその記念である。次にその一部を引く。

  我がすむ坤のかた、市塵わづかに隔りて、平蕪の地あり。味酒の郷と言ふ。寛政庚申の年、いささか其地を求めて、かたばかりなる六畳の草屋をつくり、陸廬が好事の茶を煮るために小庇をつけたり。此ほとり、もと青面金剛の安置ありしとて、村老今も古庚申と呼びぬ。支幹幸ひに応じければ、やがて庚申菴とぞ言ひ習ひける。彼の「五尺にたらぬ草の庵むすぶもくやし雨なかりせば」と詠じ給ひし澄めるこころによそへては、まことに浅ましけれど、めぐりにささやかなる笹垣しわたし、觴を濫むべき細き流れを引き入れたり。

 同庵は松山市味酒町二丁目に現存する。
 年号が変って享和二年(一八〇二)、樗堂は五四歳になった。人の勧めもあって、自撰の句四一五句、歌仙二巻を合せて『樗堂発句集』を編んだ。また、芭蕉の「海くれて鴨の声ほのかに白し」を埋めて柳を植えた、御手洗の満舟密院境内の翁塚について、「彼の院中の別室に旅寓しつつ」『翁塚詞』を書いた。また時を同じくしていわゆる「倭詩」をものしている。享保(一七一六~一七三五)頃から各務支考によって始められた「仮名詩」は、その後さまざまな展開を示すが、ここにもその流れがあったのである。『樗堂文集』より次に引く。

  壬戌秋八月、清月楼にのぼる。江上の風光見れども尽きず言ふともたらず。若王摩詰ありて筆を採ればおのづから我も画中の人か。
    月に雲なし楼に塵なし     風清ければ浪も静かに
    かの赤壁の秋をかたりて    かたぶく影のおしき盃
  此秋此日、孤雲亭に遊びて、主人の需めに応じつつ、倭詩一律の鄙曲を賦して残し侍る。
      爰に孤雲の閑亭ありて     あるじは風雅に富めるならむ
      江にあざらけき鱸を求め    山にかぐはしき菌を得る
      月まつ軒には琵琶湖を思ひ   露ちる庭には嵯峨野を移す
      ながれながれしみたらしの名の 尽るときなき因みむすびつ

 この年は彼が再度の役職勤めを退いた年でもあるから、御手洗訪遊は隠棲の準備を兼ねたものであったかも知れない。
 享和三年六月、亡妻羅蝶が「残し置き侍りし句々百の数ばかりを、もののはしばしより拾ひあつめて、とみに清書して、『夢のはしら』とぞ名づけ侍りける」集に序文を書いた。羅蝶こととら女が四四歳で没したのは寛政元年(一七八九)であったから、その一三回忌供養の意味もあったろう。それより前、中呂(四月)には、御手洗の俳人芦舟老人の句集『枕の塵』に序文を書いている。
 享和四年は二月一一日に改元あって文化元年(一八〇四)となる。孫娘婿の松田三千雄の句集に序文を書いた。
また「安岐の隠士南枝老人」が編んだという『俳諧歳時記』にも序を送っている。
 文化二年には前述の『庚申菴記』を書いたほか、三千雄の編んだ『円羅井句集』に序を書き、『嘯雲句集』にも序文を書いた。円羅井は松田三千雄の曽祖父、嘯雲は松山の商家武井孫右衛門で樗堂門の俳人、蓼莪とも号し『樗堂俳諧集』に樗堂との両吟歌仙三巻を収める。「甲寅冬於二畳庵会」(寛政六年)、「同冬夜於嘯雲亭会」「卯仲秋於二畳庵」(寛政七年)がそれである。『予陽俳諧友千鳥』の拾遺に当たる埋蛇編の『高根月集』にも序を送った。庚申菴に掛けられていたという、「一、追善集無益 やがて屏風の下張となる。一、塚しるし無益 終には犬糞の掃寄場となる。一、追善会無益 但し湯豆腐の塩梅は思出し次第の心まかせか。後のことを思ひてよめる、尋ねても姻り隔てし夕ぐれの浅茅が末に秋風ぞふく」の一輻もこの頃のものであろう。
 文化三年には、豊後の俳人春披の『伊予日記』に序を送った。その文に「孤鶴あり。風に御して雲を凌ぎ滄溟に羽うつて遥に西南より飛来る」「しばし座右の筆硯をたたきて夫が雅音のおかしきを和するに、閑庵の興既に尽きて望帰の一声を残してただちに遠く飛去る。去りて後思ふにしらず、禽か人か」と言う。御手洗の二畳庵での風交がしのばれる。
 文化四年には『守六句集』『南無霜夜集』に、翌五年には『花隣句集』にそれぞれ序文を寄せた。この年八月「安岐の国に名だたりし、広の里なる瀑布見に」出かけ『瀑布見記』をものした。文中「つくづくと聞けば滝にも秋の風」の一句がある。
 文化六年、樗堂の還暦の年である。『春台書画月窓集』序、『丁々句帖友ちどり』序、『十九楼記』、倭詩『良夜思』などの筆を執った。
 文化七年も『蘭庵書画帖』序、『現庵麦士追善集』序、『東収麦句帖』序、『鶴瑞帖』序を書いた。ここに『現庵士追善集』というのは『今はむかし』のことで、京都橘屋から刊行された。麦士は松山藩士門屋祐助で、かつて天明七年冬、夜を徹して俳諧に遊んだ仲であった。樗堂は「今はむかし、現庵の老人をおもふに、老人は我を知り、我は老人を知る風流にして、かたはらに山をおもへば山をいひ、水をおもへば水を指さすの交りなりし」と述べている。文字通り知音の雅友であった。
 この年七月、丹波国大山(兵庫県多紀郡丹南町)で酒造業を営む、万屋西尾呉四郎、俳号武陵から書簡が届いた。武陵は明和三年(一七六六)生れであるから、当年四五歳樗堂より一七歳の年少である。高井几董門、江森月居門に学び、井上士朗とも交遊があったらしいから、樗堂とも交誼を結んでいたのであろう。武陵の書簡は伝わらないが、樗堂の返信は西尾家に伝来しているので、七月二〇日付の全文を掲げる。けだし晩年の生活がうかがえるからである。

  御床敷候所、花翰忝相届候。秋暮退かね候。御佳安欣慰候。小老無事、乍去ことの外衰行、風流も随意たのしみ中候。近年は御手洗と中浦に安芸之国也漂泊して、消二光侯。御憐み可給候。玉声めづらしく、ことに、「空也寺」「水鶏」「春の月」「花の木間」など嬉しと覚候也。次韻被仰下、則三盟之若者を相手とり潤口にて侯。御判、鹿念どもあらば宜御添削可給候。是も彼随意のみ也。御察可給候。書外かさねて可中承、早々頓首。
    御すりもの被成、几上だのしみ申侯。
    初秋廿日                             樗 堂
  武 陵 様
       貴回
    老作も御判可給侯。もとより随意随筆也。
  我庵の朝がほけさもまた白し     都どりここらの水の秋もしぐれ
    粒々皆辛苦
  吹風や秋の田に喰ふめしのうへ    あふみ路や稲に見まがふ花すすき
  女良華立よれば踏む蛇の皮                       樗 堂
 文中の「空也寺」等は武陵から贈られた発句の初句である。
 文化八年には『遊帯江楼序』を書いた。「帯江楼」は「九霞楼」とともに、松田三千雄の三津浜の別業の称である。三千雄はこの年三月に淡斎宇佐美正平、熊台葉惟脩に九霞楼からの眺望「九霞楼十二景」を撰んでもらった。
 「洲前帰撓」「水門仙祠」「母居朝暾」「御盥残月」等々である。文化一〇年には樗堂もこの十二景にふさわしい俳諧発句を選んで書き与えた。「小松塩田 はせを 海士が家は小海老にまじるいとど哉」「馬銜古城 越人 行秋のさてさて人を泣せけり」等々である。(『九霞楼詩文集』より)
 文化九年、句集『萍窓集』が刊行された。序文は「尾張名古屋は士朗(城)でもつ」といわれた朱樹叟井上士朗が書いてくれた。もっとも、これは寛政六年に企画されたらしい『樗堂俳句集』のために寄せられた序文であった。「尋常一様窓前月。纔有梅花便不同。樗堂氏が家の集、世の梅月を同じうするものとおなじからず。芒の糸の長くさびわたり、萩の露のよく栞して、常に古人とこころを同じうす」とある。それから既に二〇年近くを経ているが、「常に古人とこころを同じうす」の評言は正鵠を得たものと言えよう。収むる句全部で三〇四句、「春部」八一、「夏部」五五、「秋部」八四、「冬部」八四である。編集に当ったのは「阿岐 静嘯廬鹿門 葛廬才馬」の両人で、その跋文には「坐右に文庫あり。叟のしらざるを幸ひに、偸出して此集成しぬ。これ瞽者の象を相するにたとふ」とあるが、樗堂の自選の句と見てよかろう。
 できあがった『萍窓集』は、早速丹波の武陵へも届けられたようである。武陵の「人名録」によれば、「樗堂 イヨ松山 角屋与三右工門 便処 大坂南久宝寺町境筋 近江屋嘉兵衛」とある。ここを経由しての送付であった。この時一緒に送られた樗堂の書簡を次に掲げる。

  花帖忝相届候。暑中御安静御楽奉寿候。小老無事消光、御易慮可被下僕。御編集御投忝、几上寛々たのしみ可申、御礼時を得て向眉と中残候也。且老吟集も此節社中より及梓行候まま、御覧備候也。御礼かたがた、草々不一。
    水無月日                             二畳庵
  武 陵 様
       貴復
  鹿門・才馬宜敷御礼と中出候。御吟甘舌、ことに「ほたる来よ」「短夜」「浪の郭公」「空に吹秋風」「須磨の火桶」御調と承候。老吟御判可被下候。随意也。
  ほととぎす露の芒の穂に遅し     すすきなど植ゑよ五月のあら畠
  朝涼し川霧かかる瓜の花       帷子の袖ひき延す小雨哉

 武陵の編集による『東西四吟歌仙』が贈呈されてきたのに対する礼状であるが、折よく新刊の家集を返礼にしたわけである。前引の書簡に載せられていた樗堂の句は『萍窓集』に収められているが、今回の書簡の分は最新作ということになるのであろう。
 これら二通の樗堂書簡は『武陵来簡集』(大谷篤蔵編)に収録されているものであるが、同書に二瓢庵(呉老)の文化年六月一九日付書簡が載っていて、「一、五来発句、樗堂などはよほどおくれ候と申所之よし、人も申候事也。はいかゐもかくべつおどろくほどになしとぞんじ侯。しかし、とんとないものにて御座候」と見え、また大阪の俳人木彦の文化八年二月二八日付書簡に、「将此由肆宗は士朗門弟にて、西国にて月居・樗堂をちからを合し、東国にては成美・道彦とちからを合申候達人なり」とある。それぞれに当代の上方俳壇の空気の中での樗堂の評価がしのばれておもしろい。前者は自己の覇気を語るに樗堂を引き合いに出しているし、後者は「由肆」の能力を強調するのに樗堂をかりたわけである。老武者と若侍の対比の感が深い。
 文化一〇年、『筆花集』によれば、『題林後編集』跋、『岡見草紙』序を書いている。
 文化一一年になると『万家人名録』が刊行された。その第五編の跋文の一つは樗堂が書いている。俳壇における樗堂の位置を示すものと言えよう。『筆花集』には、『木公集』小序が収められている。文末に「甲戌初夏」とあって、この年の執筆である。それより先二月二〇日には、遠く俳諧寺一茶へ書簡を送っている。その全文ではないが、一茶編の『三韓人』にそのまま載せられているので次に引く。

  梅柳と中収候。いまだ御往生も不被成候由、夫もまためでたからむ歟。老はことの外に衰へたり。活きて居ると申すばかり。万事随意々々御憐推々々。風流も先閉口同事也。只むかしをおもふ度人恋しくも最早生前御面会もあるまじく歟。上品蓮台にてとたのしみ中候也
     如月廿日                      樗堂老人
    一茶上人榻下
  たづねても世の中はなし山ざくら
      長ければみつがひとつをしるしぬ。
  一茶はこの後に続けて、
  八月廿二日、叟身まかりぬと聞きて、筆の落るもしらずおどろく折から、またかたのごとく書とどく。さながらあの世へさそはるるやうに、そぞろにうしろさむく、
    此次は我身の上か鳴烏      一茶
  大事の人をなくしたれば、此末つづる心もくじけてただちにしなのへ帰りぬ
     文化十一年霜月十九日
と書いている。一所不住の一茶には、樗堂書簡より先に訃報が耳に入ったのであろう。正に冥界からの便りのごとく感じられたにちがいない。ともあれ八月二一日に樗堂は没した。六六歳であった。墓は御手洗の満舟寺と松山の得法寺にある。