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愛媛県史 芸術・文化財(昭和61年1月31日発行)

一 出土品にみる伊予の工芸

線刻女性像

 昭和三六年五月に発見された上浮穴郡美川村の上黒岩岩陰遺跡は、その夏から五次にわたる発掘調査を実施したが、出土品のうち、そら豆大の緑泥片岩に半裸の女性像が線刻され、長い頭髪、誇張された乳房、腰蓑や女性の性器を示す下部中央の沈線に逆三角形で描かれている。もとより学術的にも貴重な遺物で当時の話題となったが、美術的な面から観察しても素晴らしい線描である。まさに伊予の芸術の源流がここにみられるとともに、この時代に生きた一万年にも余る遠祖の生活にも、苛酷な自然条件のなかで、このような芸術性豊かな側面がうかがわれて近親感を呼ぶのである。

分銅形土製品

 松山市祝谷で出土した遺物で、扁平な分銅の形をした直経一〇㎝、厚さ一・五㎝の土製品で、人間の顔をかたどったものである。分銅形の上半円を顔に見立てて左右に長く粘土をよじって眉とし、その下に小さいつぶらな眼がのぞいている。後代に描かれた「源氏物語絵巻」に登場する女性像を連想させる。弥生時代に農耕がわが国に導入され、前代に較べた生活のゆとり、精神的おおらかさがうかがわれる。

子持高坏

 須恵器は五世紀のなかごろに中国大陸から南朝鮮を経て伝わったといわれる。須恵器は在来の土師器とは焼成技術や器形が全く異なっ、轆轤による成形と登り窯による高火度の焼成による点、画期的な進歩である。当然技術的にも優れた工人が専業化し、美術的に見るべき作品が焼成されるようになった。伊予郡砥部町大下田古墳から出土した子持高坏は、昭和四一年八月、蜜柑園造成中に発見され、その副葬品として出土した遺物のなかの一つである。この子持高坏は時に出土した須恵器群のうち、造形と焼成技術が特に優れている。
 砥部地方はいたるところに群集古墳が存在することで知られるが、愛媛県総合運動公園の造成中に須恵器焼成の登り窯が発見され、六世紀後半から七世紀前半にかけて、この地方には技術的に優れた工人がいたことが立証された。

誕生仏

 小金銅仏として県内で出土した誕生釈迦仏はこれまで三例を数える。その第一は御荘町平城の山王社付近から昭和一〇年頃に出土したものといわれ、右手や両足を欠失しているものの、大振りの面相になんともいえない微笑みがみられる。土中のため鍍金は全く剥奪してはいるが、ところどころに鏨仕上げのあとがみられる。奈良時代も初頭の頃に製作した優品である。
 第二は北条市善応寺の野菜畑から出土した誕生仏で、像高一〇・三㎝、台座を含めても一二・三㎝のもので、これも土中のため、各所に欠損がみられるが、全容の印象は御荘町出土の誕生仏と較べると、肉どりもまろやかで、鏨で彫出した表現の巧みさは勝っている。
 第三は松山市福角に出土した誕生仏で前二者と比較して製作年代は下り、平安時代初期の製作である。手馴れた衣文の意匠はこまやかで巧緻、和様工芸技術の出発を感じさせる逸品である。