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愛媛県史 芸術・文化財(昭和61年1月31日発行)

四 伊予の陶磁器

概 説

 わが国の陶芸については六古窯をはじめ、九谷、伊万里、肥前、美濃の諸窯など優れた陶磁器については多くの人々によって研究され、評価されている。江戸時代の中頃から庶民の日常雑器の需要が盛んになり、地方においては小規模の窯が築造され、地方色豊かな磁器の焼成がみられるようになった。しかし幕末から明治の初めにかけて、東の瀬戸・西の唐津といわれたごとく、これらの大規模な窯がその量と質において地方の小規模の窯を圧倒し、多くは採算が取れないまま廃窯していった。伊予の諸窯も例外ではなかった。
 昭和四六年、県立美術館において「伊予のやきもの展」を開催し、予想外に多くの来館者をかぞえ郷土のやきものにたいする関心の深さを示した。一年前より県内に所在する窯跡の場所の確認、その窯で焼成された陶磁器の発見と、手さぐりながら人々の協力で明治初年に存在していた窯は三〇窯にのぼっていたことが確認されたのである。その殆どは時代の波に抗すべくもなく窯の煙は消え、今日窯跡は雑草の繁るにまかせて外見だけで窯跡の片鱗をうかがうすべもない。このような情勢のなかで困難な諸条件を克服し、窯の炎を消さなかった砥部焼のみは生き続けて今日の隆盛をみるに至った。また二六焼も伝統を受け継いで今日に至っている。県下では、伊豫市市場に奈良時代の登り窯が発見され、また津島町大黒山その他に平安時代の窯跡が確認されている。文禄・慶長の役後には、朝鮮の陶工たちが日本各地で窯を起こしたが、磁器は元和二年、渡来朝鮮人の「李三平」が初めて焼いたのが起源とされている。
 これらの磁器が、いつのころ伊予に伝わったかは諸説があって俄に断じ難いものの、江戸時代の中期より幕末にかけて肥前地方からその手法が導入されたとみるべきが妥当であろう。
 今日の有田地方の磁器は美術的にもきわめて洗練され、高度の芸術性を保っているが、本県の地方窯で焼成された作品や、窯跡から発見される陶片などから比較してみると、いかにも素朴で稚拙な点、親しみがおいて、郷土の歴史の足跡を肌に感ずるのである。素朴の美というものはこのようなものを指すのであろう。さて伊予の陶磁器について、前記のように昭和四六年に「伊予のやきもの展」開催の際に県内廃窯を踏査した資料に基づいて東予より順を追って述べることにするが、当時から十数年を過ぎているため、それ以降に発見された窯跡もあるかも知れない。

1 東予地方の陶磁器

川之江焼

 天保年間に川之江の御陣屋付近に窯があったので通称「御陣屋焼」ともいわれていた。瀬戸焼風の釉薬を使用して日常雑器を焼成した。明治になって廃窯となったため開窯期間が短く、作品数は少ない。

高野谷焼

川之江市

 天保年間にこの地方の郷士であった三好半兵衛が備前より陶工と土を取り寄せ、窯を築いた。安政の頃、谷友吉が高野谷焼を受け継ぎ、各種の日常雑器を焼成して地元や大阪地方にも製品を取り引きしたが明治になって俄に没落し、廃窯となった。また明治の終わりころ、馬場に天狗窯が開窯したが経営思うにまかせず廃窯となった。

二六焼

伊予三島市

 創始者は佐々木六太郎で代々瓦製造を家業としていたが、陶器生産地を旅して技法を習得し伊予三島に帰って二六焼と称し、人物、静物などを主として焼成し一家をなした。二六焼は今日四代目が受け継いでおり、気品と雅趣に富んだ作品で知られている。

多喜浜焼

新居浜市

 『多喜浜塩田史』によると享保八年(一七二三)に備前の陶工を招いて塩田用樋ガメを焼成したと記されている。それから次第に日常雑器も焼成するようになった。通称多喜浜備前といわれ、焼成技術も優れてよい作品が残っているが、明治の中期に至って閉窯した。

松嵐山焼

西条市

 西条藩に丸山焼が知られており、土は武丈や八堂山のものを用いて、細工物を中心に焼成していたが、明治の初め廃窯となった。昭和の初めにこの窯を復興し、菓子器や茶陶を焼成したがほどなく閉窯した。

丸山焼

西条市

 西条藩のお庭焼で西条焼ともいわれていた。文政年間に藩直営で築窯したと伝えられ、高温で焼きしめるというのが特徴であるため、硬質で優美な作品がのこっており、窯跡も二か所に当時の姿をとどめている。紀洲藩のお庭焼の技法を入れたものと伝えられ、廃藩置県により廃窯となった。

湊山焼

今治市

 文化年間の開窯と伝えられ、その窯跡が残されている。日常雑器の徳利、鉢、皿などの製品が残されている。備前から善助という陶工がきて指導したとも伝えている。

川根焼

丹原町

 御陣屋焼・代官焼の別称があり、松山藩の積極的な応援で、藩窯に準ずる取り扱いであったと伝えられている。文政年間の開窯といわれ、明治まで焼成した。陶工は高松藩より招いたと文献は伝えているが、廃窯の際に陶工たちは全員揃って砥部焼に転職したとも伝えられている。

2 中予地方の陶磁器

松瀬川焼

川内町

 川内町松瀬川の山間に登り窯を築造して染付磁器を中心に焼成された民窯で、船徳利に在銘の嘉永七年(一八五四)の作品が残されており、この時代が松瀬川焼の最盛期であったことは質的にも優品とみられる焼成品が残されていることから推測できる。明治二〇年頃まで窯の炎を絶やさなかったが時代の流れで廃窯となった。松瀬川焼に盛時の時代があったのは砥部焼の刺激や技法の導入があったからであろう。江戸時代に開窯された松山近辺の窯は例外なく砥部焼の影響のあったことは、焼成品に砥部焼の類似品が多いことでうなずかれる。

久谷焼

松山市

 砥部とほど近い久谷の果樹園に窯跡が残っている。砥部焼と殆んど変わらない染付雑器が主体であり、社寺に奉献した香炉や神酒瓶などに文政元年と年紀銘があり、かなり早くから磁器窯として活動していたことがわかる。黒田家文書によれば製陶に従事した陶工の名前や、徒弟生活の様子などが記されており、焼成品はほとんどを黒田家で買い上げていたようである。

西岡焼

重信町

 通称「はりま塚窯」ともいわれ、西岡の和田幸之右衛門という有力者が、文政八年(一八二五)に開窯し、代々受け継がれて明治の頃までの数十年間、焼成を続けた。茶陶や香炉などの高級品から徳利、茶碗類や灯心台の日常雑器、大鉢や大かめなど県内各窯のなかでは各種各様の焼成品をつくっていたようである。ちなみに、『予松御代鑑』は、文政二年に藩主松平定通が当所を巡察した旨を記している。

東野焼

松山市

 寛文年間、松山藩主松平定行が東野に隠棲するにあたり、瀬戸より瀬戸助という陶工を招き、窯を開いたと伝えられる。元禄一五年『道後案内記』によれば、名物は東野焼の茶碗と記されており、また東山神社に奉納の唐獅子の銘に元禄一〇年(一六九七)とあるところから、藩のお庭焼として茶陶を主として焼成した。享保の頃、東野に永井瀬戸助という陶工が松山藩より茶碗匠と呼ばれていたことが伝えられ、松山藩のお庭焼であったことは間違いないものと思われる。

水月焼

松山市

 創始者である好川恒方は画家の馬骨の長男として生まれ、父に日本画を学んだ後、庭に窯を築いて山水、人物などを彫り込んだ花瓶や置物を焼成し、水月焼として一般から珍重された。独特の色彩をだすために釉薬の研究に心血を注いで完成した。現在は好川恒悦がその技法を受け継いで開窯している。なお道後付近には藩政時代の民窯が幾つも存在したものと推測するが、今日その跡を立証するものはない。

砥部焼

砥部町

 幕末の頃には三〇窯も存在した県内の諸窯は明治に至って次第に閉窯していった。東の瀬戸・西の唐津に代表されるように、瀬戸内海に陶磁器を満載した船が往来するようになって地方の民窯は質量ともに圧倒されて軒なみに廃窯していった。こうした時代の流れのなかで砥部焼のみは有形無形の大洲の庇護や伝統産業の根強さなどから窯炎はそのまま今日に引き継がれ、全国著名窯の一つとして発展していったのである。
 このように砥部焼が興隆していった歴史的背景には、遠く原始古代に遡るこの地方の文化にその源流があったことに気付くのである。やきものの町、みかんの里として知られるこの地方のなだらかな丘陵地帯はいたるところ群集古墳が存在し、大下田古墳出土の子持高抔のような工芸的にも優秀とみなされる須恵器焼成の窯跡などから、砥部地方における古代文化が想像され、やきものの里として既にこの時代から素地はあったものといえよう。こうした過程を経て近世に至り、砥部焼が伝統工芸として確立される起源についてはいろいろの説があり、確かな史実は今後の研究を俟たねばなるまい。このうち絵師の伊達幸太郎が明治二八年に『愛媛県伊予国浮穴郡砥部磁器業誌』を記したが、それによると大洲藩主加藤泰候が安永四年(一七七五)に家臣の加藤三郎兵衛に命じて創業を図らせ、安永六年に初めて作品の完成をみたとある。また磁器焼成の起源は、松山城を築城した加藤嘉明が朝鮮の役に出陣し、現地より陶工を連れ帰り、藩の陶工として築窯させたという説もあるが、既にこの頃に磁器を焼成していたという説もある。その他諸説があるが、今後の研究により確たる定説が生まれるよう期待したい。
 いずれにしても砥部焼が紆余曲折の歴史をたどりながらも命脈を保って今日に至ったことは、藩の援助や陶石の豊富であったこともさることながら、砥部焼の草創期における先覚者たちの努力と窯業を受け継いだ人たちが困難な諸条件を克服して使命感に徹した研鑽努力の賜というべきであろう。全国諸窯かずあるなかに砥部焼の存在を誇りと思うが、今後の課題として伝統芸術としての格調を保持する一方、機械工芸による技法と焼成の両者を如何に融合調和させて砥部焼の発展を図っていくかにかかっている。なお、砥部焼については項を改めて記述したいが、近世以降の砥部地方に所在した各窯について列記しておく。
 〈北川毛焼〉 『大洲秘録』によって既に元文年間に砥部焼が焼成されていたという事実が証明され、この地方で最も古い窯として知られる北川毛窯跡から、徳利や鉢物の日常雑器が発見されている。
 〈愛山窯〉 文化一〇年、向井源治が五本松に築窯し、曽孫の二代和平は淡黄磁を創製し砥部焼の発展に大きく寄与した。三代和平は愛山製とよばれる白磁、錦絵などの優品を作ったが大正一一年廃窯。
 〈坂本窯〉 坂本源兵衛が創業した砥部焼屈指の大登窯。坪内家文書によれば嘉永年間には焼成されていた。養子の源吾が継ぎ、その長男源吉、三男守吉と続いたが大正の不況期に廃窯するにいたった。
 〈伊藤五松斎窯〉 五本松の旧庄屋、伊藤允譲が明治のはじめ開窯し、肥前の技法をいれ、芸術的な作品の焼成に研究を重ね、その綿絵製品は貴重な文化遺産として今日に伝えられている。
 〈上原焼〉 五本松上原に築窯した登り窯で砥部の磁器窯では最古のものである。この窯は大洲藩主から下賜されたことから拝領窯とも呼ばれた。歴代藩主の保護を受け藩の御用窯として栄えた。
 大宮八幡宮の神輿の渡御する御旅所の北に位置する登り窯で寛政一二年に上原窯の陶工喜代八が独立して築窯したものである。代々受け継がれ、明治に至って海外に輸出の途をつくった。

江山焼

伊豫市

 郡中湊町の槇鹿蔵が窯を米湊に設けて明治から大正にかけて花器や仏像などの細工ものを焼成し、内外の高い評価を受けたが文人墨客との交遊も多く、江山焼の命名は明治四二年三月、伊藤博文が伊豫市五色浜に来遊の際につけたものである。今日に伝えられている作品はあまり多くないが、伊豫市の民家にかなり残されているようである。伊藤博文の絵付茶碗が市役所に保存されている。しかし、槇鹿蔵一代で後継者のなかったことは残念である。

郡中十錦

伊豫市

 十錦は中国渡来のもので、それぞれの色や文様の異なった一〇個一組の茶碗や酒器をいうのであるが、それを模して寛政年間に伊豫市灘町薬種問屋小谷屋友九郎が開窯したと伝えられるもので、青、黄緑、赤桃、青白、金彩など上絵を厚く塗り、その上に錐花で焼いたものである。色絵の多彩な点、精巧な焼き上がりなどが一般に好評であったため、天保、嘉永、文久の各時代は最盛期であった。明治の初め頃まで窯煙が絶えなかったという。

市場焼

伊豫市

 市場の通称カワラガハナに斜面を利用した有段式の登り窯三基が発見され、調査の結果八世紀頃の登り窯と判明した。全く完全な姿で跡をとどめているのは全国でも珍しい。この付近には未だ開口していない窯が一〇基もある模様である。この窯跡から重孤文軒平瓦や須恵器が発見され、仏教興隆時代の造寺造仏を反映し、伊予においても寺院建設用の瓦がこの窯群で日夜焼成されたものである。

3 南予地方の陶磁器

梁瀬焼

大洲市

 大洲市菅田町大竹に窯跡があり、伊予の窯跡のなかでは比較的古い部類に属する。『世界陶磁全集』第五巻に元禄一一年(一六九八)から宝暦年間まで茶陶を焼成したとあり、「大洲焼または大洲侯お庭焼ともいう」と名称をつけている。青磁に鉄絵が描かれている焼成品が多く、透明な釉薬をつかって白磁に近いもの、赤ドベ釉、紫蘇手のほか赤茶色に焼きしめた備前風のものが見られる。大正時代に大洲窯業が創立され、備前より陶工の草加春陽ほか数人を招いて復興を図ったが不振に終わり廃窯した。これを新梁瀬焼という。

五郎焼

大洲市

 文化年間に大洲藩主加藤泰済公が大洲市五郎に築窯した楽焼窯である。肥前の陶工本田貞吉を招いて焼成技術を研究し、大阪で窯をもっている吉向治兵衛も帰藩して指導にあたった。また明治になって丹波から砥部に来ていた名工平尾雲山父子を招いて染付磁器の研究を図ったが、不況の波に廃窯するほか方途がなかった。

八代焼

八幡浜市

 明治から大正にかけて焼成された伊勢の萬古焼風のもので、徳利、茶碗、鉢ものなどの日常雑器を主として焼成した。その頃の作品が僅かに残っているが窯業期間がきわめて短期間であったので見るべきものは少ない。

宇和島御庭焼

宇和島市

 宇和島二代藩主伊達宗利は元禄年間に隠居の身となり、宇和島城山里菜亭内に楽焼用の窯を築き、京都より陶工を招いて「御庭焼」と称して代々の藩主がこの窯を愛用した。天保の頃京都の陶匠「楽旭山」が来て九代藩主伊達宗徳の頃まで作陶に励んだようである。この窯で建翁以後春山公までの藩主手づくりの茶碗が伝世されている。

三間焼

三間町

 北宇和郡三間町土居中に登り窯の跡が残っている。陶工黒田吉太郎が明治の初めに開窯、明治二〇年頃が最盛期で繁昌したものという。草花文などの染付磁器や、高温で焼きしめた雑器などを焼成していたが明治の終わり頃に廃窯となった。三間町戸雁に都築幸雄の焼成する窯があり、短期間ながしていたが間もなく廃窯した。

御荘焼

御荘町

 菊川焼とか長月焼とも呼ばれた。文化八年(一八一一)紋之助と称する陶工によって開窯したと伝えられ、紋之助の長男の久治兵衛が文政三年(一八二〇)から天保六年(一八三五)まで伊予久谷窯(松山市久谷)で修業し、久谷窯の陶工勇吾を同行して長月に帰り染付を主とする日常雑器を天保九年頃まで焼成し、のちに城辺町緑字西柳井や城辺町豊田(通称シャカダバ)等に窯は転々としたが明治四〇年頃まで続けられたという。

菊間瓦

菊間町

 慶長年間に松山城が築城される頃には菊間瓦は既に焼成され、御用瓦の役目を果たしており、藩政時代には株制度により生産者の数を制限し、職人や原料について藩の保護を受けたが明治になってその恩典は失われ、新生産者が急増し、明治の末から大正の初めには瓦窯を所有する者七五名を数えるに至った。戦前または戦後にかけて好況不況を繰り返してきたが、現在は製造業者六七、年間約三〇億円の業績をあげている。

4 砥部焼の現状と将来

 砥部町はやきものの町としてのイメージが既に定着しており、有田や瀬戸に次いで全国的に磁器の生産地として知られる。現在、三十数窯の窯元が軒をつらねて優れた製品を焼成している。
 砥部焼の起源については諸説があって絶対的な決め手になるものがない。昭和三六年以来、砥部町有志による「砥部窯業史研究会」が創立されて研究が続けられており、近い将来には砥部焼の歴史が解明されることになろう。
 この砥部の地は群集古墳のメッカとしても知られ、蜜柑園には一〇〇㎡に一基の古墳が散在しているといっても過言ではない。昭和四一年の夏に砥部町宮内の大下田古墳に出土した子持高坏は殆ど完形に近いもので、製作技術もきわめて優れた六世紀末か七世紀初頭の須恵器で工芸的にも県内出土の逸品といえるものである。さらに注目すべきは、付近の通谷池付近には須恵器焼成の窯跡が発見され、県の総合運動公園造成中にも何基もの窯跡が発見されている。やきものの里としての歴史的背景が既にこの時代に発生していたといってよい。
 砥部焼の起源は安永四年(一七七五)に磁器創業とされているのが通説となっている。磁器焼成の前に陶器の製産が行われていたことは肥前の陶磁器の歴史的変遷を知るまでもない。元文五年(一七四〇)の『大洲秘録』に大南、北川毛の特産として「陶器茶碗云々」とあり、それを立証する窯跡も発見され、陶片も安永以前のものと認められた。また松山城主加藤嘉明が文禄、慶長の役で朝鮮の陶工を連れ帰ったのが起源であるとの説もあるが、出土品からみて当時にさかのぼるには問題がある。いろいろの諸説を総合してみて享保一四、五年頃を砥部焼の起源とすることが妥当な線ではないかと思われるが、今後の確実な究明を俟ちたい。
 安永年間に磁器焼成が始まり、藩の保護奨励のもとに技術の改良が加えられ、文政八年に肥前から錦絵の技法が導入され、製産量も次第に増大していった。製品は藩に納めるいわゆる上手品も焼成されたが、殆どは一般庶民の日常雑器であった。肥前磁器の強い影響を受けた染付の徳利、碗、皿、壷類で、その区別は一見しただけではつけ難いほどであったが、砥部独自の製品も焼成されるようになった。俗に「くらわんか」と呼ばれる飯茶碗で、高台と形に特色があり、古いものほど高台が大きく安定感の強いもので砥部特産の飯茶碗といえよう。
 さて概説にも述べているように幕末から明治にかけて伊予の窯は三〇窯を数えたが、東の瀬戸と西の肥前に圧倒され急速に廃窯の運命をたどったなかで、ただひとり砥部焼のみは困難な諸条件を克服して生き残り、今日の隆盛をみたわけである。
 明治以後の砥部焼は、技法の進歩に伴ってこれまでの手仕事から機械力による量産と、絵付、淡黄磁器、彫刻などの美術的な作品が伊藤五松斎や向井愛山等の名工によって海外にまで知られる作品を焼成したという二つの方向をたどっていった。こうして明治大正の好不況など試錬の道をたどり、砥部焼中興の祖といわれる梅野武之助をはじめとする関係者一同の努力により、造産量も飛躍的に上昇しつつあることは、県民にとって喜ばしいことであるが、同時に輝かしい伝統を継承する砥部焼の個性を失わない作品の焼成に努めることが、今後さらに発展向上を期する道であろう。

5 愛媛文華館の陶磁器

 今治城堀端に財団法人愛媛文華館がある。創立者である二宮兼一は事業家として各方面に活躍してきた経済人であるが、その傍ら古美術収集家としても知られる。特に日本、中国、朝鮮の古陶磁については数多くの名品を収蔵していることで知られ、昭和三〇年に文華館を創設し、一般の展観に供している。同館の所蔵している館蔵品のなかから代表的なものについて簡単に述べておきたい。

漢 灰釉獣鐶櫛歯文壷

高さ四二㎝、中国では既に殷の時代には灰釉陶が焼成されたといわれる。灰釉の歴史は古い。それだけに釉色もよく、形もしっかり堂々とした姿である。釉薬は、口から肩にかけてかかり、垂直な首の部分では釉がきれ、下腹部以下にも釉がないのが素朴な味わいを出している。

漢 彩陶犬

高さ二二・八㎝、葬礼に用いられるもので、わが国において古墳に副葬品の須恵器や埴輪を埋葬したと同じような意味を持つもので死者の死後の生活のために墓中に入れたものである。犬は「けがれ」を退けるという意味で墓中に入れられたともいう。還元焰で焼成した灰陶に彩色した朱の顔料が落剥し、独特の味を持った姿となった。首と胴につけた革ひもが、飼い犬であることを示している。特に画家の目を引くようである。

六朝 彩陶

文官人俑

高さ三一㎝、漢の時代に焼成された陶器と同じ技法によって、還元焰で焼成した灰黒色の陶胎に顔料で彩色している。六朝の時代でも北朝の北魏のものと思われる。写実主義に徹したこの時代のものらしく、体の線はしなやかで顔の表情も生き生きしている。自国を中華と言うほどに誇り高い漢民族が北方民族に屈したことが、右肩を極端に落とした姿に象徴されているようである。法隆寺の釈迦三尊像と通じるものがある。

隋 白磁龍頭瓶

高さ二四・四㎝、白磁焼成の歴史は六朝時代に始められたものといわれている。唐の時代になると刑州窯で純白の陶器が焼成されるようになるが、この作品は純白の製品をと目指しながら、透明釉の精選・焼成の加減など適当でなく、わずかに青みを帯びている。貫入とともに、それがかえって微妙な味わいを出している。酒注ぎ器であるが、原形は六朝時代揚子江下流地方の越で焼かれた古越州の天鶏壷である。形が簡略化され流麗なやさしい線の響きが出ている。

唐 三彩馬

高さ七六㎝、唐三彩とは中国の唐時代に三彩の色をもつ陶器で、軟質の鉛釉を用い、銅、鉄、コバルトで緑、黄、藍彩を呈色させたもので、八世紀前半に集中的に焼成されたものである。その目的は副葬品とし焼成され、盛唐期に最も盛んに作られたと言うから、この馬も玄宗が焼かせた可能性が強い。三彩馬としては大きい方であるが、姿も力強く貴公子の騎乗馬にふさわしく気品あふれるばかりである。洛陽近郊で最初の一点が発見されて以来一〇〇年足らず、未だにその美は世界の瞠目するところである。当館には、この外、鳳首瓶・らくだなど四点の唐三彩がある。

宋 白釉深鉢

高さ一五・五㎝、一九二〇年に中国河北省南部の鉅鹿において深井戸を掘っている際、偶然に発見したことから、鉅鹿と名付けられた白釉の磁州で焼かれた陶器で日用雑器である。口・高台・斜めに走る鉄銹のある胴部など面白味があり現代作陶家の注目する器である。同じ宋時代磁州窯の名器として評価の高い当館蔵の「黒釉掻落牡丹唐草文瓶」よりも人気があるのは、そのやさしさ・大らかさの中にその秘密があろうか。

北宋 青磁劃花、重圧文皿

径一九㎝、耀州窯の青磁の皿である。青磁は釉に鉄分を含有し、焼成すると青緑色を呈するが中国宋代に優れた作品が多い。この皿は蓮の文様が見事に彫線され、すぐれた優品といわれるが、故意か偶然か端の花びらに落とした黒い鉄斑が一層文様の線を引き締めている。東京国立博物館にほとんど同じ皿があるが、鉄斑もほとんど同じ位置にあるところから見ると、鉄斑は故意につけたアクセントか。砧青磁などより渋い色調が愛される。

明 青花牡丹文盤

径四四・六㎝、明の永楽時代の染付で、景徳鎮で焼かれたものと考えられる。染付いわゆる青花は、元の時代から景徳鎮で盛んに焼かれているが、ペルジスタン(現イラン南部)からのコバルトの輸入が十分で、また染付の技術の進歩により、元時代にはない鮮やかな青の発色を見せている。中国人好みの牡丹を装飾的に置いた優れた意匠で、濃淡の変化も精妙を極めたものである。

明 青花海獣文高足盃

高さ七・七㎝、明の宣徳時代の染付である。永楽よりも精選と洗練が加わり巨大作よりも小形の引き締まったものが多くなったといわれる宣徳の特色がよく出た名品である。高足盃は馬上盃とも称され、出陣に際して馬上で別離の酒を飲み干したものである。そのためであろうか、盃の内面にまじないと考えられるデーバナーガリーと言われる梵字が九字書かれている。

清 乾隆銘、唐草文梅瓶

高さ 三六・三㎝、現代の景徳鎮の磁器に通じる華麗・繊細な文様で、色が闘うとの意の「豆彩」の名に恥じない色の綾を感じることができる。

宋 志野丸壷

高さ 六・四㎝、東山時代将軍義政が選ばせた名品表「東山御物内別帳」の中の一点。最初の所持者が志野宗信であったところからこの名がある。

図4-3 伊予の窯跡分布図(江戸末期)

図4-3 伊予の窯跡分布図(江戸末期)