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愛媛県史 原始・古代Ⅰ(昭和57年3月31日発行)

二 生活用具

 用具の出土状況

 古代の生活用具に関する考古的遺物は極めてすくなく、特に庶民階層の生活用具にいたってはなおさらのことである。その理由は遺跡の発見や調査が不十分なことなどにあろうが、今ひとつには生活用具にしめる木製品の割合が高く、また、木製品はよほどの好条件に恵まれないかぎり腐食により遺存することが少ないことなども考えられる。困難ではあるが出土品から服飾、食器、調度について記述しておこう。

 服 飾

 髪をとくのに櫛を用いるようになったのは飛鳥時代に横櫛が出現してからである。縄文時代以来の縦櫛は一種の髪飾りであり実用的ではなかった。材料にはイスノキやツゲが多かった。
 下駄は古墳時代の石製模造品の中にもみられるが、木製下駄の出土例は六世紀後半以後のことである。形態は現在の下駄と同じであるが、ただ、前鼻緒の位置が左右ともに内側に片寄り、左右の区別がはっきりしているものと現在の下駄のように最初ははき方の左右を区別しない二者がある。後者は八世紀に入って出現した形態である。久米窪田Ⅱ遺跡出土の下駄は前縁が広く、後部は狭い。歯はのみでくり抜いたり、鋸びきでつくった連歯下駄であり、台と歯を別にする差歯の下駄ではない。磨滅しており使用されていたのであろう。前壷が台の中心にある八世紀の下駄で全長一九・六センチ、高さ一・七センチである。
 平安時代の下駄は歯の部分が下方へ向かって広がり、上からみると歯が台からはみ出すようになっている。下駄は畿内やその周辺では一般民衆の老若男女の別なく用いられた形跡があるが、地方での様子ははっきりしない。他のはき物ではわら草履、草鞋があった。

 食 器

 食器には主として木器と土器が用いられた。木器にはロクロを用いた刳りものや檜の薄板でつくる曲物がある。最も一般的な食器は土器であり、それには赤焼きの土師器、灰青色の須恵器がある。飛鳥・白鳳時代以降の食器としては平底の杯、椀、皿、高杯などの器種があった。これら食器の器形は七世紀の中ごろに金属製容器の影響をうけて出現したものである。また、脚に面取りのある高杯は木製品を模倣したものである。
 平城宮跡で出土した宴席の食器セットは、一人につき大小の椀三個と皿二個のセットでこれに数人に対して一個の割合で高杯が加えられている。いずれも土師器である。また、「正倉院文書」によれば、主食を盛る片椀、魚や野菜入りの汁物をいれる羹杯(椀)、醤、未醤、酢などを用いたあえもの杯、盤、塩杯を一セットとしている。このほかに食膳に出される容器としては酒をいれる須恵器の平瓶、瓶などがある。これら食器の用途や名称については宮廷や官庁などではそれぞれに明確な区別をもっていたが庶民の場合はそうではなかったらしい。なお、食事に箸が用いられるようになったのは飛鳥時代以後のことらしく、遺跡からの出土例は七世紀後半のことである。
 食事の回数は二食(朝夕)が普通であったらしい。「枕草子」には大工たちが中食をとるのを珍しがっている光景がみられ、また、平城宮出土の木簡にも鍛冶関係者に「間食一升」を支給したことが記されている。こうした朝夕二回以外の食事を間食といった。
 曲物は厚手の円形底板に檜の薄板を円筒形にまげた側板を桜皮(カバ)で接合した容器である。一般にはこれに蓋がついている。「和名抄」には乎介(おけ)と訓じ、水を容れる器としている。水のほかには食物の運搬にも使用し、今日の民俗資料のワッパ、メンパもこの系統に属する食器である。(5―48)
 (3)の曲物は底板で直径一六・八×一五・八センチ、厚さ一・○センチの板目どりの檜材である。側板と底板を固定するための木釘穴が五か所ある。(1)はふた板で本来はこれに低い側板を桜皮で縫いつけたものである。ふた板は内面の周縁に側板を固定するために切り欠きをいれたものといれないものの二者があるが、これは後者である。推定直径は一八・〇センチ、厚さ〇・六ミリである。蓋、底板ともに剥板であり、やりがんななどで削ったものと思われるが、その刃痕はほとんどみられない。蓋板の内側に切り欠きをいれず、直接側板を桜皮でとじる技法は、一般には八世紀後半から九世紀に多くみられるものである。

 調 度

 調度とは日常生活において使用された道具類のことである。ここでは貴族、官人、僧侶などに使用された硯をとりあげておこう。
 硯の起源は大陸にあり、その後朝鮮を経由してわが国に伝えられた。日本書紀には推古天皇一八年(六一〇)に高句麗僧曇徴が伝えたとある。硯は平安時代の一〇世紀には「すみすり」と称せられ(和名抄)、一〇世紀末から一一世紀初頭にはすずりといわれたらしい(枕草子、源氏物語)。
 円面硯は円形の台脚の上に円形の硯面をつけたものである。中央部に磨墨面の陸があり、外縁の内側には海と呼ぶ溝がめぐらされている。
 風字硯は長方形をしていて、前方のみ縁を欠き、他の三方に外縁をとりつけ、そして、裏面の後方両端に短脚をつけて硯面に傾斜をもたせたものである。当初は円面硯が主流であったらしいが、八世紀ごろから両者が併用されるようになった。これらの硯はそのほとんどが陶質(須恵器)であり、石硯は、中国では唐の時代、日本では中世以後使用されだした。
 県内の古代硯は新居浜市船木のカメ谷窯跡、温泉郡重信町の伽藍窯跡、松山市の久米窪田Ⅱ遺跡・北久米遺跡などから出土している。
 その久米窪田Ⅱ遺跡から出土した硯は円面硯である。右は直径七・〇センチ、中央部の陸部までの高さ五・〇センチ、左は直径七・〇センチの須恵製の小型硯である。いずれも台脚部に方形の透窓をもっている。なお、カメ谷窯跡の硯は三足の円面硯、伽藍窯跡出土の硯は無台の円硯と思われる。
 こうした硯の出土地は宮殿、官衙跡、寺院跡、集落跡、古窯跡などにほぼ限定されており、出土地からみるかぎり、硯は貴族、官人、僧侶など上層階級の者のみが使用しえた遺物ということができる。

5-46 久米窪田Ⅱ遺跡出土の下駄実測図

5-46 久米窪田Ⅱ遺跡出土の下駄実測図


5-48 久米窪田Ⅱ遺跡出土の曲物実測図

5-48 久米窪田Ⅱ遺跡出土の曲物実測図