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愛媛県史 学問・宗教(昭和60年3月31日発行)

概説

 『愛媛県史』部門史のうち、本巻は『学問・宗教』として編集した。さきに、資料編を刊行したが本巻には、第一編学問の部として、国学・漢学漢詩文・心学・洋学・和算に方言を加え、第二編宗教の部として、神道・仏教・修験道・キリスト教の十部門に分かち、愛媛の人、愛媛に貢献した人々の業績を、愛媛の風土につちかわれた特色を、歴史的にあるいは地域的に概説したものである。資料編においては、時代順に各部門を並記したが、本巻では部門別に述べよう。

   第一編 学  問

 国学

 国学の基礎は、伏見稲荷の神官荷田春満によるとされているが、同社の大山為起は、貞享四年(一六八七)松山藩主松平定直に招かれ、味酒社の神官として、神道・古典を講説すること二四年、『味酒講記』は『日本書紀』全巻の注釈書であり、門人千余人に達したという。幕末には、平田篤胤の娘婿として、新谷藩の平田銕胤は篤胤の学風を継承、明治維新後大学大博士に任ぜられた。伊予においては、矢野玄道は篤胤没後の門人、厖大な著述を残し、明治新政府にも貢献した。常磐井厳戈も大洲の人、平田塾に入門、神儒仏蘭学とその学問は広汎深遠で、その門から三瀬諸淵らを輩出した。また国学は勤王思想を醸成し、各地に勤王家が続出した。

 漢学・漢詩文

 伊予八藩の基盤が確立し、江戸幕府の文教政策に則り、各藩は積極的に推進、儒学は活況を呈し、漢詩文創作の意欲も高まり、優れた著書や漢詩文集が多く出た。
 陽明学は、中江藤樹を始祖とし、その学風は大洲・新谷両藩に継承され、川田雄琴が招聘されるに及んで、大洲・新谷教学の基礎となった。堀川学派(伊藤仁斎)は、松山・宇和島両藩に伝えられ、丹波南陵ら徳行を重視した。蘐園学派(荻生徂徠)は、文芸至上主義を唱え、伊予全域に浸透した。とくに西条藩に山井崑崙、松山藩に僧明月・宇佐美淡斎らが活躍した。
 朱子学派。南学は、土佐の大高坂芝山が松山藩に招かれ、中国・朝鮮の学者・詩人達と風交を重ねるにとどまった。崎門学派(山崎闇斎)の三派、浅見絅斎派に松山藩の大月履斎、三宅尚斎派に同藩の宮原龍山、佐藤直方派に同じく三上是庵らあり、伊予全域に浸透した。なお、是庵は明治維新後、松山藩存亡の危機に敏腕を発揮した。
 寛政異学禁令布達後、伊予八藩の藩学は、漸次昌平傍派の朱子学に転じ、他の学派は衰微していった。幕府は朱子学を文教政策の中枢としたが、その原動力は川之江出身の尾藤二洲、昌平黌教授であった。二洲は、柴野栗山・古賀精里と寛政の三博士といわれ、『素餐録』など、その著書も多い。二洲門の三傑として、文章は長野豊山(川之江)、徳行は近藤篤山(小松)、経学は越智高洲といわれている。豊山は二洲の経学理論を継承し、篤山の委嘱によって、播磨の人高洲は伊予の人を教化した。篤山は二洲の朱子学を遵守して「居敬」と「窮理」を説き、実践を重んじて「徳行天下第一」と称され、その門に学ぶもの、身分・階級を超え、伊予全域に及んだ。
 伊予における漢学・漢詩文の隆盛は、各藩主自ら学問を愛好、奨励したからである。しかも、漢詩文を楽しみ、優れた詩文集を残している人が多い。従って、優秀な人材を昌平黌に派遣し、帰藩後は、設置した藩校の教授として、また藩政の枢機に参画させるなど、人材登用の道を誤らなかったからである。昌平黌学派は、各藩の藩校に採用され、俊秀を養成輩出、幕末・明治維新後の高度の文化を形成した。近代愛媛の、日本の開化は、各地の、多数のこれら文化の担い手によって拓かれたといえるであろう。

心学

石田梅岩創始の心学は、松山藩の田中一如によって、初めて伊予に伝えられた。一如は、江戸の中沢道二・大島有隣らに師事し、全国心学講師認定書「三舎印鑑」を受け帰郷、松山に「六行舎」をおこし、中予・東予から、京阪・江戸、大名家江戸藩邸などで道話をなし、「盲目の都講」などといわれ、その人格・学殖を称された。六行舎門の逸材に、松山の近藤平格、今治の丹下光亮がいる。
 平格は、大島有隣門下四天王の随一と称された。朱子学を中核に、儒・仏・神の三道を折衷し、「我なし」の境地を体得し、独自の心学体系を樹立した。六行舎を継承し、伊予全域・広島・京阪・江戸など各地で道話し、全国心学界の重鎮となった。光亮も江戸に遊学帰郷後、大島名村に「新民舎」をおこし、東予・中予を巡行、平格没後、第一人者として民衆教化にっとめたが、明治五年学制公布にともない、講舎を廃止、心学は衰退した。

洋学

蘭学として和蘭医学を研究する医師によって、まず受容され、推進されたが、シーボルトはじめ約一五〇名、平戸・出島に来訪した蘭館医に負うところが大である。安永三年(一七七四)刊『解体新書』は、蘭学及び医学研究に画期的な影響を与えた。蘭学の進歩は、医学のみにとどまらず、天文学・暦学・博物学・物理学・化学・地学・兵学・測量術・航海術・築城術など、科学各分野の発展を促した。
 伊予の人で、本格的に蘭学研究に志した最初は、松山藩医安東其馨であろう。杉田玄白に師事し、その『解体約図』二七七三年刊)『和蘭医事問答』(一七九五年刊)の編さんに協力している。文化年間、大洲の鎌田玄台は、紀州の華岡青洲の塾に学び帰郷、大洲に開業、西日本随一の外科医の名声を博し、来り学ぶ者関西一円に及んだ。文政年間には、松山の青地林宗が『気海観瀾』その他多数の翻訳書を刊行、理学研究に新境地を拓き、医学の進歩にも貢献した。天保九年二八三八)緒方洪庵の「適塾」が開設され、大洲藩の武田斐三郎ら二〇余名が入塾した。その他、京阪・江戸の塾に学ぶ者は、伊予全域から多数に上った。二宮敬作を中心とする南予蘭学は、来訪した高野長英・大村益次郎らにより興隆した。安政年間、国際情勢進展し、蘭語一辺倒から、西洋の学術「洋学」に一変した。

和算

本県に現存する算額は三〇面、全国での順位は一八位である。現存算額数の多い県は、福島・埼玉・岩手・群馬・宮城・長野の諸県で、主として東北・関東に集中しているが、本県は関西地区では最も多く第一位である。算額は、和算図とその計算術、近世日本でとくに発達した高等数学で、貴重な文化史料といえよう。

方言

愛媛の方言は、伊予の人々が日常語りあってきた生きたことばであり、愛媛の現在もなお、日々用いているイヨコトバ、またはイヨベンである。しかも、上記のカタカナの右側に傍線を施したところは、アクセントの強いところである。さらに、県全体、東・中・南予それぞれの地域的な特性もある。愛媛の方言についての概論ではなく、毎日人間生活を営む中での生きたことばを、実際に語られるままに、待遇関係などの応答もそのままに、生きたことばをどのように表記すればよいか、それを示されたのが本稿である。

    第二編 宗  教

神道

神道の成立は、古代の祭祀遺跡のなかにその萌芽がみられ、県下では、伊予郡松前町出作・松山市宮前川遺跡など、原始神道遺跡が発見され、全国的に注目を浴びている。その後、律令制度下で神道信仰の形が整えられ、「延喜式神名帳」には二四社を載録、その他六国史には古社一〇社がある。
 中世。河野家など武士団に崇敬され、各地に勧請された三島神や八幡神の縁起伝承とともに、大山祇神社の年中行事のような諸祭式が整えられ、また中世後期の惣村結合のなかで生まれた頭屋制などの祭祀習俗は、今日なお地域の祭りを規制している。
 近世。各神社では専任の神職が祭祀を行い、多くは神祇官吉田家の配下に、一部は白川伯家に属した。また、大山祇神社など吉田家と対立する神社もあった。藩主の庇護を得て、伊佐爾波神社(松山市)、八幡神社(大洲市)、和霊神社(宇和島市)など、壮大な社殿も建築された。
 神道本来の意義も重視され、松山藩主松平定直は、京都より大山為起を招聘し、垂加神道や『日本書紀』を講説させ、中・東予の神職達にも大きな影響を与えた。その門流の小倉正信は、大坂の留守友信や備後の高田未白にも師事し、『伊予二十四社考』などの著作を残した。大洲藩では、中期以降、八幡神社神主兵頭守敬・守貫(のち常磐井と改姓)父子ら、私塾古学堂において、神道伝授がなされ、県下における中心となり継承された。
 幕末・明治初期、矢野玄道をはじめ常磐井厳戈・木野戸勝隆・菅長好・三輪田元綱らの神道家を輩出し、明治政府の神祇行政にも影響を与えた。また、神仏分離令によって、石鉄権現が分離し、阿沼美神社(松山市)には神道中教院が設置され、大教宣布運動が展開された。神道各教派として黒住教が松山に伝播、各地に定着したし、常磐井精戈は大八洲教会を設置、布教を意図した。天理教も流布し、地元からはPL教団が新宗教として伸びている。明治末年から大正初期にかけて、神社合祀が積極的にすすめられ、県下の七割の神社を統廃合し、現在では一二OO余社の神社が宗教法人として登録され、地域社会の守護神、氏神となっている。

仏教

伊予における仏教は、瀬戸内海が大陸文化東漸の経路なので、畿内以外では比較的早く普及した。中央寺院への寄進、豪族の寺建立、中央の説話集に伝承される越智益躬や多くの伊予の僧俗の取材、古代に創建されたと伝える寺院も伊予に多いことなど、隣国讃岐出身の空海の影響と、風早郡出身の別当大師光定による天台宗の布教とによるものであろう。
 中世。中央寺院の荘園や鎌倉幕府との関係を通じて、中央との関係も比較的密接であった。平安朝末期以来の浄土教の流れは、念仏僧の回国によって直接庶民に伝えられ、やや下って、浄土宗鎮西派の聖光、同西山派の聖達、さらに一遍によって浸透していった。また、主として真言念仏、後には時衆系念仏による高野聖と熊野修験など、庶民仏教の普及をすすめ、四国霊場信仰に繋がっていった。四国霊場信仰は、古代以来の各種信仰を背景にした霊地信仰で、高野聖の活動から弘法大師信仰で統一されるようになっていった。
 一遍は、六字の名号や踊り念仏で庶民を救済し、時宗の開祖となった。同時代、同族の凝然は、東大寺戒壇院の院主、律学の復興に貢献し、八宗兼学、古今を絶する大学僧で、鎌倉旧仏教の担い手であって、一遍の普及活動と対照的であった。鎌倉新仏教のうち、伊予路に早く根づいたのは臨済宗東福寺派、やや遅れて曹洞宗総持寺派であり、浄土真宗と日蓮宗の布教は中世末期からである。なお、中世の寺院は、河野家や戦国領主の外護により建立されたものが多かった。
 四国八十八か所の成立は室町時代であり、中世末期までの遍路は、ほとんど僧侶であった。江戸時代に入って俗遍路が増して主流となり、中期には最盛期を迎え、以後今日まで継続、バス利用にまで発展している。
 近世。伊予八藩においては、各菩提寺を中心に宗教統制が行われたが、臨済宗妙心寺派をはじめ、各流派が普及し、藩主の推進により、大洲藩と松山藩の領内には、黄葉派寺院が創設された。時宗の遊行上人による念仏賦算も行われ、庶民の浄土信仰を深めはしたが、組織化されるまでにはいたらなかった。幕府は、キリスト教弾圧のため、宗門改と寺請制をすすめ、その結果は寺檀制度にまで発展、庶民は集合菩提寺をもち、心の拠り処を得るようになった。しかし、固定化は仏教の退廃を生み、末期には仏教への批判が続出した。
 近代。神仏習合を助長し、仏教の退廃をもたらした幕府の宗教統制に代わって、明治新政府は神道を中心とし、神仏分離政策をとったため、廃仏毀釈となってしまった。しかし、政教分離と信教の自由という近代的原理に矛盾を感じ、政府は仏教界の覚醒の中から生まれた批判にも応えて政策を転換し、明治憲法によって信教の自由を保証し、ここに新しい仏教運動が展開されるようになった。

修験道

近世期の地域社会における庶民の宗教生活は、生産を中心とする生活の守護、葬儀を中心とする祖先祭祀、治病など現世利益の充足の三つを大きな柱とし、生産守護は氏神、祖先祭祀は檀那寺、現世利益面は修験者が担当することが多かった。
 近世以降、修験者は里修験として村に定住することを義務づけられたが、村里で地域社会とどのようにかかわって来たか、その活動の実態や機能を知ることは、民衆生活を理解するためには重要なことである。
 本県の場合、里修験の足跡は各地で顕著に認められることであるが、史料および実態調査、ともに十分になされず、未開拓のまま、これを現時点での実態とし、一般的叙述にとどめる。なお、石鎚修験道については資料編を参照されたい。

キリスト教

 キリスト教のわが国への到来は、天文一八年(一五四九)フランシスコ・ザビエルによってであった。
 本県においては、キリシタン時代、ビレラ神父が来ているが年次不明、ついで永禄九年(一五六六)フロイス神父の堀江(松山市)到着、カトリック時代、明治一八年(一八八五)パリ外国宣教会の深堀達右ヱ門神父の松山来訪が最初であった。プロテスタントは、カトリックよりは早く、明治九年(一八七六)組合教会のアッキンソンの三津(松山市)到着によって、愛媛とキリスト教との関係が始まっている。
 さて、本章執筆後キリスト教の受容と定着について気づいた点が報告されているので掲げておく。
 (1) カトリックは偶然に愛媛に来り、プロテスタントは招聘に応える形で意図的に伝播されたといえる。
 (2)カトリックは、その信仰と教会組織上から、全国を会派と教会に分割、分担せしめて整然と伝達しているが、プロテスタントは、愛媛でも二〇以上の教派と一〇七の教会とが、各々の信仰に随って、いうなれば、思い思いに伝道していること。(勿論勝手気儘ではなく、連合と協力の体制をとっているが、これは統轄ではない。)このことは、新・旧両教の信条と教会組織に対する考え方の違いを、そのままに現しているといってよい。
 (3)プロテスタントの場合、県都松山への伝播は、三大教派といわれた日本美以教会、日本組合教会、日本基督教会ともに最初ではなく、それぞれ宇和島、今治、大洲へ定着し、それから松山へ伝って来ている。これもその都市の性格的なものに関係しているようである。
 なお、資料編には、伊勢時雄・押川方義・村井知至・三並良・西村清雄・矢内原忠雄ら一二名の著作類からの採録もあり、伝統の漢学・神道・仏教などに対して、新宗教として、県民のめざましい活躍ぶりが示されている。
 以上のように、伊予の、愛媛の文化の諸相を部門別に掲げたが、各分野独自の特性と混交しあっての重層性のうちに、近代愛媛文化の全容が形成されてきたし、また将来への志向も示唆されてきているであろう。
                              
                              文化部会長 和 田 茂 樹