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愛媛県史 学問・宗教(昭和60年3月31日発行)

六 古代社会の信仰

 古代人の信仰は、自然崇拝、地神信仰などにみられる汎神論的な自然神から、道教や仏教に習合した信仰に至るまでさまざまであり、古代人の豊かな感受性と寛大な包容性を示しており、しかも、各人の立場や環境からくる主体的受容を、互いに尊重して侵さない風が、他国の社会よりも顕著なのではないだろうか。すなわち、信仰内容が多様なのである。このような民族性に合致したのが仏教であり、仏教の本質につながりながら、多くの仏たちが人それぞれにあがめられた。いま、仏教を取り入れることによって生まれた古代社会における信仰の多様性のうち、その主なものを簡単にあげ、伊予の仏教へとたどってみよう。

 薬師信仰

 薬師如来、詳しくは薬師瑠璃光如来、大医王仏・医王善逝ともいい、東方浄瑠璃世界の教主である。本尊を薬師とする寺に医王山浄瑠璃寺(松山市浄瑠璃町、四六番札所)があり、瑠璃光院繁多寺(松山市畑寺町、五〇番札所)がある。薬師如来は、因位にあるとき大願を発して衆生の病気を除き、諸根を具足させて解脱に導くと信ぜられ、古くから信仰が盛んであった。左手に薬壺を持ち、日光・月光の両菩薩を脇侍とする薬師三尊の形式が普通であり、眷族として護法神である十二神将を従える。その代表的なものは奈良薬師寺の薬師三尊仏で、白鳳期最大の金銅仏であり、それより古いものには止利仏師の作になる法隆寺金堂の飛鳥仏がある。なお、法隆寺の壁画にも薬師浄土が描かれている。乾漆像には法隆寺西円堂本尊と唐招提寺金銅の天平仏があり、平安仏としては神護寺・元興寺・新薬師寺の薬師仏がある。十二神将では、新薬師寺の天平の塑仏が代表的なものである。伊予には美術的価値ありとされるものはほとんどないが、北条市庄薬師堂の木像は平安初期の作とされ、重要文化財である。
 右にあげた奈良の諸仏の例でわかるように、仏教渡来の初期から信仰の対象となったのがこの薬師仏で、もちろん伊予でも薬師仏を本尊とする古代開創と伝える寺院は多いが、いちいち取り上げるほどのことはない。また、一般には、天台寺院では薬師如来を本尊とすることが多く、最澄が延暦七年(七八八)薬師仏をまつって一乗止観院を創建したということであり、最澄作と伝える薬師仏に優品が多いのは、最澄の発願によるものであろう。現に、西法寺(松山市下伊台町、天台宗)の本尊薬師瑠璃光如来は伝教大師の作とされ、やはり天台の古寺醫座寺(松山市東大粟町)・正観寺(同北梅本町)の本尊薬師は、行基作七薬師の一つとされている。ここに七薬師というのは、義浄訳の薬師瑠璃光七仏本願功徳経を所依とする七仏薬師信仰で、松山地方では醫座寺のほか安養寺(石手寺)・蓮華寺(市内谷町)などの七か寺をいい、かなり最近まで民間の信仰が厚かった。なお、これらの寺にも関係があるが、『予章記』によると、伊予の国司源頼義が河野親経と協力して国中に四九か所の薬師堂を創建したとあり、その一つとして繁多寺がある。すなわち、『愛媛面影』にも(ただし、四十八箇所とあり)そのように記され、さかのぼって『一遍聖絵』にも頼義の建立とあるが、これには国中に七か寺とあり、七仏薬師の一つとしている。同寺の創建は奈良時代と伝えるから、再興のときのことであろう。このほか、源頼義と河野親経が再興または建立したと伝える寺院は、もはや四九を数えることはできなくても、今治市東禅寺(本尊薬師、旧薬師堂は国宝)、東予市福王院(京都より移した七薬師の一つという)、西条市王至森寺に併合された薬師寺、北条市庄の薬師堂などがそれらしい伝承を残している。

 観音信仰

 観世音菩薩、観自在に対する信仰で、薬師信仰とともに古くから広く信ぜられた。観世音とは、衆生の救いを求める声を聞くと直ちに救済すること、観自在とは、一切の存在を観察することが自由であるように、衆生の救済も自在であるという意味である。すなわち、観世音菩薩は、一切を観察して自在に慈悲をたれる菩薩として人々の信仰を集めた。聖(正)観音を本体とし、阿弥陀如来の脇侍として勢至菩薩と共にある観音、現世利益の本尊としての観音、密教における観音など、また、千手・十一面・如意輪・准てい・馬頭にさきの聖観音を加えて六観音、さらに不空羂索を加えて七観音など、救済を求める衆生に応じて諸相をもってあらわれる。観音信仰は、妙法蓮華経第七普門品を観音経と称してこれに依るものであるが、それに見える三十三観音が依り所となって、平安末期に西国三十三観音霊場がほぼ成立、中世には地方に普及して坂東と秩父の観音霊場、さらに江戸時代には各地に伝播し、現在もなお生きつづけている。
 もともと観音は飛鳥時代から信仰された仏で、聖徳太子の夢殿観音、法隆寺大宝蔵殿の百済観音以下有名な観音が多い。また、観音信仰が古代の人びとにどのように普及していたかは、主として平安時代に成立した仏教説話、ことに『法華験記』を中心に語られている法華経持経者に関する説話で知ることができる。たとえば越智益躬は法花の持経者であるとともに念仏者であり、同じく守興も熱心な観音の信者であった。そのほか、こうした郡司階層の人だけでなく、日下部猴の子、法楽寺の安楽老尼などの名も見える。また、寺院に関する伝承でも、「観音影現の霊地」とされる久万町大宝寺、「観音の効験」ありとされた美川村岩屋寺(いずれも一遍聖絵)などは代表的なものである。その他、伊予の古寺に本尊として観音を祀るものの多い中で、聖武天皇の勅願による本尊と伝える十一面観音を祀る松山市太山寺には、他にも、後冷泉天皇から近衛天皇に至る六天皇の勅願というほぼ同高(一四三・八cm~一五六・三cm)、同形式、一木造りの十一面観音像があり、いずれも重要文化財に指定されている。
 ちなみに、伊予の四国霊場二六か寺の中で観世音菩薩を本尊とするものには、右の大宝寺・太山寺のほかに龍光寺(四一番)・明石寺(四三番)・西林寺(四八番)・仙遊寺(五八番)・宝寿寺(六二番)・三角寺(六五番)と八か寺もあることから、観音信仰が広く行きわたっていたことがわかる。
 ところで、四国霊場の信仰として、また、観音信仰として最も特色のあるのは補陀落浄土の信仰である。南インドのポータカラ(普陀落・補陀落)山は観音のおわす補陀落浄土の本所であり、中国では舟山列島の普陀山、チベットでは観音の化身が住む宮殿ポタラ宮、わが国には各地に観音浄土に比せられる所があるが、さしずめその本所は熊野の山と那智の海。ここに山と海をあげたが、死後におもむく他界浄土としては、奥深い山岳霊地すなわち山上他界と、西に日の沈むはるかなる海すなわち海上他界がある。高野や熊野は前者であり、那智の海や四天王寺から西にのぞむ難波の海(当時、この寺の近くまで海がせまっていた)、そして、四国霊場に関していえば、室戸・足摺・志度の海がそれにあたる。すなわち、四国霊場としては、室戸山最御崎寺・蹉だ山補陀落院金剛福寺・補陀洛山志度寺がそれで、ことに足摺の金剛福寺には、補陀落渡海をした住僧の話がなまなましく伝えられ、古代末期から中世までこの信仰が生きていたことを示しているが、伊予の札所にはこうした顕著な観音信仰はない。

 弥勒信仰

 四国霊場の信仰は霊地信仰であり、各種の霊地にみられる重層的な複合性が一つの特徴であるが、一方、時代が下るにつれて弘法大師信仰が次第に濃厚になり、いわゆる大師一尊化の傾向におおわれるようになる。そのような大師信仰にかかおるものの一つに、大師自らが信仰したと伝えられる弥勒信仰がある。それは、大師の「御遺告」と伝えられるもの(大師自らのものではなく、後に弟子たちによって作られたとみられる)の中に二か所出てくる。一つは天長六年(八二九)一一月五日に示されたとされるもので、自分の亡きあと、弟子・門徒は大安寺を本寺とせよとの教えの中で、「大安寺はこれ兜率の構、祇園精舎の業なり。したがってわれ彼の寺を以て本寺となすなり」と言っており、もう一つは、承和二年(八三五)三月二一日、自らの示寂にあたって示されたもので、「われ閇眼の後、必ずまさに兜率他天に往き、弥勒慈尊御前に待つべし。五十億余の後、必ず慈尊に御供して下生祇候す、わが先跡を問うべし」(いずれも原漢文)とある。そして、『弘法大師御入定勘決記』に、大師入定の様子を記したあと、入定の前一〇日間、四時に行法し、その間弟子たちは共に弥勒の宝号を唱えた、そして最後に、その唱号のうちに閇目して言葉もなく入寂せられたと言っている。
 これが弥勒信仰・兜率天信仰と言われるもので、弥勒三部経(観弥勒上生兜率天経・弥勒大成仏経・弥勒下生成仏経)にもとづく。弥勒仏は、兜率天上において天人に説法し、未来に想いをはせて瞑想する未来仏で、その姿を中宮寺や広隆寺の半珈思惟像に見ることができる。釈迦入滅後五六億七千万年たつと弥勒菩薩は地上に下り、竜華樹の下で悟りを開いて弥勒仏となり、あまねく衆生を救うという、これが弥勒下生信仰である。その前に、下生までの長い間、弥勒菩薩は都率天にあるから、死後直ちに兜率天浄土に上生し、やがて遠い未来に弥勒と共に地上に帰りたいという、これが弥勒上生信仰である。この思想は、朝鮮半島を経て六世紀半ばごろわが国に伝わり、奈良時代前期、法相宗との関係の中で弥勒浄土往生信仰が盛んになり、後期からみえはじめた阿弥陀信仰が盛んになるにつれて(阿弥陀の仏像そのものはもっと早くから祀られている)、やがて取って代わられることになるが、平安中期には奈良県吉野の金峰山が弥勒浄土とされ、平安末期には下生信仰が主流となり、勧進聖を通じて地方に普及、各地に弥勒像が造られるようになる。そして、平安末期から盛んになった阿弥陀信仰に浄土往生信仰の中心が移るとはいえ、中世から近世にかけて、あるいは現在でも新興宗教の中に生きている。
 ところで、空海の死はやがて「入定」と呼ばれるようになり、永遠の悟りをひらき、不死の生命を得て、弥勒菩薩下生までの間、高野山奥の院大師御廟で、生きながら冥想していると信じられるようになった。そしてさらに、大師は奥の院に生きているだけでなく、つねに地方を巡錫して人々を救済するという信仰にまで発展した。弥勒仏は大師が崇敬して上生を願い、遠い未来に弥勒仏と共に下生して衆生を救済しようというのであったが、大師そのものが弥勒仏のような信仰を集めることになったわけである。ちなみに、弥勒仏を本尊とする札所寺院に常楽寺があり、弥勒像があると記された寺に曼陀羅寺・弥谷寺・瑞運寺(安楽寺)など、弥勒堂があると記されたものに観音寺・道隆寺・三角寺・恩山寺などがあり、大師信仰を通して四国霊場に弥勒信仰があることを示している。また、伊予では、右の三角寺のほか、平安時代の定額寺であった弥勒寺があり、弥勒堂に祀った弥勒仏が本尊だったであろうが早く廃退したし、ほかに弥勒の古仏があることも知られていないが、新しい弥勒石仏は諸所の墓地でも見られる。

 地蔵信仰

 観音信仰や弥勒信仰にやや遅れて平安時代にみられ、後期以後盛んになったものに地蔵信仰がある。特に中世末法思想の流行にあたり、阿弥陀信仰とともに庶民の間に普及した。釈迦入滅から弥勒下生までこの世に仏がいなくなったので、衆生を救うために現れたのが地蔵菩薩であるとされる。その信仰は、それまでの土着の庶民信仰と結びついてさまざまの信仰を生んだが、その代表的なものは、道祖神やサエの神の信仰と結合して、現世と地獄の境に立って死者を救うという信仰(村境の路傍に立つ地蔵、墓石の入り口に立つ六地蔵、賽の河原で童子を救う地蔵など)、地神の信仰と結合して大地の神、中世後期以後には子供の救済神としての子育て地蔵など、庶民の悲願をかなえる現世利益の仏である。
 吉田町立間の大乗寺の地蔵堂に祀られる高さ八尺大の木像仏(水引地蔵・尼地蔵と呼ばれる)は、造立年代は不明であるが、その体内銘によると、弘安元年(一二七八)に立間郷地頭藤原重貞によって彩色が施されたということであり(吉田古記)、これを最も古い例として、南宇和郡城辺町少林寺の地蔵(正和三年=一三一四)、松山市小坂多聞院の地蔵(正中二年=一三二五)などが古いというから(柳原多美雄「郷土に於ける地蔵信仰について」)、伊予で地蔵が建て始められたのは鎌倉時代中期以後とみてよい。地蔵を本尊とする寺はそんなに多くはないが、四国霊場でも五か寺にみられ、うち泰山寺(五六番)は弘法大師にゆかりの地蔵で、延命地蔵経十大願第一「女人泰産」から寺名をとったと伝えられている。ちなみに、四国霊場だけについてみても、霊場記や図会に示す地蔵や地蔵堂の記述は多く、霊場の宗派や本尊に関係なく、地蔵尊はどこにでも祀られていたことがわかる。