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愛媛県史 近世 上(昭和61年1月31日発行)

2 村の支配

 支配組織

 領内村数は、頼純就封の寛文一〇年(一六七〇)当時は五八か村であったが、宝永元年(一七〇四)の幕府領との替地、後述する新田開発による枝郷の独立等により、天保年間には六八か村に増加していた。「西条誌」(天保一三=一八四二年成立)によると、城下を除くこれら村々は六組と二村の八行政区に分けて支配されていた(表二-29)。宇摩郡一五か村中八か村は、宝永元年の替地によって西条藩領となった地域であるが、当初は一五か村合わせて土居組と称していた。その後、宝永六年、表中の東寒川組六か村と中之庄村とを合わせて中之庄組がおかれ、享保一一年(一七二六)に至って中之庄村を除く六か村を東寒川組として分離した。
 新居郡沢津組は、享保一七年までは宇高村庄屋が大庄屋を勤めていたため宇高組と称され、その後、郷村庄屋が大庄屋を勤めるようになると郷組と称されたが、宝暦五年(一七五五)以後、沢津村庄屋が大庄屋を兼ねることとなったため、沢津組と改称された。大庄屋の地位は、安永元年(一七七二)以後再び宇高村庄屋の手に移ったが、組名はそのまま沢津組と称された。
 下泉川組は、宝暦元年までは中村庄屋が大庄屋を勤めていたため中村組と称され、その後、船木村庄屋が大庄屋に就任すると船木組と改称された。そして、天保一〇年(一八三九)に至って、下泉川村庄屋が大庄屋となり、下泉川組と改められた。
 大町組は、当初大町村庄屋が大庄屋を勤め、大町組と称された。安永三年に至って朔日市村庄屋が大町村庄屋及び大庄屋を兼帯することとなったが、組名はそのまま残された。
 周敷郡の中で玉之江・石田両村が、中山川を隔てているにもかかわらず氷見組に属し、周敷村が一村だけ取り残された形になっている。これは、松平氏入封以前において、石田・玉之江村と新居郡分は公儀代官小島孫右衛門の支配、周敷村と宇摩郡分は松山藩預かり地であったという、過去の支配関係がかかわっているようである。
 以上のように、六組と二村から成るこの行政区分は、松平氏入封とともに成立し、宝永元年(一七〇四)の幕府領との替地に際して行われた若干の手直しによって最終的に成立したようである。組名については固定的なものではなく、大庄屋の所在によって改称が行われるという性格のものであった。
 このような行政区分によって行われた領内農村の支配は、職制の項で述べた如く、郡奉行以下の郡方の手によって行われ、その下に、他藩と同じく、大庄屋・庄屋・組頭がおかれていた。
 大庄屋は、前述の組ごとにおかれた。中之庄村・周敷村は、大庄屋はおかれていたが組下の村がなく、一村立てとなっていた。庄屋は大庄屋に対して小庄屋とも称され、原則として各村に一名がおかれ、村内には若干名の組頭がおかれて庄屋を補佐した。大庄屋が居村の庄屋を兼ねる時には、別に地所掛庄屋が一名おかれた。
 大庄屋・庄屋等の職務は、おおむね他藩と同様である。大庄屋の職務は、郡奉行の指図のもとに、幕府や藩の触書等を各村に伝達し、組内の願・伺等を藩に伝達する。そして、組内の治安維持、営繕所、官林の取り締まりを行い、作物の成育状況に留意するなど、組下諸村の統制にあたるとともに、組内の状況を毎月郡奉行まで報告することであった。大庄屋は苗字帯刀を許され、藩より二石を与えられるとともに、村々から一〇〇石につき銀三匁ずつ徴収し、それを大庄屋達で分けることを認められていた。また、公用による順郷の時は二人扶持が与えられた。
 庄屋の職務は、大庄屋の指図を受けて、触書等を村民に伝達し、村内からの願・伺等を大庄屋に伝達する、また、山林の取り締まり、営繕箇所の調査にあたり、免の割付、年貢収納にあたることなどであった。庄屋は、村高一〇〇石について四斗ずつの割合で農民から庄屋給を徴収することを認められていた。

 農民の統制

 松平頼純は、寛文一〇年(一六七〇)の就封にあたって、「戌年御書出」と総称される四通の布達を領内に示した(資近上五-2~5)。これは、西条藩における庶民統制基本法と考えられるものである。その内容は、①幕府の法令に準じた基本法としての「覚」(一二か条)、②農民の日常生活を中心として生活全般について規制した「条々」(二一か条)、③年頁納入についての規定である「納所方万御定之段百姓共可申聞品々之覚」(一一か条)、④庄屋給、年貢米の輸送等についての農民の負担に関する「覚」(七か条)から成っている。このうち、農民統制に直接かかわる内容を持つのは①・②であり、ともに、「公儀御制札」、「公儀仰出」の方針に沿って領内農民の生産や生活の規制を目指すものである。①においては、人身売買・一揆の禁止、庄屋・百姓の分限遵守、他領からの入込みの監視と報告、諸船舶遭難時の救助等、農民統制の基本的な部分についての規定が多い。②は、日常生活を中心とした詳細な統制内容を含み、いわば、西条版「慶安の御触書」ともいえるものである。日常生活のうち、衣類は、大庄屋のみ絹・紬の着用が認められるが、それ以外の者は、すべて布及び木綿と定められていた。食物については、雑穀を食べることを奨励し、米を浪費することは厳にいましめられた。賭事に対しては追放・罰金が定められ、訴人に対しては褒美を与えることが示された。その外、村における勧進能・相撲・あやつりなどの興業は禁止され、百姓が駕籠などの乗り物を用いることも禁止されるなど、生活全般についてぜいたくがいましめられた。そして、一方では、百姓は田畑の耕作に専念することが求められ、耕作を怠ける者は藩当局まで訴え出ることが命令された。田畑の耕作者確保という面からは、他所への逃亡者を、代官・郡奉行の指図を得て帰村させることとし、奉公等による出稼ぎは、必ず役所へ届け出て一年限りとすることが令された。また、田畑の売買・質入れは、代官・郡奉行へ伺いを立てた上でその指図を受けることとされた。
 このような、日常生活を中心とした規制は、以後もくり返し布告され、その徹底が図られた。しかし、このように規制がくり返されることは、その趣旨が守られず、違反者があとをたたなかったということでもある。藩が寛延三年(一七五〇)に布告した「定」は、特に内容も具体的、詳細に述べられており、藩の農民統制の内容・方針をよく示している(資近上五-10)。ここでは、大庄屋・庄屋・組頭などが自己の職務に精励して村内をよく治め、一般の農民は耕作に専念して年貢皆済を心掛けることを説いた後「家作之定」「着類并諸物之定」が続けられ、日常生活を詳細、具体的に規制する内容となっている。
 一方、藩がこのような規制をくり返し布告する中で、村内の惣百姓が連名で、法度を守り、質素倹約を守ることを誓約する例も多く見られた。新居郡松神子村(現新居浜市)では、元禄一六年(一七〇三)、元文二年(一七三七)に誓約書が作成されているが、元文二年のものでは、近年村内の風紀が乱れてきているので、村内の者が互いに戒め合うことを約束するとともに、違反者には過料を課すことまで取りきめられている(資近上五-39)。

 農民の負担

 江戸時代における農民の負担は、一般に、本年貢(本途物成)と小物成以下の雑税とから成っていた。この中で、負担の中心は本年貢で、原則として米で納められ、雑税は貨幣納とされている場合が多かった。
 西条藩における本年貢は、他藩の場合と同じく、検見法、定免法によって賦課された。検見法は、西条藩では、見取免と呼ばれ、藩政当初にとられた方法である。この見取免がいつまで続けられたかは明らかでないが、おそくとも、同藩では、元禄年間(一六八八~一七〇四)から、定免法の一種と考えられる春免制に移行した。春免は、その後、享保大飢饉を経て、宝暦二年(一七五二)まで続いた。そして、翌宝暦三年に見取免に復帰したが、後述の「宝暦の百姓一揆」が発生したため、宝暦四年に定免法を採用し、以後幕末に至るまで継続した。同藩における春免と定免の違いについて、宝暦の百姓一揆に際して藩より出された「在中江申聞せ度書付」(資近上五-11)によると、次のように説明している。すなわち、春免と定免は、ともに、検見によらないで過去数年間の平均収穫量を基準に年貢量を決定する点では、大様同じである。しかし、春免は、藩当局がそれを決定して農民に申し渡すのに対し、定免は、庄屋を中心として農民の側で作成した原案を藩に申し出て、当局の裁決を経て最終的に年貢量が決定される方法である。
 西条藩における年貢率は、宗家紀州藩の制にならって六公四民の定めであった。前記「在中江申聞せ度書付」によると、収穫量の六割を年貢として納めさせ、残り四割を生産者である農民の取り分とすることは、「天下一統之御定法」であると述べられている。しかし、実際には、本高に対して六割の収入を藩庫が得ることは不可能で、享保の大飢饉(享保一七・一七三二)まで、六公四民を原則としながらも、五割の藩庫収入があれば好成績の状況が続いた。ちなみに、新居郡中野村(現西条市)における元禄六年(一六九三)の年貢割付によると、同村の村高六〇三石八斗八升一合のうち、永川成を引いた残り四八六石一斗三升九合に対し、年貢局は一四四石九斗三升一合であり、年貢率は二割四分弱となっている。
 享保一七年に西日本一帯を襲った大飢饉の被害は、西条藩においても例外ではなかった。そのため、同年の年貢率は三割四分に引き下げられ、飢饉がおさまって後も、宝暦二年(一七五二)まで、二〇年間にわたって、三割五分前後の低率が続いた。このような状況に対し、藩では、財政再建策の一環として、宝暦三年、見取免に改めるとともに、率を四割五分に引き上げることを命じた。ところが、このために百姓一揆がおこり、翌宝暦四年以後、定免を採用するとともに、藩当局の考えとしては四割三分くらいが適当であるとしながらも、農民の要求を入れて、四割強の率に決定した。以後幕末に至るまで、多少の上下はみられたが、大体四割余りの年貢率が継続したようである(「在中江申聞せ度書付」資近上五-11)。
 以上の本年貢に対しては、各種の名目で付加税が徴収された。西条藩における付加税は、寛文一〇年(一六七〇)に出された「納所方万御定之段百姓共可申聞品々之覚」(資近上五-4)によると、次のようになっている。すなわち、その徴収に関しては、すべて紀州藩の制にならって行うことが述べられた上で、欠米は年貢米四斗につき一升、口米は同一石につき二升、夫米は本高一〇〇石につき二石を年貢米に加えて納入することに定められていた。
 以上の本年貢及び付加米以外に、他藩と同じく西条藩においても、各種雑税が徴収された。前記「納所方万御定之段百姓共可申聞品々之覚」によると、雑税に相当するものとして、次のようなものがある。

 ○ 夫米 一柳氏時代は毛付高一〇〇石につき二石、以後は紀州藩の例にならって、本高一〇〇石につき二石、なお、水主を出す浦方は夫米を免除する。
 ○ 糠・藁 一柳氏時代は馬数に応じて納入、暴領時代はなし。以後は紀州藩の例にならう(年貢米一〇〇石に付一斗九升)
 ○ 種籾貸付利息 従来通り三割の利米を納入
 ○ 大工・鋸挽役 一柳時代は江戸で奉仕させる、以後は江戸での仕事を命じないから、西条において役を勤めさせる。

 以上により藩制初期における雑税の一端を知ることができる。その後、藩制整備とともに、これら雑税徴収の範囲も拡大されていき、農民のみでなく、商工業者、漁民を含む領内のすべての者から、多種の雑税が徴収された。寛文六年(一六六六)における新居浜浦の運上は、大坂宿、春網、鰯網、かます網、すすき網、冬網、手繰網、春大網、五島網、垣米網、藍瓶、鎌鉄札、さこれ、高籠、ちぬ須の多種類に及んでいる。表二-32に明治初年における旧西条藩内の雑税の種類及び金額を掲げる。各税目は名称からみて江戸時代そのままとは考え難いものもあるが、内容はほぼ江戸時代における状況を示すものと考えられる。

表2-29 西条藩の行政区分

表2-29 西条藩の行政区分


表2-30 新居郡郷村免定

表2-30 新居郡郷村免定


表2-31 新居郡中野村免定

表2-31 新居郡中野村免定


表2-32 旧西条藩内雑税一覧(明治4年)

表2-32 旧西条藩内雑税一覧(明治4年)