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愛媛県史 近世 下(昭和62年2月28日発行)

一 王政復古と諸藩

大政奉還

 慶応二年(一八六六)は、災害や物価高騰に加え、第二次長州征討による庶民の不満と動揺は激しく、各所で暴動が多発した。天皇や将軍の急死、政治路線をめぐる幕閣の分裂も、人心離反の大きな原因であった。翌年五月の四侯(薩摩の島津久光・宇和島の伊達宗城・高知の山内豊信・福井の松平慶永)会議の分裂から台頭したのは、高知藩を中心とする大政奉還派である。これは同会議で、倒幕派の薩長の後退によって表面化したもので、いわば大衆の蜂起を恐れる妥協的な収拾策であった。
 高知藩は慶応二年二月に開成館を設けて富国強兵策を強化し、長崎の土佐商会を通じて国産品を輸出し武器を購入した。藩論の中心は武市瑞山らの尊攘派土佐勤王党を押さえた後藤象二郎らの開明改革派であった。坂本龍馬はかねての公議政体論を長崎で象二郎に説き、両者合意の新体制「船中八策」を西郷・大久保らに示し、薩土盟約を結んだ。盟約の骨子は将軍が政権を奉還して諸侯と同列になること、京都に上下の議事院を設置して立法を行うこと、兵庫で貿易に関する新条約を結ぶことなどであった。なお芸州の辻将曹や若年寄格の永井尚志らとも打ち合わせをしている。
 山内豊信による将軍への奉還勧告の準備は七月からであった。同藩は薩長の機先を制し、藩内では再び高揚をみせる討幕派を押さえる必要があった。九月上旬、豊信の命によって建白書を持って上京した象二郎は、一〇月三日同書を老中板倉勝静に示し、「公明正大ノ道理ニ帰シ、天下万民ト共ニ皇国数百年ノ国体ヲ一変シ、至誠ヲ以万国ニ接シ、王制復古ノ業ヲ建テサルヘカラサルノ一大機会」(「土佐藩政録」)、と慶喜の英断を求めた。一〇月一四日慶喜は大政奉還の上表を朝廷に提出し、翌日朝廷はこれを受理した。そこで豊信は、上京し、討幕派に対抗して、徳川家存続の努力を続けた。
 慶喜は一〇月二四日に将軍職の辞表を提出した。パークスは奉還をほめ、諸大名もこれにならっての強力な中央政府の成立を期待した。しかし慶喜の意図は、フランス公使ロッシュの力説もあって、パークスとも、高知藩の公議政体論とも異なっていた。すなわち幕政は朝廷に返上するが自らは大名で構成する上院の議長となって、下院の解散権を握り、更には政府が軍をも統轄するという、いわば絶対主義的な一元的体制によって、旧幕府と譜代勢力の回復・強化を図ろうとするものであった。

奉還と宇和島藩

 幕府を窮地に追い込むための四侯会議の決裂後も、宇和島前藩主の伊達宗城はしばらく滞京した。六月中旬には大政奉還案を掲げる後藤象二郎と会い、これに賛意を示し、七月には奉還策の全面的支持、藩主豊信の上京を促す旨の書を土佐へ送った。このころ宗城は藩士上甲貞一を派遣し、土佐の藩状を調査している。しかし自らは八月に帰藩し、奉還には藩士都築荘蔵を参画させ、都築は一〇月一三日の建白の際に後藤・小松帯刀ら四人と共に列席した。
 翌一四日、奉還の奉請を許可する式順の決定、朝議の衆議などのため一〇万石以上の諸侯を召すよう岩倉の伝奏があり、特に宗城ら薩芸上越宇の五藩主には強い要請があった。しかし再三の督促にも拘らず宗城はなかなか動かず、宇和島を発つだのは王政復古後の一二月一九日であり、入京は薩摩・会津の対立が緊迫化した二三日であった。二八日宗城は遅ればせながら議定に任命され、土佐と共に薩長と旧幕間の調停を図ろうとしたが、時すでに遅く、数日後に鳥羽伏見の戦いが始まった。
 慶応四年一月三日、宗城は総裁嘉彰親王の下に軍事参謀となったが、同月四日旧幕府征討にっいては列藩の会議を尽くすべきであると反対し、東寺出馬命令を拒否し、五日には参謀を辞任した。宗城は、慶喜の恭順は明白であり追討は冤罪である、戦意は薩長のみにあって他藩には無し、とみたためである(「宗城在京日記」)。宗城は一月一二日外国事務局輔に任じられ、同二二日大坂鎮台外国事務を兼任した。二七日大坂鎮台が大坂裁判所となりその総督輔として都築荘蔵・桜田大助ら藩士一〇名らと執務し、以降主として各国公使との折衝など新政府の外交面を担当した。

王政復古のクーデター

 大政奉還と同じ一〇月一四日には、討幕の密勅が薩長二藩に下った。朝廷内の王政復古運動の中心は岩倉具視で、四侯会議の失敗や国内の混乱をみてその時期と判断し、薩摩の大久保利通と接触した。倒幕のない、形ばかりの復古に満足せぬ薩摩藩は、時の主流である高知藩の奉還策や廃幕反対に止むなく同意しながらも、他方では武力討幕の計画も進めていた。大久保は九月一日に長州と出兵の盟約を結び、二〇日には長州と芸州間にも盟約が結ばれた。一〇月初めには岩倉・大久保らは王政復古の策をねり、国学者の玉松操に、討幕の密勅を起草させた。
 この密勅によって一一月二三日薩摩藩兵三、〇〇〇人が入京し、月末には長州兵一、二〇〇人も西宮に滞陣した。芸州兵は先発四三六人が一〇月一六日、歩兵一大隊が一一月三〇日宇品を出航した。討幕派は公武合体派の高知・福井・尾張三藩へも工作し、一部妥協しながら計画を進めた。これら六藩の軍事力を背景に、クーデター決行の一二月九日、王政復古に関する重要会議が、慶喜不在のまま小御所で開かれた。会議では慶喜の処分について激しい論議がかわされたが、結局幕府を廃し総裁・議定・参与の三職政治とすること、慶喜には辞官納地を要求する事などが決した。
 しかし老中以下旧幕臣らの憤激は甚だしく、慶喜は即答をさけて二条城を引き払い、大坂城に退去した。大久保らは、慶喜が大坂城を拠点に勢力挽回を図るものとみて、更に追討方策をねった。

王政復古と伊予諸藩

 大政奉還の上表提出の翌一五日、慶喜は衆議を尽くし皇国の維持を図るとして各藩主に上京を求めた。しかしその後政局の急変もあってこれに応じる藩は少なく、各藩は自藩の軍備の近代化や財政再建策を進めて独自の行動をとった。今治藩も幕命には応じず、一一月二二日の朝廷からの召命に対しては病気の藩主勝吉(定法)に代わって服部正弘が上京し、一二月二三日に在坂中の同族松平定昭、同定敬らに会った後、二八日に参内した。
 松山藩では慶応三年(一八六七)九月二〇日、病気の勝成に代わって二三歳の定昭が一四代藩主を相続した。定昭は二三日には老中職を命じられ、奉還直前の多難な幕政を担当することになった。定昭は翌二四日、家督後間もなくしばらくは藩内の武備に専念したいと、老中職の辞退を願ったが許されず、奉還四日後の一〇月一九日になってようやく許された。しかし定昭の帰藩は許されず、京の守衛を命じられてそのまま滞京した(「松山藩布告留」)。王政復古後は、朝廷への断わりの願書を提出して、下坂する慶喜を警衛して一二月一三日着坂した。二三日御所から至急上京の命があったが、定昭は持病の悪化を理由として松下小源太を上京させた。また前藩主勝成も藩内の穏健派勢力を代表して自ら上京し、朝廷警衛に当たりたい旨の嘆願書を提出した。
 慶応四年一月三日、定昭は老中から摂津梅田村(現、大阪市)付近の警衛を命じられ、藩士三〇〇人を配置した。しかし鳥羽伏見の戦いの敗戦により慶喜は大坂を退去し、定昭も朝廷に対しては少しも異心のない旨の届書を提出して七日に堺を発ち、一一日の早朝に帰城した。しかし一月八日、松山藩は禁門の出入が禁じられ、一〇日には慶喜に従った反逆の罪により、定昭は官位と屋敷を奪われ、兵士は京追放となった(『愛媛県編年史』9)。定昭は一〇日・一一日と、一兵卒も戦いの妄挙に参加してない旨を上表したが、朝敵としての追討令は撤回されなかった。
 大洲・新谷両藩は、使者の往来によって土佐・長州と友好を深めていた。慶応二年六月、大洲藩は幕府から兵庫表(西宮)の警衛を命じられ、三年七月には総督中村俊治以下二〇一人の新鋭部隊が駐屯していた。しかし討幕の密勅によって薩・長・芸の出兵が具体化すると、大洲藩は長州兵の西宮上陸援護を約し、端舟一〇〇艘と一、〇〇〇人分以上の賄食と草鞋を用意した。また同藩の京都への往来や飛脚にも協力した。
 クーデター後は、異変時の勅命に従って十津川郷七と共に、武田敬孝ら居合わせた人数で宮廷を警固した。慶応三年一二月一二日には泰秋上京の先勢として、家老犬橋重之の率いる大砲隊一小隊が到着した。列藩に王政復古が布告された一四日には、烏丸より東部の京都市中見回役に当たった(『愛媛県編年史』9)。新谷藩も家老徳田民部が兵員を率いて上京し、一九日大原重徳に御用の仰せ付けを願った(『大洲市誌』)。