データベース『えひめの記憶』
愛媛県史 近世 下(昭和62年2月28日発行)
一 廃藩置県と八県の成立
政局の転回
明治二年の版籍奉還後は、「藩制」などによって藩体制の解体や中央集権化が徐々に進められた。しかし、新政府が近代国家としての機能を発揮するには、まだ多くの障害が残っていた。それでも明治三年の後半ころは藩士の帰農や庶民の地位の向上によって、名目上中央政府の官吏となった藩知事―藩士と旧領民との旧来の封建関係も漸く崩れかけ、新政府への期待・依存の傾向が強まっていた。
このような状況のなかで廃藩を急務と考えたのは木戸孝允であった。木戸は大久保・西郷を説き、岩倉も明治四年四月初めには、廃藩の決意をパークスに語っている。
廃藩はまず薩・長・土三藩主を説いて承知させ、三藩の兵力一万人を廃藩断行の背景とした。廃藩決行の日時決定は武士団の解体をめざす木戸と、士族国家をめざす西郷との対立で遅れたが、井上馨・山県有朋らの仲介で七月一四日と決した。廃藩置県は版籍奉還の際の各藩からの建白とは異なって、王政復古に続く第二のクーデターが、詔勅によって行われたともみられるものであるが、意外にも予想された抵抗ぱ殆ど起こらなかった。
廃藩置県
明治四年七月一四日、朝廷は廃藩置県の旨を告諭し、全国諸藩へも宣言した。ここに半独立国であった二六一藩が廃されて県となり、従来の府県と合わせて三府三〇二県が成立し、念願の統一国家が出現した。伊予では旧藩名のまま八県が成立した。県庁は旧藩庁に置かれたが、藩知事は全て免官となった。七月一九日、政務は暫く大参事以下の旧藩官員によるとの通達があり、藩知事は本籍を東京へ移し、九月中に帰京することが指令された。
七月二九日太政官制の改革により、太政官の下に正院(行政府)・左院(立法府)・右院(議政府)が置かれた。正院には太政大臣・左右大臣・参議の三職が置かれ勅・奏・判任官が任命されて新官僚組織が成立し、旧藩主は政治から隔絶された。一〇月二八日、「府県官制」により府県には知事・権知事・参事以下の地方官が定められ、すべて中央から派遣されることになったが、一一月二日に知事は県令と改められた。ついで一一月二七日に「県治条例」が発せられて、県庁の職制と事務が規定された(『愛媛県史近代1』参照)。また府県に大小の差があり、多すぎて煩瑣なだめ順次統合し、一一月二二日に三府七二県となり、その間県名の改称もたびたび行われた。
こうして藩体制は全く廃され、政府は府県の租税課を通じて全国の財政を握った。更に新生の府県によって散髪や廃刀・職業選択の自由など封建的習俗の撤廃と近代化が進められ、学制・藩債の整理・徴兵・地租改正などの大事業が展開された。
幕領の推移
慶応四年以降、高知藩の統治下にあった東予四郡四七か村の幕領は、明治三年一二月一五日の再編成によって倉敷県移管の内示があり、翌年一月高知藩へも土地人民のすべてを所管替えする旨の通達があった。倉敷県は川之江に近く、近隣の幕領中最大であり既に府県制も敷かれていたので、もっともの措置であった。しかし前記の通り高知藩の治政を歓迎していた地元では、これに反対して騒然となり、里正らも民政局に押しかげ連判して、倉敷県移管反対陳情のため上京しようとした。倉敷県でも川之江の状況を知り、慶応四年以来川之江付近は産業も発達している、今移管をすれば混乱するので、せめて二、三年は猶予されたいと政府に申し入れて県吏を派遣しなかった。
処置に困った高知藩は、倉敷県に協力を求めたため一月二〇日同県は官吏二人を出張させた。しかし近村の村民数百人が宿を囲んで不穏の形勢となったため県吏は引き揚げ、倉敷県も引き継ぎをしない旨を申し入れた。高知藩はここで動揺すれば朝廷への反目とみられると倉敷県への忠誠を諭したが住民は納得せず、事の顛末を政府に報告し裁断を求めた。五月、政府も当分移管を見合わす、沙汰まで従前通り支配せよとの解答があった。
その後七月の廃藩置県に際して丸亀県編人となり、一〇月三日に事務引継ぎを完了、丸亀県川之江出張所となった。しかし一一月一五日、丸亀県は高松県と合併して香川県となり、伊予の幕領は同日松山県に編入された。ただし事務の引継ぎは翌五年三月二目で、松山県の後身である石鍼県であった。丸亀県政は数か月であったが、治安のよい川之江の民兵を全廃し、月一〇人ずつの県兵を交替で派遣して施政に当たった。村役人の第一の仕事を農事奨励と博突取り締まりとし、浮浪の徒を取り締まった。また、船鑑札の改正や神社明細調査を行い、西条県と交渉して宇摩・新居両郡の駅場入用費を郡割とした。
西条・小松県
西条でも西条藩の区域をもって西条県が成立した。松平頼英は明治四年二月、東京府貫族を命じられ在京していたが、同年五月の領内大風水害処理のため七月二四日には帰国していた。しかし藩知事免官により、九月一七日西条を出発して二九日東京に到着した。
藩知事の免官と移住について領民は、八月に参事を東京に出張させて嘆願し、頼英にも参事帰国まで出発を延期するよう申し入れた。また頼英の養母智月院と祖母法梁院の滞在願いも提出したがこれも容れられず、翌年二月五日に両院とも西条を出発した。
小松藩知事一柳頼明も、華族の東京移住令に対して養母・姉・弟らの当分小松居住を願った。また自身の帰京についても、民心が沸騰し容易ならざる形勢であった旨を、九月一〇日に政府へ報告している(「小松藩官省進達留」)。同月、東京三田寺町の私邸は住居向きでなく、急な造営も無理として、当分愛宕下、佐久間小路官邸の内の拝借を願った。小松県政は、明治五年三月二〇日、その事務を石鍼県に引継ぐまで喜多川久徴が担当した。その間社寺領の調査、上納すべき海軍資金の調達、八月の水害対策、藩有の米・金・紙・白味を処分し藩債や藩札の整理、士卒の禄制改革などに当たった。なお、小松県を代表して少参事武司寛一郎が同日、石鐵県庁入りをした。
今治県
廃藩置県により在京中の藩知事久松定法は、七月一五日に参朝した。大藩は一四日、中小藩は一五日の御用召である。今治では七月二三日に士族一同が参庁し、大参事久松修理が解藩令を布告した。定法は事務引継ぎのため帰郷し、修理が辞職したので八月二三日に権大参事城所力へ引き渡した。当日定法は、旧藩士一同を邸内へ集めて別れの酒宴を催した。席上、先祖以来の藩政補佐の労を謝し、名残り惜しいが天下の形勢をみるに、このままでは治国の実も上がらず、止むを得ぬ措置である、今後も官に対し心得違いのないよう、減禄は誠に気の毒ではあるが早く一家の方向を定めよ、と誠意溢れる言葉があり、今後会うこともなかろうと一同涙ながらの宴であった。盃の後三〇両ずつが与えられたが、翌日一同も御礼のため餞別を持って伺候した。
同県では八月二一日、兵器櫓が焼失して七人の死傷者があった。九月八日、一二日と官員が減少となり、慰労金が与えられた。定法の帰京は九月一四日で、同日大手門からの沿道南側には百姓と婦人らが平伏し、北側へは調練を兼ねて鉄砲を持った兵士が固めのため整列、大属以上の者が弓削島まで見送った。しかし今治県は四か月で廃県となり、翌年五月三〇日、石鐵県に事務が引き継がれ、権少属の豊田政信・丹下辰義・砂田重宣・史生の鱸栄胤が一三~一五等の下級判任官として石鐵県庁職員となった。明治四年一〇月の今治県は庶務監察・社寺租税・会計・刑法・藩学・軍務の六課で、三島出張所は社寺租税・会計の事務のみを扱った。明治初年の今治藩~県の収入は材木販売と海運にあり、支出では商船の購入や陶器・温泉場・椎茸・養豚・養魚などの直営が注目される(表八-36参照)。
松山県
明治四年、久松勝成に代わって藩知事となった久松定昭は、松山県の成立によって僅か半年で免官となり、七月二九日付で東京移住を命じられた。地元では同月二四日惣出庁により、大参事菅良弼から定昭の免官・廃藩置県が伝達され、直ちに惣町・寺院・領内へも回達された。定昭の邸内家政寮では八月二六日官禄の面々、翌日は非役の士族、二八日新士族(旧卒)と隠居の順に惜別の宴がもたれた。
新県への事務引継ぎは九月九日で、一一日には二月の勝成に続いて定昭も三津を出船した。八月には浮穴・久米郡を中心とした藩主引き留め運動があったが、当日は行列に周布・桑村郡民の一部が「引き留め申す」と駕に駆け寄ろうとしただけで、「三輪田日記」には比較的落ち着いた出発当日の様子を記している。領民は道中を見送ったが兵士の主力は城内で待機した。明治四年前半の治政では三月の米相場廃止、士族は一刀のみで可、卒族は廃刀自由、藩兵の市中取り締まり廃止、六月土下座の廃止、博突・密通など士族の綱紀の引き締め(違反者は士籍を除き庶民とする)などが注目される。
明治四年一一月一五目には松山・今治・小松・西条の四県と旧幕領を合わせた広域の松山県と、大洲・新谷・吉田・宇和島県を合わせた新たな宇和島県が成立した。この時四国では阿波と淡路を合わせて名東県、讃岐一円で香川県、土佐一円で高知県が誕生した。今治・西条県跡へは出張所が置かれ、従前の官員が事務を扱った。明治五年二月、松山県今治出張所からの布告によると、新県となったのは旧県の規則に拘らず新規則を立てるためで、国家の利益・開化の助けとなる案があれば上申せよ、布告の箇条や文言に注意し見逃すなと注意している。
大洲・新谷県
大洲藩知事加藤泰秋は、明治四年七月八日に家中一統へ知事辞任の意を伝え、新谷藩知事加藤泰令も翌日飛脚で辞表を朝廷へ提出後、決意を家中に示し、一〇日には領民へも布達した。廃藩後は民心の動揺を心配して直書を下した。その要点は小藩と雖も皇威を海外に輝かさんとする叡意を速に尊奉し辞任した、積年の勤王の志の厚い一同も協力同心し、我が意志の達成を頼む、というものである。続いて大参事山本尚徳からも、心得違いのないようにと布告した(田中家文書)。事務引継ぎは八月で、尚徳が大洲騒動で自刃したため権大参事口分田成美に渡された。新谷藩では八月五日邸内で里長と別れ、二三日村々から餞別を贈り、二八日事務を交収して帰京した。
大洲県では廃藩によって八月、村ごとに制札を集めて処分し、士族の嫡子・養子の目見えを廃し、少参事中村俊夫以下の新官員を任命した。米や大豆・小豆・楮・紙類は従来通り出津を差し留め、雑穀や蝋・櫨・酒などは願いの上移出を許可したが掌蝋社ヘ一割五分、また材木・竹類は口番所へ同率の運上を納入させた。一一月には楮・紙の製法や価格を定めるなど専売の形を強化したが、塩の販売は自由とした。一〇月には伝達掛を廃し、筋ごとに民事掛を置いた。村政については、一二月に里長・組頭・横目に県庁から心得を訓示したが、その内容は旧藩期のものと変わらないものであった。廃県によって県内は二分され、喜多・浮穴郡は宇和島県へ、伊予・風早郡は松山県域となった。
新谷県も経済政策は大洲県と同様であった。七月に長浜の水主門田幸作ら二〇人は暇が出され、代わりに五年間三石が支給された。九月には士族の屋敷・長屋・菜園地などが払い下げられ、その売買も自由となった。戸籍事務については、「意味が分からず不安の向きもあるが安心せよ、人は大切なもの、人を守るのが国の勤め、人の名とその年令を戸籍というのだ」と分り易く諭し、各戸口へ第何区何番屋敷の札を張らせた。九月一三日、藩学は県学と改称され、皇学寮が置かれ、一層の文武奨励が告諭された。廃県により同県域も、喜多・浮穴郡が宇和島県、伊予郡が松山県と二分された(「新谷藩庁日誌」)。
吉田・宇和島県
吉田藩でも七月二六日、士族総出仕の席上で直書によって解藩が布達された。八月三日には諸役職の統廃合を行い、浦番所や官員出張・出郷の際の仕丁を廃止した。士卒の屋敷は自由売買となり、県内に限っては米穀など全商品の売買を自由とした。廃県後は、新県への事務引継ぎ完了までの期間を元古田県と称する旨を県内へ布告した。
宇和島藩知事伊達宗徳は、大参事上甲貞一が前年に辞任して欠員のため、九月八日権大参事成田忠順に事務を交収して帰京した。しかし祖父春山と妹は持病のため出発できないとして、宇和島での療養を東京府に願った。
八月戸籍作成のため区制を採用し、県内を四〇区分した。同月寺格・番所を廃し、一〇月「郷中改革」を行った。一一月五日、兵部省から大阪鎮台高松第二分営に歩兵二小隊を入営させよとの指令により翌月二二日、兵一九六人と人足六二人を高松へ出発させた。
明治四年一一月、旧四県の領域七〇町四四〇か村、約七万戸・三三万人を管轄して新しい宇和島県が発足した。県参事には旧静岡藩士平岡準四郎が任じられたが着任をみぬまま井関盛良となり、同年一二月名古屋県人の間島冬道が権令に、翌年一月には山口県人江木康直(権参事)と、目まぐるしく交替した。治政としては普請の際の夫米廃止、水主役や庄屋役宅の廃止が注目される。また郷中へ凶作の備えとして粟八〇〇石と味噌を下付し、医学寮を創設し、私塾開設を官許とした。
産業面では大幅に自由を認め製蝋・酒造を自由とし、掌蝋社の櫨・蝋の取扱も停止した。旧県の専売品であった紙・蝋や諸穀物の移出入も自由とした(運上は従来の通り)。四色小物成など雑税は全て銀納とし、松・竹材・竹皮などの運上も廃止された。また蚕種製造希望者を調べて補助金を与えた。県庁からの回達文書は村継を廃して飛脚便としたが、飛脚賃は一里を四〇〇文で計算して各村が負担した。