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愛媛県史 学問・宗教(昭和60年3月31日発行)

二 神社縁起の世界

神道の世界観

 前記の各祭祀遺跡は、そこで祭りに際して神を祀り、供物を献じて歓待し、人々の祈ぎごとを伝達するための施設であった。そこで問題となるのが神道の世界観であり、人間界への出現の方法である。
 日本神話の主流をなす世界観として、高天原・中津国・黄泉という、天地の間に現世を置いた垂直的・三元的な見方が行われており、北方アジアのシャーマニズム文化に連なる局面を持つという。これに対して、現実世界と神や祖霊のいます世界(常世)を想定した、水平的・二元的な解釈が併存してきた。それらは、山中他界・海上他界といった日本人の祖霊観とも関連しながら神の世界が想定され、故あって来臨するものと信じてきたのである。したがって、そこでは具体的な社殿の存在を必要とはしなかった。
 このような古代の祭祀習俗は、神の神社常在意識とも関わりあいながら社殿の発生以後も様々な形で伝承されている。いろいろな神事に神籬や幣束を立てることなどは、現在でもしばしば目にすることができる。また、神社の奉斎形式にも、本殿を設けていない場合がある。三輪山を神体とする奈良県の大神神社が知られているが、愛媛県下にも類似の事例がみられる。越智郡大西町宮脇の諏訪神社は、拝殿後方の二間×三間の区画された浄地の中央に神木の榊が植えられ、左右に御幣を立てているのみである。同町別府の大山八幡神社境内の諏訪神社も社殿がなく、一間半四方の玉垣の中の石柱にそえて三本の御幣を立てている。このような社殿の設え方に関する記録は、天明八年(一七八八)の社寺明細帳(例えば別府の諏訪神社については、本社土間四面の石居垣、拝殿二間五尺に二間半ーとある)までしか遡りえないのであるが、長野県諏訪大社やその周辺地域の御柱の習俗と関連づけ
て興味深いものがある。

伊予の神社縁起

 古い神社では、それぞれに縁起を持ち伝えたり、神霊出現に関する不思議の伝承を伴ってきた。県下に残る神社縁起の多くは、近世前期から中期にかたちを整えて成文化したのちに録したもので、自社の神徳のよって来たるゆえんを誇張しながら記したものがほとんどである。あるいは、口碑の類が近世の地誌に収録された程度のものもある。しかし、そこには古来の神道の世界観や神観念に貫かれるところも多い。したがって、縁起書そのものの成立は新しいが、神霊出現伝承などとも関連させ、古代の神祇信仰の中で概述しておきたい。
 さて、伊予の神社縁起として現存最古と思われるのが、新居浜市一宮神社の『一宮社記』である。「永正一三年(一五一六)三月日 矢野信濃守藤原家俊」の跋を持つ本文に、天正一三年(一五八五)から元禄一六年(一七〇三)までの事績を追補したものとみられ、全編同筆であるところから元禄末年の筆写と考えられる。したがって、前半部が最も古い社伝となるのであるが、その内容は、神社の祭神や摂末社、伊予八幡宮のことに関する記事と、「一宮勅額之事」「一宮経営之事」「祭礼年中行事之事」「神主并神人等之事」「一宮神主勤新居郡諸社家惣師職事」の記事から成る。とくに、同社社家である矢野氏の祖とされる越智玉守に関する記述は、中世説話集の『神道集』の記事と関連づけられて注目されている。同書に載る「三島大明神之事」の条は、本地垂迹説に基づきながら三島の神の霊異を説いたものであるが、『一宮社記』はこれの成立と深くかかわっているとの見方もある。すなわち、松本隆信などは「三島の本地物語は、伊予国大三島の三島大明神と、新居郡の一宮大明神とを、主たる対象としてこの地方の修験道と関係の深い人々の間で語られ出した縁起譚」であると推測しているのである。
 また、これとは別に『伊予国新居郡一宮伝記』や『当社之社伝』もあり、それぞれに古代より近世に至る諸伝などを記している。前者は、「伊予二名州之伝・鎮座伝・鎮座時代之伝・当社造営之伝・神宝之伝・当社神異伝」その他と「当社年中大小祭祀並供進物之部」から構成され、享保一四年(一七二九)ころに矢野家堯によって原形がつくられたとされる。後者は、「一宮鎮座伝・一宮社内伊予八幡宮鎮座伝・予州新居郡之一宮大明神縁起」その他から成るもので、明和三年(一七六六)やはり矢野家堯が上京に際し、その師松岡雄淵(第三節、神道思想の項参照)に供覧するために取りまとめたものの控文である。ともあれ、これら一宮神社の縁起類は、伊予の神社縁起中の一典型を示しているものと思われる。
 ところで、一宮神社縁起は伊予の豪族であった越智氏との関連で語られたものであるが、県下の神社縁起のいま一つの基本的なモチーフとして、神功皇后のいわゆる三韓征伐伝承など、大和朝廷の朝鮮半島出兵の話と関連づけた形式がみられる。応神天皇誕生譚と結びつけられる八幡宮を中心としながら、とくに瀬戸内海、さらには宇和海に面した地域の古社に分布している様相が窺えるようである。例えば、
 ○伊佐爾波神社(松山市)……「伊佐爾波神社之伝」(伊予史談会蔵玉乃井文書所収、成立年未詳・近世後期か)
 ○玉生八幡神社(松前町)……「八社略談」(大山為起『伊予温故談』所収、近世中期)
 ○二神島八幡宮(中島町)……「二神島八幡宮伝記」(寛延四年中秋、室岡山快・(上が「昭」下が「火」)著、二神家蔵・伊予史談会文庫写本)
 ○村山神社(土居町)……仮称「村山神社縁起」(慶安三年成立、神主合田長門守源保行著、資料五三七~四四頁)
などなど、県下各地の神社縁起の中にも少なからず語られているのであった。このうち、「村山神社縁起」では、次のようである。
 欽明天皇の御代に大伴挾手彦が軍を率いて朝鮮半島へ向かう途中、村山神社北方の海で暴風雨に遭って船が転覆せんとしたときに天神地祇を祈ったところ、南の山に光り物がし、これに導かれて宇摩の大津に着船した。そこへ神童が現れ、自身を祀れば必ず望みが成就すると霊夢を授けたので、翌日この神に奉幣をなした。これによって出船し、朝鮮半島を平定して帰朝したとき、先に霊験のあった神を祭祀しようとして聖地を探し、伊和背神社と真星宮を祀った。のち、斎明天皇が新羅を討った帰りにここを行宮とし、永津宮と称した云々、と話が展開するのである。

神霊の出現方法

 さて、各地の神社縁起にあらわれた神霊の出現伝承ー神霊(カミ)の出現を不思議の現象として宮居を建て、奉斎したのがその始まりであるという創祀伝説ーは、その成立時期に差異はみられるものの、そのモチーフから次の四形式に分けて捉えることができるであろう。
 (1) 漂着神型……波のまにまに海上遥かより寄り来ったり、海中より出現したと伝えられるもの。
 (2) 神霊降下型……神幣が降り来ったとか山上や木の上に光りものがしたなど、神霊が天上より降臨したと伝えられるもの。
 (3) 土中出現型……何かの拍子に土中より神体を掘り出したと伝えられるもの。
 (4) 流れ宮型……川の流れとともに上流より流れ来ったと伝えられるもの。
 このうち(1)は海岸地域に伝承されている形式で、一般に「寄り神」と称されているものがこれに当てられる。そして、漂着神の伝承はまた、浪風によって海岸にうち上げられたり、海中より網にかかり或いはまた海人の手によって拾い上げられた神像や石に人々が神霊の出現を感じ祀り上げたと伝える形式と、カミや貴人がどこからともなく自分たちの村に漂着されたものを祀り上げたとする二つの形が見られる。前者を「憑依物体型」、後者を 「貴種流離譚型」と称しているが、愛媛県ではともに神霊出現伝承の中心的なモチーフとなっている。
 例えば、宝暦一〇年(一七六〇)に編まれた宇和島藩の神社明細帳である『宇和郡神名記』(愛媛県立図書館蔵写本)の巻末には、主な神社の略縁起を収載しているが、二、三を拾ってみると次のようなものである。
 ※宇和郡矢野郷八幡浜 岩清水八幡宮(八幡浜市矢野町 八幡神社)
   往古豊前国宇佐ノ海上ヨリ流レ来リ、当浦松ケ鼻ニ止リ給ヒシヲ、海中集リ巻上、出現仕リ給ヒシヲ、里人尊敬仕リ、御鎮座ト申伝へ候。
 ※宇和郡板島郷 藤住吉大神宮(宇和島市藤江 多賀神社)
   当社ノ儀ハ神功皇后三韓征伐ノ時、当国ノ海辺ニテ明神ニ祈リ給フ其時御勧請コレ有ル御社ニ御座候。藤住吉ト申儀ハ神功皇后、海中ニテ藤ノ枝ヲ流シ給フ、其流レ寄ル所ニ社地定メ給フヨリ藤住吉ト申由ニ御座候。
 一般にこうした伝承を有する神社では、その祭祀に際して多くの場合、神輿の「浜降り」などの神事が伴うということはよく知られており、千葉県の九十九里浜沿岸などはその典型である。つまり、この漂着神の伝承とそれに関わる神事は、古代人が遥か海の彼方に神の国、祖霊の世界を想い、時あって神々が自分たちの世界に来臨すると信じて毎年海浜に神を迎えて祭祀を行ってきたことを偲ばせる名残りであろうと考えられている。
 次に(2)はこれといった地形的特色を示さない伝承であるが、(1)とならぶ神霊出現の代表的形式である。飛び神明、飛び天神などと称されるもので、伊勢の神幣が天空より降り来ったとか、高い木の頂に天神の神霊がとどまったものを奉斎したなどという伝承を有している。しかし、この形式は一つが独立して語られるよりもむしろ(1)や(4)などの形式と重複含有されて語られる場合も多い。
 また(3)は、近世の流行神の創祀伝承として最も一般的な形式で、江戸などの都市部に多く伝えられる。しかし、本県では寺院の開基縁起として語られ、神社におけるものは殆どない。
 (4)は河川の流域に位置する神社について伝承されているもので、(1)などに比べればその事例数も少ない。県下では重信川流域に最も多くみられる。そして、(1)が水平的な来臨であるのに対し(2)(3)は垂直的な形式であると理解されるが、(4)はさらにこれらの習合形式として捉えられる要素を具有しているのである。すなわち、神霊は川の流れという水平的かつ垂直的な移動によって村里に出現をみる。例えば、『予陽旧跡俗談』は、伊予郡松前町西高柳の稲荷神社について「流宮五社大明神、高柳村に祭する所也。稲荷の末社神体は孤也と言り。いつの頃にや洪水出て此宮下に流るを、正保四年本所に勧請してより流れ宮と号す。」と記している。
 さて、如上の様々な神社縁起には、総じて共通するモチーフが窺える。すなわち、神霊出現方法は多岐であるが、異常な形で現れたカミは、示現するや再び村里より離れてしまうことはなく、以来ずっと村里にとどまって祀られるわげであり、神社常在意識と関連するものとみられる。ちなみに、越智郡魚島村などでは、神社参拝にあたって拝殿の扉をゆすり、大きな音を出して神霊の出現を促してから参る古俗が残っている。