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愛媛県史 芸術・文化財(昭和61年1月31日発行)

三 伊予の金工品

 伊予における近世の美術工芸には特記すべきものはあまりない。殊に金工については刀剣を除いて県内各社寺に伝承する遺品などがあげられる。昭和三九年五月、文化庁と県教育委員会の合同で四国霊場を中心とする文化財総合調査の結果、新しく発見した近世の金工品はかなりの数にのぼり、保存保護の措置がそれぞれとられている。
 わが国の金石に関する資料では、大正一〇年一〇月に発行された木崎愛吉著『大日本金石史』全三巻がはじめて学問的体系を樹立し、本県では昭和四〇年に正岡建夫著、愛媛県文化財保護協会発行の『愛媛県金石史』がある。正岡建夫は医業の傍ら、県内をくまなく踏査し、自らの足と眼で二〇年間の年月を費やして集録したのがこの書であるが、著者も結語に述べているごとく、さらに補完されて本県金石史の完成が期待されている。
 華鬘と革籠は松山市和気に所在する札所霊場円明寺の伝世する仏具で荘厳用に必要なものとされ、銅板に蓮華文を透彫とし鍍金を施している。角紐の座に次の銘文が陰刻されている。「予州和気郡、円明寺不出丙子五月吉日施主一空専洲居士」とある。丙子年号は寛永一三年(一六三六)にあたる。同じく同寺に伝世する遺品に華籠がある。華寵は法要の際に華花を盛って散華供養する容器である。ずっと古い時代の遺品に正倉院の所蔵する竹製のものがある。桐板に蓮華文を透彫し、図案化して鍍金したものである。中央の座に五行の銘文があり、「和気村、円明寺不出、施主一空専斉居士、同妻婦、信誉周仰」とあり、年紀銘はないものの前記華鬘を奉納した者と同一人であり寛永一三年の前後に寄進したものであろう。同寺の縁起によれば須賀重久又衛門なる人物が寺の荒廃をなげき、円明寺復興を願って寄進されたものであると伝えている。専斉と同人物であろう。両品ともいずれも優れた技法で美術的にも評価されるものであり、江戸時代初期の金工を知る上で貴重な遺品である。
 円明寺は第五三番札所であり、霊場巡拝の際に納札した慶安三年(一六五〇)の年紀銘の遺品が伝えられている。伊予では最古の納札で縦二四㎝、横九・五㎝の銅板に籠字で三行に刻銘している。「慶安三年京樋口、奉納四国仲遍路同行二人、今月々日平人家次」とあり、慶安三年に京都の人である樋口平人家次が札所を巡拝したと記されている。同行二人というのは弘法大師と同行しているという意味である。
 東予市の長福寺の梵鐘は朝鮮鐘の一種と推定されるが明治初年に京都守禅菴が廃寺されたとき、この長福寺の住職がこの鐘を譲り受けたものと伝えられ、明歴元年(一六五五)に次のように刻銘している。「東山守禅禅菴鐘銘、威音那畔此鐘鳴、今日脱鏌新有情、珎重達磨峯下寺、鯨魚直化野孤聲、明歴元甲午歳正月口日、住持伝法沙門禅海宗俊書、檀越本光院覚智寿才信女」と七行に陰刻されている。
 松山市三津願成寺観音堂の鰐口は寛文一二年(一六七二)の年紀銘がある。既に宝暦年間に記録された『吉田古記』に「宮の谷に新田宮あり、(中略)寛文中の鰐口あり、今は三津浜願成寺に属す」とある。銘文は「豫州吉田領大藤村仁井田大明神、寛文一二壬申年閏六月吉日願主木下仁衛門」とある。江戸時代中期の鋳工技法を知ることができる。
 松山市太山寺本坊の講堂軒下の銅鐘は陽刻されている唐草文や全体の姿など、その技法の優れていることをうかがえる鐘である。銘文によれば松山三津の茂兵衛が寛文一三年に太山寺円光坊に奉納し、三三年後の宝永二年(一七〇五)にその子の茂兵衛正友が京都の出羽大椽に再鋳させて改めて奉納したものである。
 太山寺に伝世している風鐸は本堂や塔の軒下に釣り下げるものであるが、この風鐸は中国からの渡来のもので、わが国の年号延享四年(一七四七)にあたる。松山市大林寺の梵鐘は元禄一六年に鋳造され、長文の銘文がある。