データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 近世 下(昭和62年2月28日発行)

五 安政の大獄と宗城の隠居

日米修好通商条約と将軍後継者問題

 安政元年(一八五四)一月再び来航したペリーは、軍艦七艘を背景に幕府を威圧して、同年三月三日に日米和親条約(神奈川条約)を締結することに成功した。これより前に幕府は漂流民保護・薪水食料の給与は認め、通商条約は拒絶する方針を固めており、交渉もその線で進められた。和親条約には、下田・箱館二港を開き、うち下田へ領事を置くこと、米国に最恵国待遇を与えることが取り決められていたから、ペリーは大満足であったという。幕府はこれに次いでイギリス・ロシア・オランダとも、ほぼ同様の条約を結んだ。
 安政三年下田に米駐日総領事ハリスが着任して通商条約交渉を開始したころ、福井藩主松平慶永は、徳川斉昭の子慶喜を病弱な将軍家定の後継者に推そうとして尾張の徳川慶恕をはじめ各地の有力大名に働きかけた。伊達宗城は徳川斉昭と親しく、天保一〇年(一八三九)には斉昭の娘賢姫との婚約が成立した。この婚約は賢姫の急死で実現しなかったが、徳川斉昭との親密な関係は持続したから、宗城は開国論者の養父宗紀とは意見を異にしていた。ただし西洋の近代的軍備の導入という点では完全に一致していた。
 また宗城は老中阿部正弘(福山藩主)とも親交があり、正弘に協力して土佐藩主山内豊信や薩摩藩主島津斉彬の就封についても尽力した。正弘ののち老中首座となった堀田正睦(佐倉藩主)は、条約問題と将軍継嗣問題について処理に苦しみ、天皇の勅許を受けることで解決しようと上京したが、勅許を得ることに失敗した。こうした中で大老に就任したのが井伊直弼である。

宗城の昨夢記事

 将軍継嗣問題と条約勅許間題言幕閣や諸大名の議論が沸騰している中で、彦根藩主井伊直弼が大老に就任して独裁をするわけであるが、このような情況下では、言動は隠密裡に行う必要があった。『藍山公記』の安政五年の記事に「昨夢記事」と題するものが散見されるのもそうした背景からであろう。
 宗城が夢を見たという設定で書いているのであるが、意識的に別の日付を書いたと思われる月日はともかくとして内容についてはかなり正確に宗城の思想・行動を知ることができる。以下参考のために記事一・二の大要を掲げてみよう。

 ○一一日橋本左内京都より帰る。一三日越前侯(松平慶永)と一橋卿との意見をIにせんために平岡円四郎、橋本左内の許にて談合(安政五年四月一四日条)。

 この記事は、宗城が将軍後継者として一橋慶喜を推薦するため松平慶永と秘密裡に交渉したことを記している。井伊直弼が大老に就任する前後からは、自分を伊達遠江守と表現するように変化して来ている。

 ○当今の形勢に熟達せずして固陋(古い習慣に固執して、新しいことをきらう)の意見を立たりしぱ全く拙者の誤にて候(中略)最早異議に及ぶべからず、墨夷(アノリカ)の方は御条約通り御済せにて、内地変通の御改革これあり、つづまる所必戦の覚悟を立るより外に神州(日本)を保存し、叡慮を安んすべき策はこれあるまじく(同一九日条)

 宗城が従来の攘夷論から、条約容認・軍備強化(この点は従来通り)に転じたことを物語る記事である。井伊直弼の大老就任については、松平慶永へ手紙を出した夢として、

 ○昨日は四谷調練延引に付登城候処、御大老出来驚人中候、いかなる性質にや、(同二四日条)

と、幕閣中でもそれほど英名の高くない(但し一橋派内における直弼評)直弼の登場に驚いている。

安政の大獄

 大老に就任した井伊直弼は、政敵徳川斉昭の子慶喜を将軍後継者とすることには反対であり、早くから朝廷に働きかけて慶喜を将軍の継嗣とするような内勅が出ないように、家臣長野義言(主膳)を京都に派遣していた。また条約問題については勅許を得べく画策したが、徳川斉昭らの一橋派が朝廷内を勅許反対で固めることに成功したため、井伊直弼を後援した九条関白も形勢を逆転することはできなかった。
 直弼は条約調印問題については三家・諸大名の意見を徴して改めて勅裁を求めよ、との勅諚を無視してハリスとの交渉を進め、六月一九日に日米修好通商条約に調印した。無勅許調印を憤った徳川斉昭・徳川慶恕は六月二四日突然登城して直弼を難詰すると共に、将軍後継者として慶喜を擁立せよと迫った。これに対し直弼は翌二五目和歌山藩主徳川慶福(家茂)を将軍後継者に決定した旨を公表し、徳川斉昭には謹慎、徳川慶恕・松平慶永には謹慎・隠居を、また一橋慶喜には登城停止を命じた。
 こうした圧力にもかかわらず、徳川斉昭派は朝廷工作に成功し、八月八日には違勅調印及び徳川斉昭・慶恕処罰を詰問し、大老・老中らは三家・三卿・家門・列藩と群議評定して徳川家を扶助し、内を整えて外夷の侮りを受けぬようにせよ、との勅諚が水戸藩に下った。これは伊達宗城と親しい福井前藩主松平慶永の意を受けて京に潜入していた梅田雲浜らの画策によるものであった。
 直弼は水戸派(一橋派)の弾圧を決意し、京都・江戸で四〇名余の廷臣の家臣や一橋派の志士を逮捕した。また地方にも追求の手が伸び、幕吏に追われた僧月照が鹿児島湾に入水して死亡し、萩では吉田松陰が幽閉された。彼らの処分は厳しく吉田松陰は江戸に送られて死罪となり、梅田雲浜は獄死した。宇和島藩の吉見長左衛門は重追放に処せられるなど処分された者は一〇〇名を越した。
 諸侯で処罰された者は、徳川斉昭が国許永塾居、徳川慶篤は差控、一橋慶喜が隠居・慎、山内豊信が慎となった。

宗城の隠居

 安政五年(一八五八)九月から始まった井伊直弼の一橋派弾圧が京都ばかりでなく、江戸にも及び元三条家の家臣飯泉喜内が逮捕された九月一七日、宇和島前藩主伊達宗紀は直弼の呼び出しを受けた。直弼は宗紀に対し伊達宗城の行動を不適当なものであるとして隠居を勧めるよう迫った。その概要は、

 ① 勅使三条実万が参向した際に山内豊信の所に招いたのは、近親(山内豊信の正室は三条実万の養女)であるから特に問題のある行動とはいえないが、宗城が豊信邸へ赴いて実万と書簡のやりとりをしたことは大変粗忽な行為である。現今のように水戸・越前をはじめ、しきりに京師(朝廷)に働きかけている状況であるから捨て置きがたい。このたび間部下総守詮勝(老中)を上京させて調査するつもりであるが、もし何か露顕した場合には伊達家の家名に傷が付くことになる。今のうちに病気を理由として隠居を願い出るように。宗城が隠居すれば、万一京都へ何らかの働きかけをしていたにしても不問にする。
 ② 先日宗城が登城の際に小銃を持参して営中(幕府)の人々に見せたとのこと、もっての外の行為である。
 ③ また過日朝廷が水戸藩などに下したという勅諚は、偽作であり、勅諭としての文体ではないところから、伊達宗城の草稿ではないかとの風聞が立っている。

以上の三項目であった。宗紀は非常に驚き、勅諚草稿作成の件は有るはずのないことであると否定したが、宗城と相談して決断させる方向で話を進める、と答えて退去した。この話は吉見長左衛門・桜田数馬にも伝わった。
 一九日、直弼から決断をうながす書状が届いたため、事態の切迫に驚いた桜田数馬は早速宗城にこの旨を伝えたところ、宗城は勅諚草稿の件を強く否定し、他の件については表面上はそのように見えることを肯定した。隠居の件については、その必要はないが毒蛇に見入られたようなものであるから、今回は納まったにしても、次には何の奸策をもって落とし入れようとするかもわからない。誘われたのを幸い退隠して傍観するのもよかろう、と答え、また伊達家に傷をつけることは自分の本意でないことを宗紀に伝えるつもりであると話した。
 宗紀は、宗城から諸般の事情を聞いて直弼と会談し、先日の三項目について次のように弁明した。

 ① 宗城が三条実万と面会したのは事実である。しかし書状は三月二五日付で大坂より出したもので、幕府に調査されても都合の悪いものではない。
  ② 小筒持参の件も事実であるが、子供の遊びのようなもので他意はない。しかし気配りが不足であった。
  ③ 勅諚の件は全く事実無根である。以上のようであるから隠居するには家臣を納得させる理由が必要である。

 これに対して直弼は、文通したという事実をもって幕府の閣老は、水戸・尾張・越前・宇和島・土佐は同類であると信じ込んでいるから、早く隠居すべきであると迫った。宗紀は隠居の時期を少しでも後へ延ばそうと努力したが効を奏さなかった。会談中直弼は井伊家と伊達家が親戚である(初代秀宗の正室亀姫は井伊直政の女)ことなどを持ち出し、強圧的手段でなく、親切で隠居を勧めているのだと強調している。
 結局宗城は安政五年一一月二三日に隠居して伊予守と称し、九代藩主として宗紀の三男宗徳が襲封することになるが、この間宗紀は山内豊信への隠居工作を依頼されたり(山内豊信は翌六年二月隠居・閉門を命じられた)多忙を極めた(伊達文化保存会稿本「宗城公御隠居之件。付春山公へ井伊大老ヨリ密談始末」)。
 宗城は隠居した後も藩政に影響力を持ち、富国強兵策を推し進め、井伊直弼が万延元年(一八六〇)三月桜田門外の変で没してから以後は行動を制約する者もなく、幕末の政局で重きをなすに至った。

吉見長左衛門

 ペリー来航以来、伊達宗城の意を受けて国事行為に奔走したのは吉見長左衛門(一八一七~一八七五)である。彼は左膳と称していたが、天保一一年(一八四〇)三月二日父が老齢を理由に隠居を願い出たため、家督三〇七石を相続し、長左衛門と称するに至った。七代宗紀の時代である。
 長左衛門は高野長英が脱獄して各地に潜伏した時、伊達宗城の意を受けて彼を伊東瑞渓と改名させて、宇和島藩医富沢礼中(大眠)に託して宇和島に送り、蘭学教授・兵書の翻訳・砲台築造などに従事させるために画策した。またペリーが来航した時には、現地に赴いて実況を宗城に報告している。宇和島では藩財政の再建や海防の充実に尽力していたが、安政五年(一八五八)からは江戸において、将軍継嗣問題・条約勅許問題について一橋派として活動していた藩主宗城の片腕として奔走した。宗城が井伊直弼によって隠居に追い込まれようとした時にも、長左衛門は、幕府に逆らうよりも宗徳に家督を譲って、これまで通りの政治(富国強兵)を実施するほうが良い、と進言している。
 長左衛門の国事行為についての詳細は資料が十分でないため明らかにすることができないが、安政六年八月二七日・一〇月七日・同二七日の三回に分けて行われた志士の断罪において獄門(鵜飼幸吉)・死罪(茅根伊予介・鵜飼吉左衛門・橋本左内・頼三樹三郎・飯泉喜内・吉田松陰)・切腹(安島帯刀)・遠島(鮎沢伊太夫・小林良典・六物空万)に次ぐ重追放(以下、中追放・永押込・押込・所払)という処分であったから、一〇〇人余の処分を受けた人々の中では水戸・福井藩士などに次ぐ活動家であると目されていたことが知られる(前述の処分者以外で重要な役割を果たした人物に、獄中で病死した日下部伊三次・梅田雲浜、逮捕寸前に病死した梁川星巌がいた)。
 重追放とは、武士の場合には関八州・山城・摂津・和泉・大和・肥前・東海道筋・木曽路筋・甲斐・駿河および犯罪国と住国への立ち入りを禁じられ、庶民の場合には江戸一〇里四方・犯罪地・住国を追放され、ともに田畑・家屋敷を没収されるものであった。伊達宗城は長左衛門を伊能(伊達家忠能の臣の意味)と改称させて、その労をねぎらった。
 吉見長左衛門が重追放になった結果、吉見の家名は断絶し家屋は没収となるわけであるが、宇和島藩では長左衛門の養子英次郎(三輪清助の二男)に跡目を継がせ、三〇七石を与えて屋敷もそのまま英次郎に与えた。また姓についても吉見は都合が悪いため、伊能英次郎と名乗らせた。
 井伊直弼が暗殺された後、万延元年一一月七日吉見長左衛門(当時伊能松陰)は若年寄隠居並の取り扱いとなり、外出も自由となった。その後文久元年(一八六一)には隠居料として七人扶持を与えられることになり(当時は伊能下野と称していた)藩に対する献上物も差し出して良いことになり、同年一〇月一七日には若年寄役を命じられて完全に復権することになった。同年一二月二七日には幕府からも旧姓に復帰しても良い旨指示があった。
 長左衛門はその後文久三年には軍政改革を担当し、明治元年(一八六八)には執政となり、三年に退隠(隠居後友鴎と称す)した。

須藤段右衛門と林玖十郎

 吉見長左衛門と共に宗城の手足となって国事行為に奔走したのは須藤段右衛門と林玖十郎(得能亜斯登)である。段右衛門は長左衛門と共に活躍し、玖十郎は長左衛門が重追放になって後登用された。
 段右衛門は嘉永四年「分限帳」に高一五〇石と記されている。彼は文化一四年(一八一七)家督を相続し、児小姓・近習を経て弘化二年(一八四五)目付兼軍役兼帯を命じられ、嘉永六年(一八五三)のペリー来航以後江戸に出て活動、薩摩・長崎・筑前・福岡へも往来した(前述、軍艦雛形の項参照)。
 林玖十郎は家禄八〇石、幼少より藩士鈴木和太夫・久留米藩士津田氏に師事して剣を学び皆伝を得た。彼は安政二年(一八五五)に家督を相続し、吉見長左衛門が重追放となって後、小姓となって宗城の密使として活動した。村田蔵六・坂本竜馬らとも交わり、慶応三年(一八六七)の大政奉還に際しては、土佐藩との連絡に当たっている。明治元年一月新政府の参与、二月官軍の参謀となり、同二年箱館府権判事となったが病気のため辞職した。

隠居後の宗城

 宗城の藩主としての在職期間はわずかに一四年間であったが、彼は隠居後も藩政を後見し公武合体運動と大政奉還に尽力している。隠居後の宗城が活動を再開するのは文久二年(一八六二)である。安政の大獄によって反対派を一掃し独裁権力を確立したかに見えた井伊直弼が万延元年(一八六〇)三月三日桜田門外の変で横死すると、老中安藤信正(もと信睦)は公武合体策をとり、直弼の遺策であった和宮降嫁を朝廷に働きかけ、文久二年二月家茂と和宮の婚礼にこぎつけた。和宮の降嫁が決定したのは文久元年八月一八日であるが、孝明天皇は降嫁の条件として条約破棄または攘夷実行を提示し、幕府が条件を了承したため一〇月一八日正式に勅許した。こうした背景があったため、安政大獄で弾圧されていた徳川慶恕・一橋慶喜・松平慶永・山内豊信は慎を解かれることになった(九月四日)。尊攘派による外国人襲撃事件が多発するのはこのころからである。
 宗城は文久二年一二月上京、翌三年二月幕政参謀を命じられ、三月一一日の孝明天皇の加茂社行幸の先駆を勤めたが、攘夷実行が五月一〇日と決定されたため四月一三日に帰国した。このころ長州を中心とする尊攘派の勢力は朝廷内で勢力を拡大し、孝明天皇に攘夷親征の詔を出させることに成功している。
 尊攘派の台頭に対し、薩摩藩主の父島津久光は勅使大原重徳と共に江戸に赴き、幕政改革を実施させて一橋慶喜を将軍後見職・越前前藩主松平慶永を政事総裁職に任命させることに成功し、さらに文久三年八月一八日の政変では会津藩と協力して尊攘派勢力を京都から一掃することに成功した。
 伊達宗城は公武合体派として行動し、同年一二月一橋慶喜・松平慶永・松平容保(会津)・山内豊信(土佐)・島津久光(薩摩、久光のみ任命は一月)と共に朝議参予に任命されて朝廷の会議に参加することになった。この参予会議は公武合体・雄藩連合構想が制度化された最初であり、この六人が実質的に国家意志を決定する権限を持つことになったわけであるから、宇和島藩としては画期的な出来事であった。
 しかし、この参予会議は幕府と薩摩の対立によって元治元年(一八六四)三月九日崩壊し、宗城は参予を免ぜられた。公武合体運動は再び機能することはなく、わずかにその精神が公議政体論に引き継がれたのみである。
 宗城は同年四月九日左近衛権少将となり、一七日には従四位上に叙せられた。彼は第一次・第二次長州征討の後、慶応三年三月に一五代将軍徳川慶喜が兵庫開港勅許を再三要請し、英・仏・蘭に開港実施を公約したことなどから上京を命じられ、四月一五日上京して八月二三日帰国した。この間朝議は紛糾したが、結局五月二四日勅許することで落着している。
 同年一〇月一四日討幕の密勅が薩・長に下ったが、同日徳川慶喜が大政奉還の上表文を朝廷に提出した。朝廷では翌日大政奉還を勅許し、二〇日には慶喜を参内させて朝議を開くとともに在京諸藩の重臣六〇人余に諮詢し、善後措置を協議したが容易に結論が出ず、二二日しばらくの間庶政を慶喜に一任するとの通達が出された。
 慶応三年一二月九日の小御所会議で王政復古の大号令が出され、慶喜にぱ辞官・納地が命じられて、ここに江戸幕府は名実ともにその支配権を失うに至った。宗城はこうした大混乱の続く中で一二月二三日に入京、同二八日新政府の議定職となり、慶応四年(一八六八)一月三日軍事参謀・二一日外国掛・一七日外国事務総督兼任(二二日には大坂鎮台を督している)・二七日大坂裁判所副総督・二月二〇日議定職兼外国事務輔・二一日外国官知事・五月一〇日参議・従三位となっている。その後権中納言・従二位となり、明治二年五月議定職を罷めたが同年九月民部卿兼大蔵卿となり、終身禄一二月二〇日七五歳で没した(「正二位公御履歴」)。