データベース『えひめの記憶』
愛媛県史 原始・古代Ⅰ(昭和57年3月31日発行)
2 寺院と豪族
(1) 法安寺跡
環境
飛鳥時代創建の法安寺跡(国指定史跡)は中山川にそって形成された後背湿地の平地部に立地し、現在、その周辺は水田地帯となっている。中山川の右岸から約三二五メートル、古代南海道から約二〇〇メートルの距離にある。この周辺の標高は約一〇メートルである。当寺院跡から約一・六キロ南東には七世紀前半の船山古墳群が存在している。
法安寺跡の行政位置は周桑郡小松町北川字長丁であるが、律令制下の奈良時代にあっては周敷郡に属し、豪族多治比氏の盤踞していたところである。多治比氏は仁徳天皇の時代(五世紀前半)に水歯別命(反正天皇)の御名代として蝮部を定めると記された蝮部に関連があろう(古事記)。御名代は皇室の私有民である。「新撰姓氏録」にも多治比瑞歯別命が多治比部を諸国におき、色鳴が丹比部戸を領し、故に丹比連と称したとあり、また、天平宝字八年(七六四)七月、周敷郡の人多治比連真国ら一〇人が周敷連の姓を賜り、同年一〇月には周敷連真国ら二一人が八色の姓のうちで第三位の宿祢をたまわっている。平城宮出土の木簡にも丹比連道万呂戸が白米一俵を貢進していることを記し、また、延喜八年(九〇八)、多治比宗安が周敷郡大領となっている(北山抄)ことなどから、色鳴一族の多治比連が周敷郡にいて、多治比部(蝮部)を統轄していたと思われる。
法安寺は、寺伝によれば旧主布山永寿院法安寺と号し、推古天皇四年(五九六)聖徳太子が伊予行幸の際に創建されたと伝えるが、このころ、多治比部の伴造であった多治比氏らによって建立されたことが想定される。
次に法安寺の遺構について概要をあげる。法安寺跡は本格的な発掘調査がおこなわれていないので詳細は定かでないが、かつて石田茂作によって確認調査が行われているので主としてその資料によって概要を紹介する。
塔跡
方約一二メートル(四〇尺)、高さ約六〇センチ(二尺)の基壇上に一六個の礎石が現存している。礎石は主に緑泥片岩の扁平な自然石を使用しているが、そのうち九個の礎石の上面には柱の中心を示す十字形が刻まれている。礎石は心礎など一部移動した形跡がみられ、四天柱の一つもなくなっている。
柱間寸法は中央間二・三メートル(七尺)、脇間一・九七メートル(六尺五寸)で一辺長約六・〇六メートル(二〇尺)の塔跡である。塔の一辺長二〇尺は法輪寺(奈良)の三重塔とほぼ同じである。建立時期は中央間と脇間の寸法にほとんど差がないことからみて八世紀初期の可能性もある。
金堂跡
塔跡の北方約二八メートル(九三尺)のところに東西約一八メートル(六〇尺)、南北約一二メートル(四〇尺)、高さ九〇センチ(三尺)の方形の基壇が残存し、その上の薬師堂の前に七個、その床下に八個、そして築地下に一個、北隣墓地に一個、都合一七個の関連礎石が確認されている。礎石は上面を平らにしただけの硬質砂岩の自然石で十字形の刻印もなく、堂前の三個を除き、他は移動しているものとみられている。金堂の規模は石田茂作の推計によると、原位置の礎石三個と塔跡の中軸線から東西四五・〇九尺=七・〇五四尺+一〇・三三尺+一〇・三三尺+一〇・三三尺+七・〇五四尺の桁行五間、南北三五・四〇尺=七・〇五四尺+一〇・六五尺+一〇・六五尺+七・〇五四尺の梁間四間と推定されている。中央間が脇間の約一・五倍となっており、また、基壇は正方形(四〇尺×四〇尺)の対角線をもって東西長(六〇尺)にあてた裏尺を採用した可能性がある。裏尺は飛鳥時代から白鳳時代の七世紀代に使用されたものである。
講堂跡
今は現存しないが、金堂跡から約二八メートル(九三尺)北方に礎石が五個あったというが、これを講堂跡に推定している。
中門跡
塔跡の約二七メートル南方に大正四年ごろまで八個の礎石が存していたといわれ、中門跡とみられている。
古瓦埋没層
塔跡の西方約三八メートル(一二六尺)、東方約三七メートル(一二三尺)の所に、塔、金堂の南北軸線に平行して約九〇センチ(三尺)の幅で古瓦が埋没しており伽藍の境界をなす築地か回廊跡と推定されている。
以上の遺構は中門跡、塔跡、金堂跡、講堂跡が南北一直線上に配置されており、四天王寺(大阪)、山田寺(奈良)と同じ伽藍配置であるところから飛鳥時代(七世紀前半)の四天王寺式伽藍配置とみなされている。しかし、塔跡や出土瓦からみると七世紀中葉以後の白鳳時代の伽藍配置とみた方がよいように思われる。
出土瓦
一九種の古瓦が塔跡や金堂跡から出土している。瓦種には軒丸瓦、軒平瓦、棰先瓦、鬼面鬼瓦片、塼などがあり、時代は白鳳時代から平安中期にいたるものである。軒丸瓦は単弁蓮華文と複弁蓮華文があり、このうち単弁蓮華文瓦(1・4)は花弁が八葉で、中房は小さく半球状をなし、周縁は素文である。前者は奈良時代末期から平安時代初期、後者は平安時代中期ごろに比定される。複弁蓮華文瓦(2・3)は花弁が八葉で、花弁中の子葉は断面が凹形をなしている。中房は大きく高く、蓮子は一六顆を配し、周縁は平縁で外区に線鋸歯文を飾っている。白鳳期の法隆寺式にあたるものである。これに伴うとみられる軒平瓦は型引きの四重弧文瓦(5)で、瓦当の両端は三角状に仕上げられている。この重弧文軒平瓦に次ぐものに均整唐草文軒平瓦(7・8)がある。内区の中央部から左右に均整に唐草文が展開し、外区には連珠文を配した奈良時代の軒平瓦がが多い。棰先瓦(9)は複弁蓮華文瓦で径は一三・九センチ。花弁は八葉、中房は大きく、十顆の蓮子が配されている。周縁はなく中央部に釘穴がある。白鳳時代の瓦である。
(2) 来住廃寺
その背景
この法安寺跡に次ぐ古式の古代寺院は松山平野に集中している。松山平野には白鳳時代の古代寺院が八寺院知られているが、この数は国府所在地の今治平野の二寺院に比較して特に注目される現象である。その背景やそのにない手となった豪族層はいかがであったろうか。
和名抄によれば、古代の松山平野には和気郡、温泉郡、久米郡、浮穴郡、風早郡(一部)、伊予郡(一部)があった。郡数は平野の面積とともに県内最高を誇っていた。このうち、古代寺院が分布する郡は温泉郡・久米郡・浮穴郡である。なかでも、奈良時代以前の温泉郡は湯ノ郡といわれ、聖徳太子、舒明天皇・斉明天皇・中大兄皇子・大海人皇人、万葉歌人の山部赤人、額田王らの道後温泉来浴(日本書紀、「伊予国風土記」逸文)が伝えられるなど大和朝廷と密接な関係にあったと思われる。また、天平一九年(七四七)の「法隆寺伽藍縁起并流記資財帳」には伊予国にあった法隆寺の荘園(庄倉)一四ヵ所のうち、温泉郡には三ヵ所あったと記し、天平勝宝四年(七五二)の「造東大寺司牒」によれば東大寺の寺家雑用料として封戸五〇戸が橘樹(立花)郷に存在していた(正倉院文書)。五〇戸といえば大変な戸数で大宝令にいう一里を構成する戸数である。このように温泉郡は法隆寺や東大寺との関係も深かったのである。温泉郡の豪族は伊余国造の部曲であった伊予部が勢力を有していたらしく、その子孫と思われるものに弘仁六年(八一五)の「新撰姓氏録」に記されている伊予部連年嗣や、「小右記」長徳二年(九九六)一〇月条にみられる伊与連時兼らがいた。
久米郡は応神天皇の代に久味国がおかれ、久味国造伊与主命が支配していたという(国造本紀)。天平二〇年(七四八)、天山郷戸主の久米直熊鷹が東大寺に出家を願い出ているが(正倉院文書)、熊鷹は伊与主命の子孫久米氏の一族と考えられる。先述した来目部小楯も有力氏族の一人である。なお、延喜式内社の伊予豆比古命神社は久米氏の崇敬したものであろう。
浮穴郡には浮穴氏がいた。承和元年(八三四)、伊予国人正六位上浮穴直千継が春江宿禰の姓を賜っている(続日本後紀)。浮穴氏の祖は大久米命であり(続日本後紀)、久米氏と同氏族と思われる。この郡にも法隆寺の庄倉が一ヵ所おかれていた(法隆寺伽藍縁起并流記資財帳)。
さて、温泉郡の伊与連、久米郡の久米氏、浮穴郡の浮穴氏などの有力氏族らは大化二年(六四六)の薄葬令により古墳造営を禁止されたため、それに代わる権威の象徴として寺院の造営に努めたことは当時の情勢からして容易にうなずけることである。そして、政治的にも早くから大和朝廷承認の首長墓とみられる前方後円墳が造営され、律令制下にあっては国府が設けられた越智郡(今治市)の諸豪族に対しても何らかの示威活動や対抗措置をとる必要があったであろう。このように松山平野に白鳳期の古代寺院が集中した背景には聖徳太子以来の皇族の道後来浴に示されている朝廷との関係維持、国府が置かれた越智郡基盤の諸豪族に対する焦燥感、広大な松山平野に支えられた生産力の誇示、公民に対する権威の象徴としての寺院建立などの要因があったと思われる。
ところで、八寺院の規模は後でみるように、ほとんど不明であるが全ての寺院が七堂伽藍を完備した大寺院であったとは考え難く、恐らくは「出雲風土記」にみられるように大部分は豪族居館の敷地内に建立された一堂、一塔規模の氏寺であったと推定される。
位置
さて、来住廃寺の発掘調査は、昭和四二年に大山正風によって長隆寺跡として第一次調査が行われたのち、昭年五二年から翌年にかけて第二、三次の調査が松山市教育委員会によって実施された。
和泉砂岩の風化土が堆積した来住舌状台地の西端付近(標高四〇メートル)に位置し、北には悪社川が、南には小野川が西流して石手川に合流している。寺院跡の北西方約一キロの地点には伊予風土記で名高い天山連山があり、遺跡の東方約八五〇メートルのところには久米郡衙推定地の久米窪田Ⅱ遺跡がある。久米窪田Ⅱ遺跡は来住廃寺跡と何らかの関連があったものと推定される。来住廃寺跡の周囲には古代の条里制が残存しているが、廃寺との関連は明らかでない。現在、廃寺跡には黄檗宗派の長隆寺が建っており、その北・東は住宅地、南・西は水田及び畑地となっている。なお、来住廃寺の行政的位置は松山市来住町八五二番地周辺である。
塔跡
塔基壇は九・七五メートル(三二・七尺)四方、高さ約一メートルである。基壇は黄色粘土と灰層を交互に積み重ねる版築技法によって築成されているが、地面を掘り下げ、そこから積み重ねる地下式基壇ではない。
基壇の規模は大和の法隆寺(四二尺)、摂津の四天王寺(三八尺)より小さく、この時期のものとしても小規模といわれる。
基壇上には心礎石、四天柱の礎石二個、側柱の礎石六個の計八個が検出されている。このうち、心礎石を除く礎石は原位置にあり、これから推定して初層は三間四方、一辺総長は五・八二メートル(一九・五尺)、その柱間は一・九四メートル(六・五尺)等間とみられる。
心礎石は東西一・六二メートル、南北一・五五メートル、高さ〇・六メートルの和泉砂岩の切石で、二個を寄せ合わせたものである。両方の石をしばるために切石の南北両端に溝が彫られている。心礎柱座の直径は〇・八メートル、心柱をうける枘穴(柱穴)は直径〇・四二メートルで、枘穴内部には何の造り出しもない枘穴円座式礎石である。心礎石の旧位置については四天柱礎石との関係や基壇の土層の状況から推測して地中にあった地下式心礎石であったと推定されている。他の礎石は長軸一・〇三メートル、短軸〇・七八メートル大の和泉砂岩製の自然石であるが、一個の枘穴式を除き他の礎石は枘穴はなく表面を平らにして研磨しているだけである。礎石の中には火災により剥離しているものもある。
塔の規模は初層一辺長や心礎石の柱座径にもとづいて五重塔、塔高三一メートル前後と推定されている。
講堂跡と雨落溝
講堂跡は、現在の長隆寺本堂、山門、観音堂周辺にあたり、当時の礎石三個と雨落溝が検出されている。
基壇の規模は雨落溝を参考にした推定値であるが、東西二八・八メートル(九七尺)、南北一八・〇メートル(六〇尺)ほどである。基壇は七世紀後半の黒褐色土層の上に黄褐色粘土と暗褐色土を水平に互層に積んでつきかためた版築技法によっている。
高さは〇・五メートル程度と推定されているが、講堂基壇の高さとしては一般的なものである。この基壇上に、第一次調査の段階で西側柱列で三個の花崗岩の小切石礎石とさらにその下に和泉砂岩の自然石を使用した二重礎石の存在が報告されている。この礎石をもとに講堂の規模は、梁間四間で柱間は両端間が一〇尺(二・九八メートル)、中二間が一一尺(三・二七メートル)の総長四二尺(一二・五二メートル)、桁行は七間で柱間は両端間が一〇尺(庇の部分)、中五間が一二尺(または一一尺)の可能性が指摘されている。
基壇外装の化粧石は原位置にはないが、基壇の二七メートル東方に凝灰岩の切石が発見されており、これを化粧石とみなしている。しかし、これにともなう羽目石、地覆石などの石質は明らかでない。
基壇の四辺から約三・〇メートル外方(推定)には雨落溝がめぐっている。この溝は幅〇・七メートルであるが、〇・三メートル大の玉石を側石とし、底石には小石を使用した玉石組雨落溝である。この溝は塔跡の北側にある東西雨落溝に合流している。
僧 房
講堂の西北に位置する桁行八間、梁間三間の東西棟掘立柱建物である。桁行総長は一九・二メートル、梁間総長五・五メートルで方位は真北に対し北で一度東に片寄っている。側柱列、妻側柱列とも柱穴は方一・〇メートル大で、穴底に瓦を置いたものもある。
僧房は全体を四区画に仕切っており、各区画はいずれも桁行二間(四・八メートル)、梁間三間(五・五メートル)の広さでそれぞれが一つの房をなしていたと思われる。各房には床束がみられず、広さ各二五・九平方メートルの土間であったとみなされている。なお、この僧房は回廊柱穴との切り合い(柱穴が重なる状態)関係から回廊に先立って建てられ、回廊が建てられたとき取りこわされたと考えられる。
回 廊
西面回廊と南面回廊にともなう溝が明らかになっている。西面回廊は単廊で南北総長八五メートルまでが確認されている。
回廊は講堂跡、塔跡、金堂跡などの建物周囲を囲んでいるが、さらに北にのびており、この延長部はほかの古代寺院では例をみない伽藍の様相を示している。回廊と各堂宇との取りつき状態は明らかになっていない。建物方位は真北に対して北で一度一四分東に偏している。
桁行の柱間は六尺(一・七九メートル)等間で、梁間も六尺等間である。この柱間の長さから使用尺は、一尺が二九・八センチの唐尺と報告されている。柱穴は〇・八メートル×〇・六メートル大でやや南北に長い長方形のものが多い。
なお、西面回廊の東四メートルの位置にある南北溝は幅二・五メートル、深さ〇・四五メートルをはかるが、この溝は西面回廊に付随するものとみられている。
ところで、これらの伽藍を構成する建物の方位であるが、真北に対して講堂の南北中軸線は北で六度東に、塔跡は北で一度三分東に偏し、また、回廊も北で一度東にずれるなど各建物の方位に若干の相違がみられる。このことは各建物が短期間に同時に完成したものではなく、かなりの年月を経て伽藍を整えていったことを物語っているといえよう。
伽藍と寺域
金堂跡は検出されておらず、その実態は不明であるが、塔跡の東に存在する現在の庫裏周辺がそれに該当するものとみられている。したがって、建物の配置は西に塔跡、それに対置して東に金堂跡、さらにその北方に講堂跡を配するという法隆寺式伽藍となっている。
塔や講堂など各建物の距離関係は、講堂の東西中心線と塔心の距離が二六・六メートル(九〇尺)、講堂の南北中心線と塔心の距離が二二・一メートル(七四・五尺)、講堂心と南面回廊想定位置までの距離が四八メートル(一六〇尺)ほどである。
寺域については南門などの遺構が検出されておらず、その四至は定めがたいが、回廊跡や周囲の地形などから一応一・五町ないし二町四方の寺域が想定されている。
掘立柱建物跡
講堂の北方で寺院建物と重複して、六棟の掘立柱建物跡が明らかになった。そのうち、五棟は桁行六間(一二・九メートル)ないし三間(五・一メートル)、梁間三間(七・二メートル)ないし二間(三・六メートル)の東西棟建物や南北棟建物で柱間はいずれも等間である。方位は真北に対し北で一度ほど東や西にずれている程度である。柱穴は方一メートル、深さ〇・三メートルほどのものが多い。この掘立柱建物跡は七世紀後半の寺院造営に先行する建物群であり、そして建物方位の統一性、方形の柱穴などの特質から一般の建物跡とは考えられず、調査者は来住廃寺を造営した有力氏族、すなわち久米氏の居宅に比定している。このように豪族が自分の居宅に寺院を建立することは、蘇我馬子が石川の宅に仏殿を建立した(日本書紀)ように例のあることであった。なお、来住廃寺跡からはほかに古墳時代の住居跡一基、弥生時代の竪穴住居跡四基などの遺構や遺物が検出されている。
出土遺物
寺院跡関係のものとして瓦類が、寺院造営前のものには弥生式土器、須恵器、土師器などが出土しているがここでは瓦類についてふれておく。
瓦類は軒丸瓦七種、軒平瓦四種、丸瓦、平瓦、鴟尾が出土している。
軒丸瓦には素弁蓮華文瓦、複弁蓮華文瓦、重圏文軒丸瓦がある。素弁一〇弁(一一弁)蓮華文軒丸瓦(1)は、蓮弁が厚肉で中央に稜をつけ、外縁は幅広く高く、端に一本の圏線がめぐらされている。この瓦は来住廃寺創建時のもので、白鳳時代の瓦である。ほかに素弁八弁蓮華文軒丸瓦がある。
複弁蓮華文軒丸瓦は三種類ある。一つは複弁八弁蓮華文軒丸瓦(3)で、内区の蓮弁に外区の線鋸歯文を直接つけたもので、内区、外区間に圏線はない。法隆寺式の系譜を引く白鳳時代の瓦で最も出土例が多い。他は複弁四弁(六弁)蓮華文軒丸瓦(5)であるが、これは平安時代の瓦である。
重圏文軒丸瓦(4)は瓦当面に圏線を二重に配した軒丸瓦で奈良時代に属する。これらに対し、軒平瓦では白鳳時代の重弧文軒平瓦が二種類出土している。箆描きの三重弧文、四重弧文軒平瓦(2)である。顎の形は段顎(深顎)と直線顎である。この重弧文軒平瓦は先の素弁一〇弁蓮華文軒丸瓦とセットになっていたものである。法隆寺式の複弁八弁蓮華文軒丸瓦はこれに多少遅れるものと思われる。素弁一〇弁蓮華文軒丸瓦および法隆寺式復弁八弁蓮華文軒丸瓦はその同笵瓦が湯之町廃寺からも出土している。法隆寺式複弁蓮華文軒丸瓦は、ほかに内代廃寺・中村廃寺(温泉郡)、朝生田廃寺(久米郡)、中ノ子廃寺・上野廃寺(浮穴郡)出土瓦が知られている。
こうした法隆寺式の軒丸瓦の分布については、「法隆寺資財帳」にみえる庄倉と密接な関連をもって分布していることが指摘されている。つまり、法隆寺の庄倉を介して瓦当文様が先の寺院に導入されたということである。丸瓦は二種類あり、段をもつ玉縁瓦と段をもたない行基瓦がある。いずれも内側に布目を付している。
平瓦は裏面の文様から分類すると斜格子・条線・縄目などの文様瓦がある。表面には布目痕を残している。鴟尾は二個体分の寺院など大棟の両端に取りつけた魚形の飾ではあるが、鰭部と腹部の破片が出土している。なお、出土瓦と窯跡との関係は、四重弧文軒平瓦がかわらがはな窯跡(伊予市)、複弁四弁蓮華文軒丸瓦が伽藍登窯跡(温泉郡重信町)、複弁六弁蓮華文瓦が衣山平窯跡(松山市)から出土しており、関連が注目される。土器類には六世紀後半から八世紀前半までの須恵器や土師器の杯、高杯、甕などがある。
来住廃寺(来住町)は松山平野にあっては、温泉郡に属した湯之町廃寺とならぶ最古の寺院であり、また、その所在地が古代久米郡のほぼ中心地に位置しているところから「伊予国風土記」逸文に記された久米寺に比定する見方が有力になっている。来住廃寺の存在が認められる以前には石田茂作がその著書「飛鳥時代寺院址の研究」で中ノ子廃寺を久米寺にあてていた。
(3) その他の寺院跡
湯之町廃寺
松山市道後祝谷一丁目にあり、道後温泉街より北へ約一キロの地点にある。付近の地形は北、東、西の三方に山がせまり、南のみ開けて松山平野を望むことができる。周辺一帯には弥生~縄文時代の土居の段遺跡、祝谷古墳群などがある。古代には温泉郡に属した地域である。
現在は寺域に文教会館が建設され、住宅が密集するなど寺院跡の面影はないが、地籍図と古瓦の出土状況によって寺域は一町四方と推定されている(飛鳥時代寺院址の研究)。
出土瓦は素弁一〇弁蓮華文(1)・複弁八弁蓮華文(2)などの軒丸瓦と重弧文・均整唐草文・波状文などの軒平瓦が出土している。素弁一〇弁蓮華文・複弁八弁蓮華文軒丸瓦は湯之町廃寺出土瓦と同笵である。時代は白鳳時代から平安時代中期までの瓦であり、湯之町廃寺は来住廃寺と同じころに創建されたと推定される。寺院の創建については天徳寺縁起に、推古天皇の法興六年(五九八)、聖徳太子が行啓のさい乎智宿祢益躬とともに建立したと伝え、また「法隆寺伽藍流記資財帳」に、温泉郡に庄倉が二ヵ処ありと記載されていることを根拠に、法隆寺との関連を主張する説もあるが出土遺物から考えると法隆寺の庄倉云々はともかく寺院の創建時期は白鳳時代と考えざるをえない。
中ノ子廃寺
松山市南土居町字中ノ子に所在する。内川に接するタチマチ(太刀持)堰のすぐ北側の台地一帯が廃寺跡とされている。付近は開墾され、水田や畑地になっているが、もと素鵞神社があり、そばにタチマチ庵があったという。明治末年までは方五間、高さ七尺ほどの土壇があり、礎石らしき石が二個存在していたと伝えられる。現在、礎石は五十鈴神社にあり、一個は手水鉢に、他は拝殿のそばにある。両石ともに自然石の上面を平らにしたもので造出しはない。また、開墾時に、土壇中央部の地下から巨大な礎石が発見されたが割られて搬出されたということである。石田茂作はこれを塔跡と推定し、旧タチマチ庵の位置を金堂跡に推定している(飛鳥時代寺院址の研究)。
出土瓦は複弁八弁蓮華文軒丸瓦(1)や忍冬唐草文軒平瓦(2)、均整唐草文軒平瓦である。創建瓦は複弁八弁蓮華文軒丸瓦で、朝生田廃寺の軒丸瓦と同一のものとみられている。石田氏はこの中ノ子廃寺を「伊予国風土記」逸文にある久米寺と推定していた。
内代廃寺
松山市道後上市にある。義安寺の前方にあたり、その付近は瓦が約一町四方にわたって散布している。
出土瓦は法隆寺式の複弁八弁蓮華文軒丸瓦や四重弧文軒平瓦と平安時代中期の弁間の退化した複弁八弁蓮華文軒丸瓦などが知られている。湯之町廃寺同様、白鳳時代から平安時代の中ごろまで存続していたものと思われる。
中村廃寺
廃寺跡は松山市中村四丁目の素鵞神社周辺とされている。推定寺域の大半は宅地化されており、寺院跡のおもかげはほとんど感じられない。
出土瓦には法隆寺式の複弁蓮華文軒丸瓦や顎のない型引(版型)の重弧文軒平瓦がある。白鳳時代に建立されたものであろう。
朝生田廃寺
松山市朝生田町の善宝寺付近一帯に比定されている。近くに小野川が流れ水田も多い地勢である。かつて善宝寺の墓地近辺から掘り出された塔の心礎石は境内におかれている。径一・五メートル、柱座径〇・四五メートル、枘穴径〇・二七メートルの自然石であり、外面には排水用の溝が二本切られている。
出土瓦は奈良県平隆寺出土の複弁八弁蓮華文軒丸瓦と同笵の瓦や、これと組み合わせになる忍冬唐草文軒平瓦などが出土している。ほかには平安時代前半の複弁四弁蓮華文軒丸瓦があるが、この瓦は伽藍窯跡出土の瓦に類似する地方色豊かな軒丸瓦である。
千軒廃寺
松山市高井町土居之内小字千軒に所在する。波賀部大塚古墳の東北方、約三〇〇メートルのところにあり、高井郵便局の東側一帯が寺域に比定されている。明治三〇年代に礎石が六個発見されたと伝えられている。出土瓦は山田寺系の単弁蓮華文軒丸瓦が出土し、寺の系譜が注目される。
上野廃寺
松山市上野町の大宮八幡神社の境内およびその周辺地域が寺院跡に想定されている。廃寺跡の北側近くに重信川が西に流れている。出土瓦は複弁蓮華文軒丸瓦、忍冬唐草文軒平瓦などが知られている。
以上、道後平野に立地した古代寺院は所属した評や郡こそ異なるが、全体で八寺院と数も多く、古代仏教文化の中心的役割を果たしていたことであろう。いずれも七世紀後半の白鳳時代に建立され、平安時代の中期ごろにはほぼ一斉に廃絶している。このことは藤原摂関政治や荘園制の発展に示されているように、律令体制の変質、衰退とともに律令的使命を終えたことを意味していることと思うが、その背景解明には一層の検討を要しよう。また、寺院跡は条里制と無関係とは思われず、この面での調査も必要であろう。
河内廃寺
新居浜市高木町にある。周囲一帯は平地であり、すぐ東側に尻無川が北流している。新居浜平野の古墳時代は中期の金子山古墳の出現から展開されたようである。金子山古墳(西之土居町)は河内廃寺の西南方約七七〇メートルの突端に分布し、市内を見下ろす位置にある。また、河内廃寺の東南方約七七〇メートルの独立丘陵上に古墳時代後期の正光寺山古墳(坂井町)がある。この正光寺山古墳は河内廃寺との関連も考えられる有力豪族の墳墓である。
律令制下の古代には新居郡がおかれ、その郡家は中村本郷に、また、近くの松木には新居駅の存在が想定されている。新居郡はもと神野郡といわれていたが、大同四年(八〇九)に新居郡と改められた(類聚国史)。新居郡には六郷あり、そのうち新居浜平野には新居、井上、嶋山の三郷があった(和名抄)。
律令時代、班田制を円滑に実施するために施行された条里の遺制は国領川のデルタ地帯及び中萩地区に残存している。国領川流域では庄内以北の下流域に、国領川の西部では中村本郷以北に認められる。条里地名は新居浜市宇高に一之坪、二之坪、三之坪などのホノギが南から北にみられる。地割形式は長地型がデルタ周辺に多いが、国領川の西側では中村本郷以北に認められている。条里の方位は松木、本郷付近で北で一五度西を示している。
古代における新居郡の豪族には賀茂氏がいた。「続日本紀」によれば賀茂馬主らが天平宝字二年(七五八)に伊予賀茂の姓を与えられている。
なお、新居郡には八世紀中葉以後、律令制の公地公民制に矛盾する私的な土地私有制度の荘園が存在していた。法隆寺領の庄倉(天平一九年)や東大寺領の新居庄であり、法隆寺の庄倉の所在地は不明であるが、新居庄は国領川以東の船木地区に比定されている。
河内廃寺は条里制の施行された平野部にあるが、その伽藍は明らかでなく、塔跡と思われる礎石が一三個知られているにすぎない。それも礎石が全て当時のものとも思えず、また、すべて移動しているなど、疑問を残している。ともあれ、現存している礎石は長径〇・八〇~一・一〇メートル、短径〇・五〇~一・○五メートル大の自然石である。心礎石は破損しているが、現存長〇・九〇×〇・九五メートル大で枘穴径〇・六〇メートル、深さ七センチの枘穴礎石である。礎石の配置規模(一辺長約五・五メートル)からみて、三重の塔跡が想定される。
出土瓦は素弁蓮華文軒丸瓦(1)、単弁八弁蓮華文軒丸瓦、複弁八弁蓮華文軒丸瓦、均整唐草文軒平瓦(2・3)、斜格子叩き目痕跡を残す平瓦などがある。複弁八弁蓮華文軒丸瓦は中房に魚眼形の蓮子を七個配した、奈良の川原寺式瓦の亜流とみられる瓦である。県下では法隆寺式の瓦が目立つなかで、川原寺系統の瓦の存在は貴重な資料である。
寺伝によれば、延久年中に伊予守頼義が河内国から移し建立したので河内寺と号し、薬師堂がその旧跡であるという。しかし、出土瓦からみた河内廃寺の創建時期は白鳳時代の中ごろとするのが穏当と思われる。
なお、河内廃寺は往時、東西八〇間、南北六〇間の寺域を有し、七堂伽藍を具備していたと伝えるが実態は明らかでない。
5-12 法安寺跡出土瓦拓影 |
5-13 来住廃寺塔跡実測図 |
5-14 来住廃寺塔跡・講堂跡位置図 |
5-15 来住廃寺僧房跡・回廊跡実測図 |
5-16 来住廃寺出土瓦拓影 |
5-17 湯之町廃寺出土瓦拓影 |
5-18 中ノ子廃寺出土瓦拓影 |
5-19 朝生田廃寺出土瓦拓影 |
5-21 河内廃寺出土瓦拓影 |