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愛媛県史 教 育(昭和61年3月31日発行)

二 聾教育の歩み

 聾教育が、盲教育と歩みを同じくして、私立愛媛盲唖学校として発足したことは盲教育のところで述べた通りである。
 明治四〇年一〇月一七日の海南新聞の記事によると、「私立愛媛盲唖学校は二番町四十四番戸に設立され、昨十六日午前九時より開校式を挙行したるが……略……之れにて式を終り生徒父兄へ茶菓を饗し同席上に於て森恒太郎氏の実見談あり十時三十分散会したり……略……同生徒は今明日は慈善音楽会に赴き十九日より授業を開始する筈」といっている。

 二番町・三番町校舎

 開校当初、県下の盲唖者総数約二、五〇〇人、そのうち、就学見込みのあるもの約一六○名と推定して開校に向かったが、開校式には、盲生六名、唖生一三名であった。

  〈教科〉(普通科)修身・国語・算数・地理・歴史・理科・体操 (技芸科)図画・裁縫・指物
  〈修業年限〉唖生は五年、一〇歳以上入学許可 〈定員〉盲唖各五〇人
  〈毎週授業時数〉(普通科) 一八~二四時間 (技芸科) 一二~二四時間

 指導は、手話と文字を主体にし、露口悦次郎主幹のもとに熱情を傾注した。
 明治四五年には三番町の屋敷に、大正四年には二番町の民家にと校舎は転々とし、生みの苦しみを思わせる歩みであった。

 旭町校舎

 大正五年旭町に松山中学校の古材を使用したとはいえ新校舎が完成した。敷地七〇四坪、校舎一二〇坪、運動場三〇〇坪、学校園六五坪、その他二二〇坪

  〈教科〉修身・国語(読方、発音、視話、綴方、書方)算術・歴史・地理・理科・図画・体操・手工・裁縫
  〈修業年阻〉大正六年ー六年、大正一四年ー初等部六年、中等部四年

 大正九年にライシャワー夫妻が日本聾話学校を創設、名古屋盲唖学校が読唇先進主義を提唱、同一五年に東京聾唖学校が難聴学級を設置し聴話法の指導をするなど、こうした時の流れに本校も口話式教授法が採用され、発音、視察が加味され指導されていたようである。それは旭町校舎の昭和二年ころのことである。

 御幸町校舎

 昭和四年、関係者の悲願であった県立移管が達成され、同五年御幸町の新校舎に移転して教職員・生徒は喜びを満面に、一丸となって精励した。そのころの教科は次のとおりである。

  〈教科〉修身・国語(読唇、発語、読方、綴方、書方)・算術・理科・国史・地理・体操・図工・手工・裁縫・家事・職業
 昭和一八年になって教科変更があって次のようになった。
  〈国民科〉修身・国語(読話、発語、読方、綴方)・国史・地理 〈理数科〉算術・理科 〈体錬科〉体操・武道・教練
  〈芸能科〉律唱・習字・図画工作・裁縫・家事 〈職業科〉

 県立移管は、本県ばかりではなく、全国各地でも行われ、聾教育は全般的に充実していった。その上、文部省著作教科書が刊行されたり、川本宇之介の『聾者と其教育』(昭和七年発行)、『聾教育精説』(昭和一五年発行)等の著述などがあって日本の口話教育はいっそうの進展をみ、各地で口話法の指導上の工夫が試みられた。本県もその一翼を担い、全国の聾教育界に貢献するほどに成長した。
 太平洋戦争勃発によって聾教育の隆盛は、一時挫折。同一九年の学徒動員をはじめとして教職員の出征等によって教育は低下していった。しかし、松山空襲その他戦禍から免れ、終戦を迎えた本校は、教職員の熱情も再燃し、教育研究が日夜盛んになった。それが昭和二三年度の盲聾学校就学義務制施行によって、ますます拍車がかかり、教育の成果も日一日と上かっていった。
 永年の努力が実って、盲聾学校の分離が実現したのは、昭和二三年四月一目で、ここに県立聾学校が誕生した。また、六・三・三制が施行され、小学部・中学部・高等部となり、高等部には、木工科・被服科・理容科が設置された。教科科目にも変更があり、修身・武道等が姿を消した。

 本町校舎

 本町校舎が移転地として決定したのは、昭和二四年三月三一目である。同二五年ごろには、児童生徒数は、三〇〇名に達した。そのため新校舎も教室が不足し、手狭となり、同二七年に県立宇和聾学校設置が実現した。
 従って、校名も県立松山聾学校と改称された。兄弟校実現によって、教員はますます一丸となり、教育内容充実に向かって情熱は高まっていった。それに伴い、各種の研究大会や講習会等が開催され、教育は進展した。
 そのころから聾教育界では、早期教育の重要性が叫ばれ、本校においても教育相談という形で幼児の教育相談及び聴覚障害幼児の教育をしていたが、昭和三九年には、幼稚部設置が実現し、その教育と研究は一層盛んになっていった。
 そのころの教育の成果の一つとして、高等部男子生か県高等学校総合体育大会のソフトボール大会に優勝し、県代表として全国大会に出場したことは快挙といえる。また、理容科国家試験合格者も毎年増加し、社会適応への人間形成は実を結んでいった。

 馬木校舎

 静かな環境だった本町校舎も時の流れとともに街中となり、騒音に包まれ、老朽化もすすみ、日々の教育を阻害するようになってきた。そのため鉄筋三階建の馬木校舎が建設された。それに三日間を要して移転したのは、昭和四七年である。
 障害児教育が進展するに従って、早期教育、重複障害教育、交流教育、多様化に応じる職業教育等多種多様なしかも重要な問題が山積してきた。本校でもこうした諸問題に取り組みながら人間性の教育へと歩み続けた。
 この間、「重複障害聾精薄児の研究」に成果を収め、同五〇年一一月に第六回博報賞を受賞、更に「サリドマイド生徒の研究」について文部省実験校の責務を果たし得たことは特筆すべきことである。

 宇和聾学校

 昭和二三年四月、盲聾教育の義務制実施を契機に本県の盲唖学校は分離し、それぞれ独立した。
 この義務制実施によって、入学する児童生徒数も激増した。その上、県内の地理的条件と就学率向上等の観点から、県内には、他に一、二校の増設が望まれていた。地域の方々の熱意と県当局の深い理解によって、宇和町の下松葉に県立宇和聾学校が誕生した。
 本校の教育は、昭和二七年九月に松山聾学校から移籍した小学部一年生八名の入舎から始まった。そして初代校長清水清幸など教職員七名によって開校した。とはいえ、当初は新しく開拓することが多く、文字通り基礎づくりの時代といってよかった。そして一日の大部分は、地域の聾教育に対する啓蒙や教育環境づくりに費やされ、その中において毎年学年進行があり、同三五年には、小学部一〇学級九〇名、中学部三学級二八名、計一三学級一一八名となり、義務課程は完成した。
 建設と教育条件の基礎づくりの中で、中・四国地区聾教育研究大会、中・四国地区聾学校寮母研究大会を開催し、研究面と教育充実面を実践したことは成功であった。
 昭和三三年二月に、ろうあ児福祉施設「松葉学園」が開校になり、本校の教育充実に大きな協力が得られた。
 一〇年間営々と築いた松葉校舎には歴史があった。しかし町のやむを得ない事情で坪が谷校舎に移転したのは昭和三七年である。
 坪が谷は、左氏珠山ゆかりの「中義堂」の跡の聖地で、教育環境としてはこの上なく、人間教育として最適の場であった。ここでは、昭和三八年二月に高等部(普通科)、昭和四〇年二月に幼稚部が新設され、聴覚利用の教育、障害の質を考慮した指導等によって教育の実を上げた。少人数ながら同四六年には、高等部が県高等学校総合体育大会に初参加できたのも教育の成果の一つといえよう。
 同四九年に着工した鉄筋校舎が、翌五〇年には完成し、授業開始の運びとなった。
 早期教育の拡充、重度・重複障害児教育等に着目し、教育環境の整備、教育内容・方法の改善等一層の努力を傾注しながら現在に及んでいる。