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愛媛県史 学問・宗教(昭和60年3月31日発行)

一 伊予の祭祀遺跡

 神道の発生および成立の時期は非常に古く、数少ない文献のほかは、遺跡や遺物といった考古学の資料に依存しなければ充分に解明することができない。この神社神道成立以前の神道考古学の時代区分については、大場磐雄によると神道前期と原始神道期に大別し、後者をさらに神道発生期(弥生時代)と神道成立期(原始祭祀期=古墳時代前半と葬祭分離期=古墳時代後半に二分される)という二期に分け、この後
に歴史神道期が続くという。

 神道前期の遺跡

 県下におけるこの時期の関連遺跡とみられるのが、上浮穴郡美川村の上黒岩岩陰遺跡である。久万川右岸の石灰岩の岩壁西側に立地し、昭和三七年以来の数次にわたる発掘調査によって、最下層の第九層(約一万二千年前)より女性の姿を刻した八個の線刻礫が発掘された。扁平な緑泥変岩の小石に頭髪・乳房・腰みのと思われる線刻が施してあり、おそらくぱ、当時の人々が豊穣を祈って作ったものとみられている。
 また、縄文時代後期という北宇和郡広見町岩谷の岩谷遺跡も、豊漁を祈念した祭祀を伴った遺跡ではないかとみられている。広見川左岸の河岸段丘上に立地し、環状列石や組石などの配石遺構が検出されている。四万十川支流の広見川は、勾配のきわめて緩やかな河川で、淡水魚のみならずナガエバなどの海水魚も棲息しており、これらを含めた総合的見地から岩谷遺跡も祭祀に関連したものではないかとみられている。しかし、いずれにしてもこれらの遺跡を一概に神道遺跡であるということはできないであろう。

 原始神道期の遺跡

 水稲栽培をはじめとする農耕の発達に伴い、これと結びついた祭祀が国家の統一によってしだいに儀礼化し、民族宗教として固定化しはじめる時期で、未だ完全に「神道」とは称しえないものの、実質的な神道形成期であるという。そして、原始神道期の県下の代表的な祭祀遺跡として、宮前川遺跡(松山市)・大木遺跡(魚島村)・神ヶ市遺跡(同)・流田遺跡(今治市)・出作遺跡(松前町)などがある(表1参照)。
 宮前川遺跡は、松山市街より市西部・北部を貫流する宮前川の河川改修工事に伴って、同市別府町から津田にかけた地区で昭和五八年から五九年にかけて緊急発掘がなされたもので、弥生時代末期から古墳時代初期のものとみられている。出土品のなかには、県下では初めてという水鳥・馬形土製品、甑型土器や鼓形土器などのいわゆる山陰型土器が多く含まれている。発掘に当たった愛媛県埋蔵文化財調査センターでは、同地区をA~Cの三区に分けて発掘したが、うちC地区の地下一・三mのところで約三〇mにわたって細長い列状の土師器群遺構が現れた。その中には、鳥取市の秋里遺跡など山陰地方で数例発見されている水鳥形の水差し様土器が出土するなど、祭祀関連遺物が数多く含まれているところから祭祀遺跡と考えられている。
しかし、明確に祭祀遺跡と断定しうる最初のものは、越智郡魚島村魚島の大木遺跡である。遺構については不明であるが、製塩土器や有孔円板や滑石製勾玉・臼玉などとともに鉄器製造の材料となる鉄ていも見つかっている。岡本健児は、祭祀遺物がかたまって埋蔵されていたり、出土地が厳島神社跡地と伝えられていることなどからして、製塩を行っていた古代漁村の祭祀遺跡であろうと推論している。
 また、原始神道期の本格的な祭祀遺跡と目されるのが伊予郡松前町出作の出作遺跡である。古墳時代中期中葉から後葉にかけたころのものと推定され、出土遺物には、供献用土器のほか滑石製勾玉・臼玉・双孔円板・鍬や鋤の鉄製模造品を含んでいる。平野中の微高地に立地しており、近傍には、式内社の高忍日売神社や伊予神社・伊曽能神社がある。

原始神道期の主要祭祀遺跡一覧

原始神道期の主要祭祀遺跡一覧


県下の特殊な祭祀遺跡一覧

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