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愛媛県史 芸術・文化財(昭和61年1月31日発行)

三 経塚出土品

埋経思想

 経塚とは経典を書き写して土中に埋納し、自分とその一族、世のなかの無事平穏を希求することをいうのである。仏典によれば釈尊入滅後一〇〇〇年を正法時代といい、法力旺盛でその教理によって人々は悟道を得ることができるが、次の像法の時代になると次第に仏法は衰えていくことになる。そして末法の時代となり、法力は失われ、天変地異が各地で起こり、暗黒の世のなか招来ということになる。その時期は釈尊入滅後二〇〇一年からということになる。わが国では永承七年(一〇五二)是より末法の世に入ると記されている。藤原時代の全盛という時代背景もあって、貴族も庶民もおびえ、競って経文を埋納し、五六億七千万年の後には弥勒菩薩が現れて世なおしをはかるという教理を信じたわけである。この慣習は江戸時代まで続いたのであるが、経文のほかに伴納する経筒、仏具、和鏡、宝塔などの出土物は貴重な遺宝というべきで、特に平安時代後期の経塚出土品は、わが国の美術工芸の変遷を知るうえにきわめて重要なものとなっている。

奈良原山経塚

 楢原山は越智郡玉川町にあって、蒼社川の源となる高縄山系の最高峰(一〇四三m)で、その山頂に所在する奈良原神社は同町光林寺所蔵の縁起によれば、大宝元年(七〇一)に文武天皇の勅願により、徳蔵上人の開基された社とされている。また奈良原神社の付近は鎌倉時代から、高縄山・福見山とともに修験道場として知られている。
 昭和九年の夏は雨がなく、田畑は旱魃で農作物は枯死寸前であった。神社の麓にある木地部落の農民たちは、昔からの慣習によって山頂で雨乞い祈願をすることになった。八月二六日に部落の人々はうち連れて山頂に登り雨乞いの場所を清掃している際に経塚を発見したのである。これらの出土品は一括して国宝に指定された。出土品のうち銅宝塔は高さ七一・五㎝、塔身の高さは二五・三㎝、相輪四〇・三㎝で屋根から上は青銅製、九輪頂部の八葉蓮弁と宝珠は金製、筒部は銀製で均整のとれた全体の容姿はわが国の工芸技術が大陸から導入された技術を単に模倣するというこれまでの時代から脱してわが国独自の和様工芸を完成したことを立証し、学術的に貴重な文化遺産であることはいうまでもないが、美術工芸史の上からも画期的なできごとであるといわねばならない。
 銅宝塔のほか、同時出土したものに銅製経筒・銅製鏡・檜扇・青白磁盒子・金銅笄・刀子・銅鈴・鉄鈴・鰐口銅銭などがあるが、これらの出土遺物は発見以来、東京国立博物館が管理保存していたが、地元の町をはじめ県民の多くも里帰りを希望し、鈍川温泉のほとりに収蔵庫を建設し、この場所に収納されている。平安時代のわが国美術工芸の代表的な名品を郷土に保有することは県民の誇りとするところである。

伊豫市大平経塚

 伊豫市大平は、中山、内子を経て大洲市に通じる犬寄峠の入ロにあり、平安、鎌倉時代は仏教文化の栄えたことを裏付ける遺跡や石造美術が残っているところである。小野山という小高い丘に蜜柑園があり、施肥のため穴を掘っている際に発見された経塚で、経筒は青銅鋳造で口経一二㎝、高さ二九㎝の経筒に八巻の経文が納入されていた。筒身には「各為二親/奉入如法経筒/久安六年八月卅日/L氏親遠/藤原氏女/秦氏是延」の如く銘文が刻まれている。
 本県にこれまで発見された経塚出土品で年紀銘のものではこの経筒が初見であり、最古のものとされている。銘文にあるとおり、久安六年(一一五〇)のもので書体は双釣体で毛彫りされ、風格をもつ典型的な平安の書風で筒身の容姿も堂々とした格調をもち、平安時代の和様工芸技術の急速な発展を示す優品である。

石 経

 昭和三八年五月、北条市善応寺字辻の内、大日堂付近で小石に「南尤大日如来」と刻印したものが土中から発見され、県教育委員会が発掘調査したところ、他に法華経を刻印した小石多数を発見した。この付近で前述の金銅誕生仏が出土したということもあって石経の出土も肯定することができる。この石経は緑泥片岩、凝灰岩等の扁平な小石で、いずれも長さ三〇㎝、幅が一五㎝、厚さ二㎝程度の自然石に表裏に三行ないし五行の楷書で刻経されており、一個の小石に平均七〇字、鋭利な金属で刻しているもののようである。調査の結果、二八個の石経を収集した。法華経二八品のすべてを印刻すると実に一二〇〇個の石を必要とする。全部を印刻したのか、それであれば長い年月の間に散失したか、あるいは出土した石経の数を上回る程度しか埋納しなかったか、どちらかの決定的な判断はむつかしい。筆体は同一人の書体もあるが、それぞれ異なるため、不特定多数の人たちの手によって埋納したものであろう。著名の筆跡鑑定家に意見を求めたところ平安時代のものであることは間違いないようである。
 なお本県における経塚の発見例は松山市北斎院町岩子山、松山市興居島、温泉郡中島町大浦、新居浜市郷中、大洲市五郎慶雲寺、東宇和郡野村町松渓、同郡宇和町神領、東予市実報寺、周桑郡小松町新屋敷などが知られている。