データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 学問・宗教(昭和60年3月31日発行)

五 真言宗の寺院

 平安時代の二大仏教である天台と真言の両宗についてみると、現在、伊予における天台の寺院が四九か寺であるのに対して、真言の寺は三〇〇か寺と圧倒的に多い。それは、弘法大師が隣国讃岐の出身であること、四国八十八か所霊場の成立と高野聖の回国による布教などが主なる原因であることはいうまでもない。そこで、真言の寺院であるが、前期までに開創の寺院であれば、弘法大師留錫にあたって真言に改宗ということであるが、平安時代に開創した寺院も含めて、その年代は大同二年(八〇七)と弘仁六年(八一五)に集中している。しかし、これらの年に空海が伊予を巡錫したとはみられない。空海の生涯と真言宗の成立を簡単にたどってみると、はっきりと四国にいた時期は、延暦一〇年(七九一)大学を退学して同一六年までの間に阿波・土佐・伊予などを遍歴して求聞持法を錬行した時期と、弘仁一二年(八二一)五月郷里の満農池を修復したときだけで、右の大同二年は空海が唐から帰国した翌年であり、弘仁六年は高野山を道場建立の地として賜る勅許の出た前年にあたり、ともに多忙の年であったし、帰国して四国を巡錫したとは考えられない。
 ともあれ、平安朝までに成立した真言の古寺は、大同・弘仁のころに改宗または開創したわけで、ほとんど真言寺院としての成立に前後の年代上のへだたりはない。そこで今は、前代までに創建と伝えられてこの時代に真言に改宗した寺、平安時代に真言として創建された寺、さらに四国霊場中の真言の寺にっいて、その主なものをほぼ開創の順にあげることにする。

 大和時代開創の寺

 実報寺 聖帝山、真言宗、本尊地蔵菩薩、東予市実報寺。舒明天皇一二年(六四〇)、天皇の勅願により建立、開山恵隠と伝える。恵隠は入唐僧で、舒明一一年帰朝、翌年、中央における記録の上では最初の講経にあたる無量寿経の講経をした僧である。初め法相宗であったが、空海留錫の機に真言宗になったという伝承のようで、空海ゆかりの閼伽井がある。また、貞観一〇年(八六八)、当時の住職俊盛は、堂宇・仏像を修理し、『予州聖帝山実報寺来由記』を残した。鎌倉時代は盛んで、本尊地蔵菩薩はその時代に造立されたものである。
 宝珠寺 谷上山慈悲院、本尊千手観音、もと大覚寺末、明治四三年以来新義真言宗智積院末、伊予市上吾川。白鳳二年(六七三)越智有興建立、さらに天暦七年(九五三)、大宰大貳藤原国光が瀬戸内海を上洛中暴風に遭った際、谷上山から霊光を感じて再建、平安末期には真言宗大覚寺派に属し、末寺六〇余か寺を数える大寺であったと伝える。その後承和二年(一二〇八)河野通信・通俊により再興、鎌倉時代、伊豫稲荷神社(伊豫市稲荷)の別当寺となり、社前に末寺一二坊を建立して実権を把握した。また、横峰寺の鰐口は、その銘によりもと宝珠寺のものであったことが明らかで、南朝長慶天皇の建徳二年(一三七一)とあるところから当時南朝方に心を寄せた施主の寄進によるものであったことがわかる。さかのぼって、元弘三年(一三三三)の寺領安堵、下って文明六年(一四七四)の寺領安堵、そして室町時代末期に至るまでの数多くの寄進状に、政権の移動と外護者河野の盛衰、それに戦乱の中に大寺院を維持してきたことが知られる。ついで、加藤嘉明による再建が寛永三年(一六二六)に完成、寛永一二年より大洲領になるとともに大洲・新谷両加藤家の祈願所となり、のち稲荷神社が神仏習合の両部神道を離れて唯一神道に転じたため同社の別当をやめた。また、江戸時代には中本山の寺格を保ち、末寺は一七か寺、しかもそのうちの一三か寺は小本山の寺格をもち、その末寺の総計は三三か寺を数えた。そして、明治四三年以来、新義真言宗智積院末となり今日に至っている。
 光林寺 摩尼山宝塔院、本尊不動明王、越智郡玉川町畑寺、現真言宗高野派。大宝元年(七〇一)創建、開山徳蔵、鎮護国家の文武勅願寺、のち弘法大師の留錫の際真言の道場として中興と伝える。ちなみに奈良原山はこの寺の奥の院で、奈良原権現の信仰が厚かった。下って、応永二年(一三九五)以後とみられる大般若経写本、天正元年(一五七三)の『光林寺縁起』、同六年の河野通直による住持職安堵状などがあり、特に河野通直による外護は厚く、永禄元年 (一五五八)の再建と、文亀三年(一五七二)焼失後の造営にあたっている。その後、福島正則・藤堂高吉の判形もあり、河野氏以下代々領主の祈とう寺であった。この寺の中興とあがめられる光範(~一七一〇)は、俊良といい、その出身地は越智郡大島とも今治市鳥生とも伝えられる。光範は寺の再興造営に努め、今治藩第三代藩主松平定陳を施主として大般若経を修補し(元禄一三年)、四代藩主定基の命によってお抱え画師野村常林の描いた「摩尼山の図」は、中興成った寺の様子を後世に残している。江戸時代には中本寺の寺格、末寺一六か寺を持つ大寺であった。
 医王寺 苔谷山日輪院、真言宗、本尊薬師如来、温泉郡川内町北方。大宝二年(七〇一)開創して医王山宝樹院、開山行基、開基越智玉興と伝える。神亀三年(七二六)聖武天皇により官寺(大宝坊)になり、支院六〇余(今も中之坊・成就坊など多くの地名に残っている)を有する大寺であったというが、官寺であったというのは疑わしい。のち大同二年(八〇七)空海留錫により真言宗になった。延久三年(一〇七一)源頼義堂宇再建、河野氏以後の外護を受けたとも伝える。本尊薬師を収める厨子は大永二年(一五二二)の作で重要文化財。近世にも松平家の保護を受け、中本寺の寺格を与えられていた。
 大宝寺 古照山薬王院、真言宗豊山派、松山市南江戸町。院号に示すように、古来本尊を薬師如来としてきたが実は阿弥陀如来。大宝元年、越智玉興建立という説があるが、寺の伝承では土地の角之木長者を開基とし、境内に「元祖角之木長者之墓」がある。本堂は伊予に現存する最古の仏堂で、平安時代末期の阿弥陀堂形成による鎌倉初期の建立とみられ、落ち着いた趣があり、昭和二八年国宝に指定された。また、本尊木造阿弥陀如来座像(像高一三七・九cm、寄木造り)、本堂安置の木造阿弥陀如来座像(像高六八・二cm、一木造り)および木造釈迦如来座像(像高八三・六cm、一木造り)は、いずれも藤原期初期の作とみられ、重要文化財である。ちなみに、開基角之木長者の娘るり姫の乳母の伝説で知られる天然記念物乳母桜が境内にある。
 高龍寺 亀老山慈眼院、本尊千手観音、真言宗、越智郡吉海町名。もと龍慶寺、推古四年(五九六)創建、開山恵慈とも、開山興遍(大宝四年=七〇四寂)とも伝える。あるいは後者を中興開山とみれば矛盾はないが、いずれも明らかではない。高龍寺略史によると、承暦四年(一〇八〇)村上仲宗再興して宗毫寺、さらに天正二一年醍醐寺宥印(天正一六年寂)来住して現在地に移建再興して豪龍寺、元和年中高龍寺と改称、延宝八年(一六八〇)真言宗御室派仁和寺末となって現在に至っている。能島城主村上氏の祈願所で、村上義弘の位牌を祀り、後ろの亀老山の中腹に村上義弘墓といわれる五輪塔があるが、造立はやや新しいとみられている。

 奈良時代開創の寺

 つぎに、奈良時代の開創と伝えられる真言寺院の幾つかを、ほぼ開創の年代順にあげてみよう。
 出石寺 金山、本尊千手観音は地蔵菩薩とともに山中より湧出と伝える。真言宗御室派別格本山、喜多郡長浜町豊茂。養老二年(七一八)、磯崎浦の猟師佐右衛門(のち道教法師、天平八年寂)が創建して雲峰山出石寺、のち大同二年弘法大師留錫に際し、熊野権現を勧請して守護神とし、権現堂に祀ったが、その権現堂前に今も残る「護摩が石」は、大師が護摩供を修した所といい、この時以来金山出石寺という。大師の『三教指帰』に大師が青年の頃登ったという「金厳」をこの出石寺に擬するむきもあるが、吉野の金峯山を指すとの見解のほうが有力である。中世末期藤堂高虎の信仰厚く、ついで大洲・新谷両藩の祈とう所として外護を受け、最盛時には七二の末寺を有したほどの大寺であった・中興五代快慶法印が、藤堂高虎の朝鮮出陣について聞き書きした『日本高麗暠戦ノ記』ならびに当時持ち帰った朝鮮鐘はこの寺の重宝である。
 明正寺 竜宝山観音院、本尊聖観音、真言宗単立、新居浜市黒島。神亀五年(七二八)、越智氏により開創、もと西法寺と伝える。のち延喜式内社黒島神社の別当寺。天正一三年の兵火にかかり、寛永二〇年(一六四三)、明正天皇勅願寺として再興し明正寺と改められた。さらに文化五年焼失の後、文化七年西条藩主の命により再建した。わかっているだけでも二度の火災にあったにもかかわらず本尊ほか重宝が多く残っており、平安時代の仏舎利塔と舎利器など、鎌倉時代の金銅釈迦誕生仏・弘法大師御影像など多数は、市指定文化財となっている。なお、境内には、多喜浜塩田を開いた深尾光清(信濃国の人、元禄一六年黒島に来住、享保五年没)の墓と、市指定天然記念物の明正寺桜(ねはん桜)がある。
 上福寺 北斗山釈迦院、本尊釈迦如来、真言宗豊山派、温泉郡川内町松瀬川。神亀五年越智玉澄創建、開山行基と伝え、もと法相宗。大山祇神を祭神とする大元神社の別当寺であったという。のち衰微していたのを、河野通清、さらに得能通綱が再建したという伝承があり、石手寺・太山寺などとともに「河野七本寺」の一つという伝えになっている。いずれも実証に乏しいが、今も古寺の面影をとどめる。
 蓮華寺 室岡山医王院、本尊薬師如来、真言宗豊山派、松山市谷町。天平一五年(七四三)行基開創、また、永承年間(一〇四六~一〇五二)伊予国司源頼義が河野親清をして再興せしめた四九薬師の一つと伝える。のち加藤嘉明の外護により再興(中興快深)、また、現本堂は延宝二年(一六七四)俊鏡代の建立で、室岡の森に古寺のたたずまいを示している。重宝に文安五年(一四四八)の本尊厨子、境内にこの丘の古墳より出土した石棺の底部がある。なお、近世末ごろ末寺一〇か寺余を数えた。
 浄明院 飯岡山、本尊薬師如来、もと真言宗金剛三昧院末、現新義真言宗豊山派、松山市別府町。天平年間行基による開創と伝える。大永四年(一五二四)の河野通直による制札があり、このころ河野家祈願所、元禄七年ごろ松平定直の帰依を受けて祈願所であったという。江戸時代中本山の寺格を与えられ、末寺一四か寺をもつ大寺であった。
 清楽寺 仏生山宝智院、本尊阿弥陀如来、真言宗金剛三昧院末、小松町新屋敷。聖武天皇勅願、越智玉澄が建立、開山を行基と伝える。第二世寂蓮律師は玉澄の三男元家で、行基の弟子といわれるから、寂蓮が事実上の開山であろう。もと法智院と言ったが、三世法寂律師代宝智院に改め、のち越智益男の造営により大伽藍が整い鎮守として三島大明神を勧請したと伝える(清楽寺継譜)。弘仁年中空海来錫により真言宗に改宗。のも源頼義・河野通信・同通宣などによる再建が伝えられるが(小松邑志)明らかでない。元和六年(一六二〇)の『清楽寺記録』によると、長宗我部の兵火に焼失した近隣の密厳・保安・仏生の三寺を併合して清楽寺と改称したというが、これまた明らかでないという。本堂正面木額「寿徳殿」は小松三代藩主直卿書、小松藩お抱え寺七か寺の一つとして外護を受けた。なお、この寺が四国霊場六〇番札所横峰寺の前札所であることはあまり知られていない。
 王至森寺 法性山多聞院、本尊大日如来、真言宗仁和寺末、西条市飯岡。舒明天皇が道後温泉行幸のとき燧灘で風波の難にあい、はるかに霊光を見、その光に導かれて西条の浜に上陸、光を発する森に至ったという伝承が王至森寺という名になったとの伝えである。あるいは、天平勝宝元年(七四九)行基による開創ともいい明らかでない。また、源頼義が伊予国司のとき、河野親経がこれを助けて八幡山薬師を建立、天正一三年の兵火の後現地に再建して王至森寺に改めたとも。中興第一世竜蓋(徳治元年=一三〇六寂)以来の寺歴は明らかである。
 儀光寺 真隆山仏集院、本尊十一面観音、真言宗豊山派、松山市古三津。天平勝宝年中(七四九~七五六)、儀光が十一面観音(行基作という)を負って由利島(中島町)に来て草庵に安置したのがはじまりと伝える。のち弘安年間(一二七八~一二八七)に地震による海嘯でこの島の中央部が陥没、村人はすべて離島して無人島になった。その時住民の多くは葦原を開いて苅屋村(寺の現在地)をつくり、儀光寺をここに移建した。本尊脇の仁王堂には、やはり由利島から迎えた大きな仁王尊が祀られ、伊予では珍しい偉容である。これらに続いて古い仏像として毘沙門天と聖観音があり、他に貞享ごろの作とみられる千鉢の観音、ほかにもさまざまな仏像の優品に満ち、伊予随一の仏像の宝庫である。

 四国霊場の真言宗寺院

 県下の四国霊場二六か寺中、明石寺(天台宗)以外はすべて真言宗寺院で、ほとんど古代の開創を伝えるが、そのうち主なものだげあげておこう。
 太山寺 滝雲山護持院、本尊十一面観音、もと金剛三昧院末、現新義真言宗智山派、五二番札所、松山市太山寺町。用明天皇二年(五八七)草創、開基を真野長者とする説があるが、当時蘇我馬子・聖徳太子による仏教の受容が始まったばかりで、馬子による最初の寺である飛鳥寺の造営が始まったのは翌崇峻天皇元年(五八八)であるから、この開創年代は無理である。したがって、寛政一二年の「寺譜」に見える「聖武勅願」「孝顕御宇天平勝宝ごろ荘田三千石」をとって天平ごろの創建とみておく(天平五年説、一一年説がある)。しかも、坊舎六〇坊、七堂伽藍とあるほどの大寺であったというのは、もっと下って後のことであろう。「真野長者伝記」に遺され、本堂西の真野長者堂に祀られる開基真野長者は、豊後国内山の人、瀬戸内海を航行中高浜沖で難風にあい、堂宇の建立を発願して祈ったところ事なきを得て建立し(『予陽郡郷俚諺集』は天平五年のこととする)、それから一六年目の天平勝宝元年(七四九)孝謙天皇勅願所として造営、七堂伽藍六六坊の大寺となったと伝える(同右)。中ごろ火災に焼失、康平五年(一〇六二)再建後、後冷泉天皇勅納の本尊のほか、後三条・堀河・鳥羽・崇徳・近衛の五帝の勅納をあわせて六くの十一面観音は偉観で、国の重要文化財、藤原期の彫刻と認められている。ほかに鎌倉期の造立とみられる本堂(国宝)と仁王門(重文)があり、また、本堂の裏山にある五重石塔は、天平勝宝年間に聖武天皇が国内に百万基建立中の随一と伝えられる。江戸時代には中本寺の寺格が与えられ、末寺七か寺を数えていた。
 大宝寺 菅生山大覚院、本尊十一面観音、新義真言宗豊山派、四四番札所、久万町菅生。大宝元年の創建、開創にかかおる話の猟人を、『一遍聖絵』には安芸国の住人とし、『予陽郡郷僅諺集』には豊後国の猟師とし、寺伝もほぼそのとおりと、伝承に違いはあるものの、内容はほとんど同じである。このことを文武天皇に上奏、勅して伽藍を創建させたという。もと天台宗であったが、弘仁六年(八一五)空海がこの寺の奥の院岩屋寺を開創したと伝えられるときから真言宗となり、仁平二年(一一五二)焼失後、後白河院の保元二年(一一五七)再建し、勅願所として「菅生山」額を賜わった。元禄年間雲秀により再興、中興第一世とする。第四世斎秀は、久万山騒動に農民を慰撫、以来藩主の祈願所として外護を受けた。なお、院号を大覚院とすることからもわかるように、当寺はもと大覚寺末寺で、大覚寺宮(後宇多天皇以後皇子が入住した)が来住して以来というが、このことは、寛永一五年(二八三八)の『空性法親王四国霊場御巡行記』の筆者賢明が親王に随行した大宝寺の僧であり、空性法親王が当時の大覚寺宮であったことからもわかる。現在の新義真言宗豊山派になったのは明治四三年のことである。
 岩屋寺 海岸山奥之院、本尊不動尊、四五番札所、新義真言宗豊山派、上浮穴郡美川村七鳥。弘仁六年(八一五)開創、開山を弘法大師と伝える。本尊不動尊は大師自刻と伝え、札所寺院中でも不動尊を本尊とする寺は珍しい。また、山号を海岸山というのは、「山たかき谷の朝霧海に似て松ふくかぜを波にたとへむ」という大師の歌から来たものであると語られている。ところで、大師による開創の前のことであるが、今は本堂右後方の高い岩窟に祠として祀られている仙人堂は、『一遍聖絵』には明らかに堂として描かれ、観音の霊験を示す仙人(土佐国の女人)を祀るとしてあるが、縁起では法花仙人夫婦のこととしている。こうした仙人修業の場にふさわしく、突兀とした多くの巌峰の中に、特に八葉の峰と称される大巌峰があり、その中の白山・高祖・別山の三峰には、その頂上に祠が祀られている様子が聖絵に描かれている。なお、院号を奥之院というのは、創建当初より久万大宝寺の奥の院だったためであり、明治七年独立した。
 石手寺 熊野山宝林院、本尊薬師如来、五一番札所、新義真言宗豊山派、松山市石手町。石手寺には古記録が乏しく、永禄一〇年(一五六七)の刻板によるしかない。この刻板は、永禄九年の兵火でこの寺が焼亡した際、記録を失ったので、他の古記録や伝聞などをもとに改めて作成した石手寺の縁起で、河野通宣が署名しているが、花押からいって弾正少弼通直が同寺に納めたものであろうという(柳原多美雄「石手寺と河野氏」)。この刻板によると、この寺は、神亀五年、聖武天皇の勅命により、国家の安全を祈願するため伊予大領越智玉純(澄)が創建した法相宗の寺で、虚空蔵院安養寺と称したが、弘仁四年(八三)弘法大師により真言宗に改められたと伝える。のち寛平四年(八九二)熊野十二所権現を勧請して熊野山石手寺と改めたが、この石手寺と称するについては、衛門三郎にからむ伝説(天長八年=八三一のこととされる)があり、衛門三郎の死後の望みのとおり、息利の子息方(共に予章記にその名がある)が手に石を握って生まれて来たからということである(実際は、「て」は「なわて」の「て」と同じという説がある)。いずれにしろ、この時勧請した熊野権現の本地阿弥陀如来がその時以来本尊として祀られ、江戸時代にも同様であったことは、「十二社権現祭礼図」や「当山往古図」にあり、元禄二年(一六八九)の『四国遍礼霊場記』や、寛政一二年(一八〇〇)までに成立している『四国八十八ヶ所名所図会』の図に、熊野十二所権現が正面本堂の位置にある(現在は本堂左に小祠)ことからもわかる。それが、明治の神仏分離に際し、それまでは本堂に向かって左前にあった薬師堂(現在の阿弥陀堂)安置の薬師如来が本尊として本堂に移され、阿弥陀如来が本尊の地位を下りた形になって今日に至っている。この寺には重宝が多いが、文保二年(一三一八)の建造である仁王門は国宝、建長二年(一二五〇)の銘がある梵鐘、鎌倉時代のものとみられる五輪塔のほか、本堂・三重塔・鐘楼などは重要文化財で、梵鐘のほかはいずれも河野氏による再建にかかる。
 三角寺 由霊山慈尊院、本尊十一面観音、六五番札所、真言宗高野派、川之江市金田町。天平勝宝年間、聖武天皇御願により行基開創と伝えるが明らかでない。のち弘仁六年(八一五)弘法大師留錫、本堂脇の三角の池中に三角の護摩壇を築き、護摩の修法を行ったところから三角寺という寺名になったという。嵯峨帝より寺領三〇〇町を賜り、伽藍の造営が行われたというが、これまた明らかでない。のち天正の兵火に焼け、嘉永二年(一八四九)に現在の堂舎が再建された。
 繁多寺 東山瑠璃光院、本尊薬師如来、四国霊場五〇番札所、新義真言宗豊山派、松山市畑寺。天平勝宝年間(七四九~七五六)、孝謙天皇勅願により行基開創、天皇より祭具としての幡を賜わったからこれが寺名になったという説もある。のち、源頼義国司のとき、命により河野親経が再建(または創建)した国内四八の薬師堂の一つといい、爾来河野氏の崇敬が厚い。古くから京都東山泉涌寺の末寺として、明治まで真言律宗であった。当寺の山号を東山というのもそこに由来する。泉涌寺は、建保六年(一二一八)俊芿が再興した台・密・禅・律兼修の道場で、後水尾天皇以後の歴代陵があって皇室との関係が深い。律学の関係から伊予の生んだ碩学凝然との関係があり、したがって凝然と繁多寺も関係があるが、一方、全く同時代人でありながら交渉が認められない一遍とこの寺の関係は深い。再興の功があるとされる聞月(正応元年=一二八八、三月寂)が、勅命により蒙古退散を祈願したのは弘安二年(一二七九)とされ、凝然・一遍と同時代人であり、ことに聞月は念仏三昧の人とされるから、一遍との関係も思いやられる。すなわち、一遍が全国に遊行して最後に帰郷し、帰らぬ旅に出る直前、ゆかりの社寺に詣った際この寺にも参籠し、父如仏多年の持経であった浄土三部経を奉納したのが承応元年春のことであった。さらに、本如(嘉元三年=一三〇五寂)は、当地住人桑原氏の出堯蓮の協力を得て諸堂を再建して中興開山とせられ、七世快翁は泉涌寺二七世になった人で、以後特に泉涌寺と関係の深い高僧が相ついたという。江戸時代「中本寺」の寺格を保っていた。
 佛木寺 一理山毘廬遮那院、本尊大日如来、真言宗御室派、四二番札所、北宇和郡三間町則。大同二年(八〇七)、弘法大師が境内の楠の木で大日如来を彫り(眉間に・(王へんにつくりが果)玉を入れたところから山号を一・(王へんにつくりが果)山という)安置したという開創伝説がある(吉田古記)。のち嘉禎三年(一二三七)西園寺氏の祈とう所として外護を得て栄えたが、永禄・元亀のころ衰退、天正年中法印栄始中興、慶安元年(一六四八)伊達秀宗による本堂造営。境内に熊野三所権現を祀る。右にあげた本尊大日如来は、墨書銘によると建治元年(一二七五)の作、正和四年(一三一五)開眼の弘法大師像は、製作年代の判明している大師像では全国で三番目に古いといわれる優品で、ともに寄木造り、どちらも胎内仏を蔵している。古文書として院内下知状(寛元三年=一二四五)ならびに佛木寺記録(伏見天皇第六皇子尊円法親王筆)がある。
 観自在寺 平城山薬師院、本尊薬師如来、真言宗大覚寺派、四〇番札所、御荘町平城。大同二年、平城天皇勅願寺として弘法大師開創、勅額「平城山」を賜ったと伝え、天台宗で、四八坊をもつ大寺であったという。これで山号「平城山」の由来はわかる。弘法大師自刻の薬師如来を本尊とするこの寺を観自在寺と称する寺号には矛盾があると指摘したのは澄禅の『四国遍路日記』であるが、それにつづいて堂の内陣に観音の像もありと書いており、大師は同時に同じ木で十一面観音も彫って祀ったというから、ある時期この仏の方が尊ばれたのか、あるいはもと十一面観音を本尊とする天台寺院が、のちに大師によって真言の寺院になったときからかもわからない。その時、もう一本彫られたのが阿弥陀如来像であり、さらに余材で舟形名号を彫った「宝判」(宝印)によるお札が尊ばれたのは、浄土教との習合を示すものであった。『華頂要略』応仁三年(一四六九)の項によると、中世、御庄という青蓮門院領荘園を領掌した寺院であったから、青蓮門院は天台宗門跡寺であるとすると、このころこの寺も天台宗であったかも知れない。のち延宝六年(二八七八)伊達宗利の祈願所として再建、また、門前に太守の茶屋が設けられていた。

 平安時代開創の寺

 つぎに、平安時代に開創されたと伝える寺をいくつかあげることにする。興隆寺 仏法山普門院、本尊千手観音、真言宗醍醐派、丹原町古田。皇極天皇の御宇(六四二~六四四)空鉢仙人開創、養老年中(七一七~七二三)行基が移建して自刻の千手観音を本尊として安置、さらに延暦年間(七八二~八〇五)、報恩大師が勅願により現地に移して大伽藍を営造したというが、ここまでは伝承の域を出ない。下って文治年中(一一八五~一一八九)源頼朝が寺領を寄進して再建したと伝える。ただし、頼朝が幕府を開いたのは建久三年(一一九ニ)であるから文治年中というのはまちがいであろう。興隆寺の存在を示すたしかな史料は、現に石手寺鐘楼にある梵鐘(重文)の銘で、それによると、興隆寺の二人の住職が願主になって建長三年(一二五一)に鋳造したことがわかる。下って弘安九年(一二八六)新たに造られた梵鐘(重文)が同寺にある。また、建長六年に六波羅探題北条長時から出された禁制によると、寺領が東西二〇余町、南北五町に及んでいたことがわかる。その後南北朝時代に入り、建武三年(南朝の延元元年―一三三六)の院宣案によると、光厳上皇が同寺に対し天下の静謐を祈念すべきことを命じているのをはじめ、南朝から寄せられた文書があることから、当時南朝の祈願所として重要な寺であったことがわかる(景浦勉『伊予史料集成』)。なお、重要文化財に指定されている本堂は、棟札の銘により文中四年(一三七五)に再建を完成したことが明らかであり、他に源頼朝の墓とされる宝篋印塔(重文)がある。
 乗禅寺 普門山瑞応院、本尊如意輪観音、新義真言宗豊山派、今治市延喜。本尊は仏師安阿弥作と伝え、「延喜の観音さん」として有名である。延喜年間(九〇一ー九二ニ)創建のため所在の村名も延喜となっている。開山宥然が醍醐天皇の病気平癒を祈願して功験あり、勅願所になったと伝える。のち河野氏や今治藩に保護されて寺勢を維持した。境内に一一基の重要文化財指定を受けた石塔(五輪塔四、宝篋印塔五、宝塔二)があり、鎌倉末期から南北朝時代にかげてのものとみられているが(五輪塔二基に「正中三」=一三二六の銘)、この地方の谷々から集められたものという。なお、現在の山門は、明治初年今治城破却の際その辰の口門を移建したものという。
 遍照院 法仏山日輪寺、本尊薬師如来、新義真言宗豊山派、菊間町浜。弘仁六年(八一五)空海により宮本池奥に法仏山日輪寺を開創、元亨年中(一三二一~一三二三)には退廃して空海自刻の正観音だけが残っていたのを、永享年中(一四二九~一四四〇)讃岐国萩原寺の真恵が再興し、越智郡から風早郡にわたる地域に一二○の末寺をもつ大寺院になったと伝える(法仙山略縁起)。のち明応四年(一四九五)の文書によると、河野氏の支族で高仙城主得居通敦が、八幡宮に武運長久を祈願して遍照院に田畑を寄進しており、このことから遍照院は八幡宮の別当寺であったことがわかるが、その八幡宮というのは加茂八幡宮のことで、応永年中(一三九四~一四二七)に加茂大明神を勧請したものであるという。その後天正の兵火で全山焼亡し、これまで本尊としてきた正観音を失い、住持は延喜乗禅寺に移ってその管理下に入ったが、寛文元年(一六六一)小堂を再建、延宝五年(一六七七)乗禅寺より帰還したが、末寺二三か寺と往時をしのぶべくもなくなった。そして、貞享四年の友正の地への移建のあと天保四年(一八三三)現地に再興、現在の本堂は明治一六年の建造であるという。
 理正院 東向山有喜寺、本尊大日如来、真言宗智山派、伊予郡砥部町麻生。大同二年(八〇七)空海留錫に際し越吉智実勝造営、のち承平・天慶のころ、国司紀淑人が越智好古(方)・橘遠保らと堂宇再建、文治三年(一一八七)河野通信・通俊父子により金毘羅権現を勧請して守護神としたと伝え、理正院よりも金毘羅宮として知られている。その後も河野、加藤嘉明、大洲加藤の祈願所として外護を受け、寺門が栄えた。同寺の過去帳によると、中興一世を実道(明暦二年=一六五六寂)とし、二一世章栄は当時の本寺長谷寺に出世、その資高志大了は、道後石手寺・東京護国寺を経て新義真言宗の本山根来寺の座主、真言宗長者大僧正となった。

 新義真言宗の古寺

 昭和四四年現在、愛媛県には新義真言宗の寺は一一七か寺と多く、その他の真言の寺を古義真言宗の寺とみて一八三か寺に迫る勢いであるが、多くは明治四三年に新義真言宗への所属を明らかにしたもので、新義真言宗として平安時代に中興または開創したとみられる寺は少い。
 新義真言宗というのは、空海の伝統を継ぐ古義真言宗に対する言葉で、派祖は覚鑁である。覚鑁(~一一四三)、謐号は興教大師、一三歳で仁和寺に入り、二〇歳のとき弘法大師を慕って高野に登り、鳥羽上皇の外護を得て大伝法院を建立、やがて金剛峰寺をも兼摂して一山を支配したが、かえって正統を主張する旧派の反撃を受けるに至り、覚鑁の意図しない結果に終わった。すなわち、弘法大師を尊崇することにおいて人後に落ちない覚鑁は、高野山の復興を志し、高野の座主を東寺から奪還することに成功、一山の刷新をはかり、大伝法院の造立も全山の要望にこたえようとするものであったが、金剛峰寺を兼摂するに及んでねたみを買い、高野を追われた覚鑁は山を下って根来寺(和歌山県那賀郡)に入った。康治二年(一一四一)閏二月根来寺の落慶供養が行われ、一二月覚鑁は寺内円明院に示寂した。その直前の仁治三年(一二四二)高野との争いに大伝法院は焼失、文永九年(一二七二)再興した。その後、覚鑁の意志を継承する大伝法院学頭頼ゆは、正応元年(一二八八)大伝法院・密厳院をはじめ諸寺を完全に移し終え、新義派は独立した。のち、大和長谷寺を本寺とする豊山派と、京都智積院を本山とする智山派に分かれた。
 覚鑁を中興開山とする真言寺院に土居五智院(密厳寺、現真言宗高野派)がある。延喜二年(九〇ニ)理源(聖宝、延喜九年寂)を開山とするが、覚鑁を中興開山とし、覚鑁作とする不動明王像を伝える。この寺を密厳寺というのは、覚鑁が高野に建立した密厳院の密厳に由来する。密厳浄土といわれ、大乗密厳経に説く浄土で、そこは大日如来のいる現世そのままの密厳仏国であり、覚鑁は現世の浄土を密厳浄土と呼んだ。覚鑁がこの寺を再興したという年代は伝えられていないが、覚鑁が伊予を巡錫したとはみられないから、覚鑁系の高野聖が中興したものであろう。往昔は境内三町四方に及び、宇摩郡西部二一か寺の本寺であったという。
 また、西条福武金剛院(古義真言仁和寺末)は、八堂山山麓の賀茂神社の別当寺として保元年間(一一五六~八)開創、八堂山に七堂伽藍が建立され、のち覚鑁がこの地に巡錫したとき不動尊を彫刻して不動堂に安置、七堂に一堂が加えられて八堂となったのがこの山名の由来という。のち天正の兵火に焼亡して不動堂だけ残り、明暦のころ(一六五五~一六五七)一柳直興の寄進により現在地に再建、覚鑁作と伝える不動尊を本尊として守っている。さらに、丹原久妙寺(古義真言宗御室派)は、天平の古寺で空海の再興と伝えられるが、興教大師作と伝える不動明王像を守っており、伊予市八倉入仏寺(新義真言宗智山派)は、弘仁元年(八一〇)ごろ空海開創と伝えられ、寛政八年(一七九六)に施入された興教大師木像を祀っている。これらもおそらく高野聖によるものであろう。最後に、波方長泉寺(新義真言宗豊山派)は、保延六年(一一四〇、あるいは康治元年=一一四二とも』、根来寺の僧瑞長が諸国遍歴の途次、出身地であるこの地に、郷人崇敬の如意輪観音を本尊として創建したと伝える。ちなみに、瑞長は覚鑁の弟子で俗に百法印と言われたという。

 定額寺と勅願寺

 定額寺は奈良時代後期より発生した寺院組織であるとみられる。伊予国では、官寺としての国分寺と国分尼寺に定額が与えられているが、私寺であっても、弥勒寺(松山市食場町にあった廃寺)のように、准官寺としての待遇と管理を受け、国家から定額寺と認定されたものもある。これらのほか、松山宝厳寺も定額寺であったと伝えられるように、まだ他にもあるかも知れないが、畿内においてはともかく、地方においてはごく少数だったはずで、これらの伝承はそのまま信ずるわけにはいかない。
 その直接の目的は、濫立する私寺を統制するためであり、定額という名称からもわかるように官額を与えられたものであろうが、やがてその反対に、定額寺という名を与えて灯分料などの名目で施入を得る手段によって国家統制を行うようになったとみられる。これを寺側からすると、檀越の氏寺や祈願寺を定額寺として認めてもらうため、食封を施入して国司に認められ、国の公認を得て自己の地位を高めようとするものであった。したがって、国家統制を厳にして国司が認定するため、その寺院数は国ごとに決まるもので、しかもその数は少なかったとみられる。その後平安時代に入ると、律令体制によって寺院統制を図ってきたのが、貴族による定額寺の管理が行われ、地方の氏族は中央の実権をもつ藤原氏を中心とする貴族に接近、貴族や皇族を檀越とする傾向を生じ、貴族の祈願寺から、果ては天皇の勅願寺というような性質に変化していったとみられる。
 つぎに、勅願(御願)寺の意味は、天皇の御願を修する寺院ということで、天皇や国の息災や不予の不幸などをまぬがれることを天皇自らが祈願するために建立する寺院であるが、もう少し広く、皇后その他皇族の御願によるものも含められた。しかし、さらにそれが拡大されて、公卿や僧侶ならびに地方の国司や豪族が寺を建立し、天皇の祈願を行うことを条件に御願寺たることを認められるようになった。すなわち、平安初期までの勅願寺には、延暦寺・貞観寺など年号をとったものや、また、醍醐寺のように天皇の名を冠したものもあり、本来の意味の勅願寺が普通であったのが、平安後期になると、天皇に直接結びつかない御願寺が多くみられるようになるという(日本寺院史の研究)。
 伊予において古代に勅願寺であったと伝える寺院は、枚挙にいとまがないほど多い。また、それは平安時代に限られることなく、奈良時代にも遡るし、また、南北朝時代、後醍醐天皇の勅願寺というのも目立つことである。それらを通じて、幾つか顕著な例をあげてみよう。
 中央の例として右に一、二の例をあげたような天皇の名を冠した寺が伊予に一か寺ある。それは、後世のことであるが、新居浜黒島の明正寺で、寛永二〇年(一六四三)、明正天皇勅願所として明正寺に改めたといわれ、門前に「明正天皇勅願所」の石標が立てられている。また、年号を冠したものに久万大宝寺と松山大宝寺があるが、いずれにも勅願寺という伝承はない。御荘町観自在寺は、境内に平城天皇遺髪塚という墓が祀られている。また、下って後醍醐天皇に関係の深い伊予としては当然予想されることであるが、天皇に味方した延暦寺末法勝寺円観の弟子理玉が命を受けて伊予に下り、元応二年に広見等妙寺を開創、元弘元年(一三三一)上洛し、後醍醐天皇から勅願寺と定められた。
 このように特殊な例を除き、他は普通に伝えられている勅願寺であるが、舒明勅願といわれる東予市実報寺(六四〇年開創)をはじめとして、天智・文武・元明・聖武・孝謙など歴代の勅願寺とされるものが多いが、豪族や国司を背景とする具体的な伝承があるもののほかは直ちに事実と認めることはできない。