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愛媛県史 芸術・文化財(昭和61年1月31日発行)

二 鎌倉時代の寺院建築

大宝寺本堂 国宝  付 厨子一基 棟札一枚 松山市南江戸五丁目 大宝寺

 松山市の西方、西山の南麓に在り大宝年間に越智玉興の創建と伝えられる阿弥陀堂である。現存の本堂は桁行三間、梁間四間平家建、寄棟造、本瓦葺、軒は二重棰、もとは茅葺であったのを延享二年に瓦葺に改めた。屋根の勾配は緩く、柱はすべて円柱で、隅柱上に簡単な舟肘木の組物をのせ、正面がすべて開放される蔀戸をつけ、軒の棰割が柱間ごとに不並びであることや、足固貫を用いていない点は平安末期に建てられた和様の特徴である。外観は簡素な中に柔和な女性的な平安朝の面影をしのばせ、小規模ながら県下最古の貴重な和様建築である。
 西側面に観音開きの板戸を釣り込み、内部床は総て板張りで、前面を一段下げて外陣とし、奥の内陣は四本の円柱で囲まれた鏡天井を張り、その他は格天井となっている。
 この本堂は建立年代を知る資料はないが、形式手法や地域性を考慮すると、鎌倉時代初期と推定される。鎌倉時代には中国の宋より天竺様や禅宗様(唐様)が伝えられて様式の変革をもたらしたが、大宝寺本堂のように平安時代における和様の正統派の伝統が保持された遺構は全国的にも数少ない。
 内陣に安置された厨子は軒唐破風をつけた柿葺、寛永八年の作であるが室町時代末期の禅宗様を伝える優れた作品で、本堂とともに国宝に指定される。なお本堂に安置される木造阿弥陀如来と釈迦如来坐像は藤原時代初期の作とみられる優品で、国の重要文化財に指定される。

太山寺本堂 国宝 松山市太山寺町 太山寺

 松山市の北方、静寂な山懐にある太山寺(真言宗)は、四国霊場五二番札所として知られる古刹である。行基が開祖といわれ、創立当初は少し離れた寺谷の地に在り、東西三三町、南北四四町という広大な寺域に壮厳な七堂伽藍がそびえていたと伝えられている。その後焼失したため現在の地に移り、本堂やその他の建物が再建された。本堂の内外陣の境にある蟇股から墨書銘が見つかり、嘉元三年(一三〇五)の再建が明記されている。密教本堂の中で全国でも有数な規模を誇る雄大な建築で国宝に指定される。
 本堂は桁行七間、梁間九間、入母屋造の本瓦葺、屋根勾配が急で棟が高く重量感に溢れ、木割の太い丸柱の連立に雄渾な感を表している。七間堂では正面に蔀戸を用いるのが一般である。全体の基調は和様であるが、内部の虹梁は太くふくらみを持ち、その持送りに挿肘木を用いている点は、天竺様で、組物には唐様を巧みに取り入れて、いわゆる和様新派に属するもので、特に中備に配した蟇股は、名工の腕の冴えた作品である。内外陣に分けて外陣を拝殿として設けるようになったのは鎌倉以後の特徴であり、また内陣が土壇となっている点は異例である。
 鎌倉以後に建立された寺院は、従来の伝統の和様に対して、東大寺再建の天竺様と、禅宗の輸入でもたらされた唐様とが各々特色のある構造手法を持って、大なり小なり混入し、折衷して和様新派という様式が成立した。香川の本山寺(一三〇〇年)と共通した鎌倉時代の建築である。大阪の観心寺や兵庫の鶴林寺とともに和様新派の全国的な代表作として県下の貴重な遺構である。

石手寺二王門 国宝 松山市石手二丁目 石手寺

 松山市の石手寺は真言宗豊山派に属する四国霊場五一番の札所である。寺伝によれば聖武天皇の神亀五年(七二八)に勅宣によって、伊予の大領であった越智玉純が伽藍を創建し安養寺と称していたが、弘仁四年(八一三)に石手寺と改めたとされ、寺の規模は今の数倍もあり、歴代の領主の保護を受けて深く崇敬され、一般の尊信も厚かった。
 二王門は『伊予古蹟志』によれば、河野通継が文保二年(一三一八)に建立したと伝えられ、全国の楼門のうちでも屈指の優れたもので、県下三件の国宝の中にはいっている。
 建物は重層楼門で桁行七・二五m、梁間四m、屋根入母屋造の本瓦葺、粽のない円柱上に三手先の腰組物で支えられた二階の廻縁と手摺りが胴部を引き締めて全体に均整がよくとれた姿である。正背面の中備に優れた形の蟇股を配し、両側面は間斗束をはめている。内部の虹梁上に板蟇股をおいて組入天井にし、外部の二軒の棰の奥には軒支輪を張るなど純粋の和様からなる壮麗な鎌倉時代の傑作である。

石手寺本堂 国指定重要文化財 附 銘札一枚 棟札三枚

 二王門をくぐった正面の石段の上に建った本堂は桁行一〇・六五m、梁間一〇・三五m、入母屋造、本瓦葺の堂々たる鎌倉中期の和様の建築で、柱は総て丸柱、正面に両開き桟唐戸を設け回りに縁を巡らし、堂内は内外陣に分かれている。二王門とほぼ同時代に再建されたものであるが、その後たびたび修復が行われ、内部の架構に禅宗様の手法が混じっているのはそのせいであろう。明治四〇年に旧国宝に指定され、昭和五五年には銘札一枚、棟札三枚が国の重要文化財として追加指定された。県下の残存する最古の建物の一つとして貴重である。

石手寺三重塔 国指定重要文化財

 本堂の右手前に聳える三重塔は高さ二四・一m、本瓦葺、三間三重塔婆は四・八六m角、よく均整がとれた安定感のある容姿は、奈良興福寺の五重塔に似て全国的にも優れた鎌倉期の傑作である。一階のやや太目の粽のない丸柱、重厚な三手先の組物、二、三階の手摺今中備の間斗束などに和様の基調がみられるが、組物の一部に天竺様の手法も混じっている。初重内部には四天柱、来迎壁、須弥壇があり、数少ない塔婆建築として貴重な遺構である。

石手寺鐘楼 国指定重要文化財

 元弘三年(一三三三)に再建された重層式の鐘楼は、桁行三間、梁間二間の入母屋造、桧皮葺で軒深い屋根と袴腰が流れるような美しい容姿を示す、鎌倉時代の瀟洒な建築である。構造、技法ともに三重塔に準じた和様の伝統を伝える貴重な遺構といえる。楼上には国の重要文化財に指定された建長三年(一二五一)在銘の銅鐘が釣られ、七百数十年の歴史の響きを今に伝えている。

石手寺訶梨帝母天堂 国指定重要文化財

 境内の東北隅にあり、俗に鬼子母神と呼ばれる安産祈願の神として親しまれている少祠で、屋根は桧皮葺、一間社流見世棚造である。妻飾りは猪の目懸魚を用い、組物など優れた技法が見られ、正面中備の蟇股は二王門のものと同じ出来栄えで、創建も同じ鎌倉時代と思われる。県下最古の神社建築であり、また神仏混淆の歴史的遺構でもある。

石手寺護摩堂 国指定重要文化財

 創建は室町前期と推定される和様の簡素なたたずまいである。桁行、梁間とも三間の方形造銅板葺で、柱は面取り角柱、組物に舟肘木を用い、柱上毎に桔木を突出して出桁を支え、その上に置かれた一軒の大疎棰が屋根を深く張り出し、又正面中央に蔀戸を設け御簾を垂らし両脇に細かい格子窓をあしらって、一見して平安調の優雅な容姿を見せている興味ある建物である。

太山寺二王門 国指定重要文化財 松山市太山寺町  太山寺

 太山寺の入口にあり、鎌倉時代の雄勁な建物で、元は二重の楼門であったのを文明一七年(一四八五)の大修理の際に単層に改造された跡がうかがわれる。建物は三間一戸、入母屋造、本瓦葺様式は和様を基調にしているが、丸柱に礎盤を敷き柱に粽がある点は唐様が混じり本堂と同じ第二和様新派に属する。両脇には金剛力士像を安置する。