データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 近世 下(昭和62年2月28日発行)

三 在町・郷村の職人

村の職人

 農村では、農業以外の生産は原則として自給自足の範囲に限られた。商人や職人の農村居住も基本的には禁止され、農具や鍋釜類は城下や在町で購入すべきものであった。しかし商品経済の発達や生活の向上は、農村でも多種の職人の在村居住を必要とするようになるとともに、農業生産だけでは生活出来ない零細農は、農閑稼的な日雇・商業・手工業的生産で補う必要性を生じた。こうして村方でも大工・桶屋・鍛冶などの職人が公認されて株札を交付され、運上を納入するに至った。
 当然ながら村の職人は農業と兼業で、一般に零細であった。職人としての技術も地位も城下職人に比して低く、その従属的関係にあった。城下への進出は藩法や城下の職人仲間から拒否される一方、村方へは出職の形で城下や各地の職人が入り込み、また鋳掛けや桶師など各村を巡回する渡り職人らが、村の職人を圧迫した。村方の職人が自立・独立するのは後期以降である。
 享保期、宇摩地方の幕領の村々では職人の記載のない村が多く、数も職種も少ない(表六-48)。ただ、元禄一四年(一七〇一)「川之江村明細帳」では、同村の職人は紺屋一一・酒屋一五・大工八・鍛冶六・桶屋四・木挽三・傘屋一軒とあって表六-48とはかなり差がある。後期では職人数も多くなり、職種も多様となる。禎瑞は、西条藩主の出資による新興干拓村で、独立自給が建前であったため特に職人が多い。職人は上下の札に応じて冥加金を上納するが、吉田藩の例では村によっても差があった。新株の出願から許可までは数か月もかかり、その間挨拶回りや礼金なども必要とした。吉田藩鶴間浦の瓦師某は、文化三年(一八〇六)一二月、技術をかわれて裃を許され横目次席となった(『吉田町誌』)。

越智島の職人

 松山藩越智島の村々も、近世初期は人口の少ない純農村であった。しかし地方と異なり、田畑の著しく乏しい島方では、人口増は漁業の発展や行商・奉公・船稼ぎなどの出稼ぎで支える必要があった。また天保期では極めて多くの職人がおり、そのうち甘崎村の桶師・大工、野々江・宮浦村の大工など明らかに他領稼ぎを目的とした職人集団がみられる。岩城村の船大工は、同村の造船業の発展によるものである。
 これら職人の役銀は一〇~三月分、四~九月分の二期に大庄屋がまとめて上納した。天保五年(一八三四)三月までの分に対し、月番からの度々の催促にもかかわらず、なかなか集まらず、職人らは逆に作料の増賃を願う状況であった。そのため、同年一一月に規定八七三匁余のうち漸く四五九匁余を納入したにすぎない(岡村御用日記)。ただし、嘉永三年(一八五〇)「岡村職人株改帳」では、同村の職人は家大工五・船大工二・紺屋掛札二・紺屋・鍛冶・桶師・左官各一人の計一三人で表六-54にくらべ倍増している。

在町と職人

 在町は基本的には村方ではあるが、城下町と郷村の中間的存在で、免租地であったり町年寄がいることもあった。
 広域の松山藩では在町一一町の他に周布郡来見・久米郡川上・浮穴郡恵原町など八つの準在町を認めている。今治藩の拝志町は、元和五年(一六一九)に地子を免じられ、町奉行に支配される町場であったが、元禄七年(一六九四)に町年寄を廃し、郷村の扱いとし代官所支配となった。宇和島藩では、村方での商札や職人株の制限は厳しく、農本主義の立場から減少させる方針であった。また郷村では職人と商業の兼営は禁じられたが、在町ではともに自由であった。
 三津・波止浜・長浜などは商人・職人が多く、庄屋とともに町年寄がおり、吉田藩領吉野には町頭がいた。三津は藩の造船場で作事小屋・木挽小屋などがあり、町名にも大工町・西北南大工町があった。大洲藩の外港長浜には船番所・浜番所がおかれ、藩の御船造場があって鍛冶場・細工場・御大工細工場・大鋸場などの作業場があった。これら在郷町の後期以降の発展は、ときとして旧態依然とした城下町の商工業を圧迫することもあった。

職人の出稼ぎ

 職人や奉公人の出稼ぎの禁止は、農業維持を根幹とする近世では、最も基本的政策である筈であった。しかし、諸産業の発達によって町方でぱ労働力不足、村方では人口過剰と生活苦を招き、出稼ぎの容認は必然的な成り行きであった。ただ村方からの出稼ぎ者は、町方内ではその地位も賃金も低く、下手間や下働きなどの下層民群となった。職人の不足は村方でも同様で、今治藩では嘉永五年(一八五二)五月、領内に他村の職人・棟梁を自由に雇ってよいと布告した(椋名柳原家文書)。野間郡高田村(現、菊間町)では、庄屋が村方阿弥陀堂の修築にあたり、他村の大工と交渉して村方大工の抗議を受けている(浜村庄屋文書)。
 百姓の出稼ぎは、前年の一〇~一一月頃に庄屋を通じて藩に願う通例であった。原則として戸主は除かれ、期間は農閑期の一~五月とされたが、これはほとんど形式だけのことであった。松山藩越智島からの出稼者は膨大な数であるが、弘化元年(一八四四)岩城村船稼ぎ二二六人中、一七二人が戸主であった。これら出稼者は火災や風水害など災害の後では特に多くなった。同藩風早島の畑里村の例でも村内職人のほとんどが出稼ぎであった。同島幕領の小浜村でも文化八年(一八一一)に五六人の出稼人がみられ、職人の出稼ぎは島方を中心にもぱや公然のこととなっていたのである。

表6-48 宇摩・新居幕領各村の職人

表6-48 宇摩・新居幕領各村の職人


表6-49 西条領各村の職人の例

表6-49 西条領各村の職人の例


表6-50 宇和島高山浦の職人

表6-50 宇和島高山浦の職人


表6-51 新谷藩今坊村の職人

表6-51 新谷藩今坊村の職人


表6-52 吉田領各村の職人と役銀

表6-52 吉田領各村の職人と役銀


表6-53 風早郡小浜村諸職人外と御礼銀

表6-53 風早郡小浜村諸職人外と御礼銀


表6-54 松山藩越智島の職人

表6-54 松山藩越智島の職人


表6-55 在町の職人分布

表6-55 在町の職人分布


表6-56 松山藩越智島各村の出稼ぎ

表6-56 松山藩越智島各村の出稼ぎ


表6-57 風早郡畑里村の出稼ぎ職人数

表6-57 風早郡畑里村の出稼ぎ職人数