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愛媛県史 芸術・文化財(昭和61年1月31日発行)

一 概説

 中世に入ると俄然建築の遺構が豊富となり、全国で国指定となる重要文化財は五〇〇件を越える。愛媛県下においてもこの時代の建築が初登場をすることになった。県下には鎌倉時代の国宝が三件、室町時代の国指定重要文化財が一四件、県指定の有形文化財が五件、計二二件の中世の建築が残存し、具体的な観察や実証的な調査が可能となった。また大陸より宋風の建築が導入され、天竺様や禅宗様の新しい様式が生まれ、飛鳥時代からの伝統の建築に著しい変革をもたらした重要な時代である。愛媛の遺構にはこの時代の特色のある様式を継承した代表的な建築が多く、特に愛媛の個々の遺構につき具体的な解説を付すことにする。

鎌倉時代

 鎌倉時代は日本建築史の上で多彩を極めた重要な時期である。まず初期に中国の宋から新しい天竺様が移入され、その後禅宗の伝来に伴い禅宗様が従来の伝統であった和様に対抗してもたらされ、これらの様式が三つ巴となって建築界に新機軸を起こしたのである。なお後期には三様式を折衷した新和様が創造され、広く普及することになった。
 〈天竺様〉 大仏様ともいう。東大寺大仏殿の焼失(一一八〇年)の再建に当たり僧重源が南宋より導入した様式で、平安末期の建築が優美繊細に陥ったのに対して堅牢な構造法による豪壮さを表した新建築である。その特色は従来の装飾的な組物を廃し、柱に差し込んだ挿肘木を重ね上げた力強い構法により深く軒を支え、内部は天井を張らずに太い架構材をそのまま露出した素朴、雄健な手法で、いかにも武士好みの豪快さを感じさす。この特異な様式が当時の沈滞した建築界に清新な刺激を与えたが、余りに大胆疎放な手法が一般に迎えられず、十余件の仏寺を建立し重源の死とともに急速に衰退し、以後一部の手法が和様に吸収されて短命に終わったのである。
  〈禅宗様〉 禅宗の伝来と同時に北宋様式を取り入れ、禅宗の強い背景をもって各地に普及したもので、それまでの主流となっていた和様に対して唐様とも称せられる。その特色は中国風の左右対称の整然とした伽藍配置で、建築は天竺様の粗雑さよりも精巧丁寧で細部は曲線が多く、彫塑的で総体は軽快な感じを表している。構造的には大紅梁の上に大瓶束を乗せた架構法を用い、斗栱は複雑に拡がり、柱間の中備に特色ある蟇股を飾り、礎盤上の柱は上下を細く絞った粽をつけ、開口部は火燈形をなし、桟唐戸をはめ、屋根は高く反り上がって扇状の二重插にするなど、内外共に壮麗さと均整さを加えている。鎌倉には建長寺、円覚寺等いわゆる鎌倉五山が建立され、京都には南禅寺など京五山が次々に建ち唐様建築が隆盛となり、広く地方に普及し、愛媛には祥雲寺観音堂(越智郡岩城村)が典型的な禅宗様の遺構である。
  〈和様と新和様〉 奈良、平安時代以来の伝統を踏襲してきた和様は、依然として建築界の主流をなしてきたが、新しく出現した様式の影響を受け、その構造や意匠の部分的な手法を取り入れ、鎌倉後期には新和様と言う折衷形式が形成された。従来の和様を基調におきながら細部の木鼻や実肘木に天竺様の繰形が使われたり、在来の板扇を禅宗様の桟唐戸に変えるなどの変更がみられる。これは天竺様の手法を会得した奈良系の大工と、禅宗様の仏寺の建築を手なづけた京都系の大工が、伝統的な和様に新しい様式の手法を融合する意欲の表れとも解せられる。鎌倉時代は古代的なものから脱して中世的なものへの転換期の証左と言える。
 愛媛の鎌倉時代の遺構として三件の国宝指定の代表的建築がある。県下で最古の大宝寺(松山市)は鎌倉初期の建立で、まだ平安調の名残をとどめる優雅な和様であるが、鎌倉後期の太山寺本堂と石手寺二王門は巧みに天竺様、禅宗様を取り入れた雄勁な姿の新和様の建築で、全国に誇り得るものである。

室町時代

 室町時代の建築は純粋な和様は少なく大部分は唐様や天竺様が混入し、また唐様建築には和様を取り入れたのもあり、多種な変化が表れた。これらの傾向を通じ共通していえる事は、建築に対する関心が細部の装飾に移行して、空間をいかに構成するかについては熱意がさめたように見えることである。戦国時代の兵火のために焼失したり廃寺のまま放置された状態では格調正しい建築が少なくなったのは止むを得ないことといえる。しかし、地方では勃興した戦国大名たちや豪族により多くの社寺が建立され再建されている。
 県下における室町時代の遺構は国指定重要文化財として、石手寺護摩堂や円明寺八脚門に和様の名残りをとどめ、浄土寺や興隆寺本堂や小堂ながら定光寺観音堂や善光寺薬師堂が和様を基調として唐様を取り入れた建築である。祥雲寺観音堂は典型的な唐様建築として知られている。
 神社建築の遺構は平安から鎌倉時代にかけては極めて少ないが、鎌倉末から室町時代になるとかなり多く残っている。様式的には流造が一般的に多く、春日造がそれに続者、寺院建築に接近した入母屋造の和様建築がこの時代から始まったようである。斗栱やその他の細部の手法は殆ど和様で、初期は装飾が少なく次第に末期となると唐様が混じて賑やかな意匠となるのは寺院建築と同様である。基壇の上に高床式に建ち母屋部は円柱、向拝部は方柱で前面に浜床と階段を置き、三方の勾欄付の縁を回し後端は脇障子を立て込む。屋根は反りを強くし勾配を急にした切妻の桧皮葺の古式が多く棟には千木、堅魚木をのせて神明造の遺風を残すのもある。仏寺と同様な入母屋の瓦葺き屋根もあり、華麗な組物や破風飾りをあしらい、蟇股、手挾み、懸魚、象鼻などに彫刻をほどこし、丹塗りなど彩色をほどこした華麗な建築が多くなった。