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愛媛県史 学問・宗教(昭和60年3月31日発行)

三 伊予の古社

延喜式内社

 醍醐天皇の命により延喜元年(九〇五)に編集を始めて延長五年(九二七)に完成した「延喜式」五〇巻のうち、巻一~一〇が神祇式で、これに四時祭式や臨時祭式・祝詞式など神祇行政の細則が記されている。この中の巻九および一〇が神名帳となっており、全国で三一三二座(二八六一所)の神々が収載されている。この神々を祭る神社が延喜式内社(単に式内社ともいう)である。式内社に対しては、神祇官もしくは国衙より春の祈年祭(稲の豊作祈願祭)に当たって幣帛が奉られる。が、いずれによるかで官幣社と国幣社に分けられ、さらに大社と小社に区分されるという、古代国家における社格制度であった。
 伊予国の式内社は都合二四座であったが、いずれも一座一社の国幣社である。大社七社、小社一七社の内訳で、表3に示したように東・中予に偏在して分布する特徴がみられ、律令国家の政治的構造をよく反映している。なお、大社と小社の相違点は、奉る幣帛を神前の案上に置くか案下に置くかにあった。また神名帳では、村山神社以下の大社七社が名神祭の班幣に預かるようになっているが、「延喜式」名神祭条にも見えるものは、村山・大山積・野間・阿沼美の四神のみとなっている。その他、大山積神は、後一条天皇が即位した翌年の寛仁元年(一〇一七)、これに際して行われた一代一度の大奉幣においても奉られている。
 さて、かつての式内社を現在のどの神社に比定するかについては、個々の神社の盛衰もあって、一覧表にも示したように特定されうるものといくつかの論社をもつものがみられる。式内社に関する論争は、県下では江戸時代中期以降に伊予神社や阿沼美神社・周敷神社などでしばしば生じたようであり、今もって充分な結論を出すまてには至っていない。なかでも「桑村郡周敷神社」については、西条藩主松平頼純の就封した寛文一〇年(一六七〇)以降、元禄八年、宝永二年など何度となくこれの調査が行われている。そして、享保五年、天明元年と数社の論社が自社を主張して争った経緯もある。とくに宝永二年の西条藩郡奉行中より松山藩郡奉行中への問い合わせからいろいろと論議を呼ぶが、結局は、京都の国学者壷井義知が享保四年(一七一九)に神名帳の記載と異郡に鎮座する式内社の全国的事例を網羅した調査書である『周敷神社鎮座違郡考』を著したのを決め手として一応の決着をみ、周敷郡周敷村の周敷神社が藩主崇敬社に加えられて高二石の黒印状を受げている。この故をもって周敷神社では、のちに壷井義知の霊を祭った壷井霊社を建立して祭祀したほどであった。
 ところで、伊予国の式内社について論説を加えた文献は、他にもいくつかある。早くは、大山為起の著した『延喜神名式比保古』やその影響をうけた小倉正信による『伊予二十四社考』『伊佐爾波伝』、度会延経の『神名帳考証』や伴信友の『神名帳考証』などが、明治に入ると半井梧奄の『愛媛面影』や平田門の松岡調による『伊予国式内神社考証』、田内逸俊『阿沼美神社所在考』などが編まれ、式内社の特定化とこれに対する様々な考察が加えられるのであった。

 国史見在社

 「延喜式神名帳」に記載漏れとなった古社およびその後にできた神社を、式内社に対して式外社と称する。このうち、『日本書紀』以下『三代実録』までの六国史に、祈請・奉幣・授位などのことに関連して神名の記される神社を「国史見在社」とか 「国史現在社」といい、古来より式内社に準ずる由緒ある社として認識されてきた。京都府の石清水八幡宮などをはじめとして、その数は全国六一か国で三九一か所に達し、伊予国でも『三代実録』に記された一〇社が存在する。
 しかし、国史見在社にっいては、神階昇進に伴う国名および神名のみの記述で郡名の記載を欠くことから式内社以上に特定されていないものが多く、明治初年の社格制定などに関連して多くの論社が取り上げられてきた。そこで、これを取り敢えず整理して示したものが表4である。このような、伊予国の国史見在社の比定を本格的に行ったのは、江戸時代末期の半井梧奄であった。その著作『愛媛面影』によると。
 伊方神ー伊方神社、伯方島の伊方村に立せり。祭る所は

 天目―箇神なりと言り。
高縄神―高縄神社、宮内村に在り。祭る所は三島明神なりと言。
浮島神―黒島神社、延喜式に新居郡黒島神社とあり。按、式内別に浮島神みえねば、黒島の一名なるべし。
風伯神―風伯神社、西条城下朔日市村に在り。風神を祭る。
井河神―井河神社、瓜尻村に立せり。俗に井河明神と言。祭る所は何神なる事をしらず。
門島神―津島神社、津島の山上に立せり。俗に津島大明神と名く。祭る所は瀬織津姫なりと言。
その他―猶、徳威神の所在詳ならず、宇和津彦神は必ず宇和郡に在るべきなり。其外国史に見て詳ならぬ神の御名を左に付録す。墓辺神、雄群神。

などと記しているのである。なお、墓辺神については、綾延神社文書の中に「田野郷内墓辺社井八幡宮社領等事、言彼言是任先例不可相違、仍為後証之状如件」という、応永二五年(一四一八)の河野通久安堵状がみられる。しかし、いずれにしても、それぞれが具体的な比定材料に欠けることは否めないのが実情である。

 神社と経塚

 神仏習合の一つの表れとして、神社境内やその周辺に経塚が築かれることがあった。出土品が国宝指定をうけた玉川町の奈良原山経塚をはじめとして、土居町村山神社の御宝塚、松前町の伊予神社経塚、宇和町の三島神社経塚など、平安後期より鎌倉初期にかけた事例がみられる。
 奈良原山経塚は、昭和九年の雨乞い時に奈良原神社境内で発掘されたもので、銅製宝塔や経筒、銅鏡などの出土をみた。いずれも一二世紀平安末期のものとされている。この経塚の場所を不入の森などと称して禁足地とし、みだりに立ち入ることを禁じてきた神社もあり、古来、神聖視してきたのであった。「村山神社縁起」は、同社の御宝塚について「宝ツカト言ハ神前池有、池ノ中ニ五間四方ニ石ヲ積、又上ニ一ダン高ク上リ名所有、西ヨリ此ツカニ渡ルニ安シ、然リト雖モ子供ニ至ル迄恐テ足ヲカケル者ナシ」と記している。
 なお、県下の平安時代経塚に、表5のようなものが確認されている。

 一宮と総社

 村落の開発にともなって各国々において相当数の神社が祭祀されていったが、そのなかで国ごとの代表的位置にある神社を「一宮」と呼んだ。いつごろ、どのような理由で定められたものかは明らかでないが、ともかくも諸国で特別の崇拝を受けた神社であった。古くは、『今昔物語』のなかに「今は昔、周防の国の一宮に、玉祖大明神と申す神在す」とあるのが、その初見とされている。ただそれは、朝廷や国司が特別に指定したものではなく、諸国において由緒のある、信仰の篤い神社がしだいに勢力を得ることによって神社間に序列が生じ、その首位に位置するものが一宮として推され、さらには公的にも認められるようになったものと考えられている。
 さて、伊予国一宮は大三島町の大山祇神社で、広く国中の信仰を集めた。大治二年(一一二七)に源俊頼が撰した『金葉和歌集』巻一〇にも、「守、能因を歌よみて一宮にまいらせ祈れと申しければ云々」と、伊予の国司が大旱勉に際し能因法師をして雨乞いの歌を詠んで一宮(大山祇神社)に上奏させたことを記した一節が見えている(資料編文学二五頁参照)。したがって、平安時代後期には、すでに伊予国の一宮が定まっていたことが窺えるわけであり、それは大山祇神社であったとみられるのである。少し時代は下るが、貞治三年(一三六四)の大山祇神社文書にも、「伊予国第一宮三島社」の用例が見えている。
 ちなみに『予陽盛衰記』には、「倭国に於いて一ノ宮といふは、伊予の大三島より外にはなかりき。一国に一ノ宮というは、其後聖武天皇、御宇、六十六箇国に一社づつ撰置き給ふ」とあり、平田篤胤などもこれを肯定的に受けとめているが、もとよりこの記事は疑わしい。
 一方、総社は、国々の国府近くにあって、国司が管内の諸社を個々に巡拝するかわりに代表的な神社を選定したり、新たに社殿を設げて国内の諸神を勧請し、ここに参拝して奉幣・祈請を行った神社のことである。鎌倉時代中期の「伊予国神社仏閣等免田注記」(後述)の中にも、「惣社宮」と記されて一三町八反余の最勝納経供料田が与えられている。
 しかし、中世以降の総社の衰退は著しく、諸国のそれを現在のどの神社に当てるかは一宮ほどに明確なものがなく、伊予国を含めてその所在は詳かでないところが多い。伊予国の総社は、国府のあった今治市付近と想定され、半井梧菴も『愛媛面影』のなかで「総社川(中略)此川を総社川と名つけたるよしは、古は国府に総社と言を建て国司神拝の所と定められたるを、此川辺に総社の在たるによりて総社川と名付たるなるべし」と述べている。そして梧菴は、神主高尾光賀の説として今治市五十嵐の伊加奈志神社を掲げ、一名総社明神と称したという伝承や総社川にも近いことなどから、「実に古の総社なるか」と記している。また『今治夜話』には、「鳥生橋畔に小祠有り、総社明神と号す」と、同市鳥生に比定しているが、いずれも断定されるには至らない。
 なお、一宮や総社には、一国を対象として定められたもののほかに、郡や郷を単位に設けられた場合もある。県下の三島神社の伝承のなかには、その信憑性は別として伊予国一四郡あるいは伊予国八三郷(九四郷)に一社当て一宮として勧請したと伝えるものも多い。喜多郡内子町川中の三島神社は、中世以来広域の氏子を有していたが、当社は喜多郡一宮と伝えられている。また総社については、これを地域の総鎮守という意味あいで用いたこともあった。例えば、温泉郡重信町の三奈良神社が室町時代の社号を拝志郷の鎮守神として「総社瀧宮三嶋大明神」と称したのは、その一例であろう。

伊予国の式内社一覧①

伊予国の式内社一覧①


伊予国の式内社一覧②

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伊予国の国史見在社一覧

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村山神社御宝塚(『西条誌』より)

村山神社御宝塚(『西条誌』より)


愛媛県下の平安時代経塚一覧

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