データベース『えひめの記憶』
愛媛県史 近世 上(昭和61年1月31日発行)
三 大洲藩の俸禄制と給与の推移
地方給与から蔵米給与へ
大洲藩家臣団の形成について述べたが、その家臣達の俸禄はどのような形で、どのような石高で、給与されたかについてみよう。大洲藩では、藩政初期には多くの他藩と同じく給人以上の家臣に土地を給付し、その領地の農民から直接家臣宛納入する年貢米豆をもって俸禄とする、いわゆる知行宛行の方式をとっていた。ところが「温故集」巻之三によると三代藩主泰恒の天和元年(一六八一)、家中倹約令が出て、物成一ツ八分(表高一〇〇石に付き現米一八石の実収)とされ、家中は甚だ困窮に及んだ。その節、俸禄米を収蔵する藩庫が建設されると同時に、知行地の農民が知行取である家臣に、直接年貢米を納入するいわゆる手前納が停止され、新設の藩庫へ納入されるようになった。その結果、家臣の知行地支配の権力は、すべて藩主の元に吸収集中され、家臣の俸禄は蔵米給与に代わることになった。
蔵米給与
「温故集」巻之四によると、「以前は代々村方で領地を与えられ、地方物成であったものが、三代藩主泰恒の御代、御家中知行四ツならしに仰付けられた」とある。この切り替え時点における給与基準は四ツならし、つまり高一〇〇石につき四〇石を給付することであった。元禄三年(一六九〇)の『土芥寇讎記』には、大洲藩の給与の実態を「家中宛行は四ツ、一〇〇石につき一〇石分は大豆一五石づつを与える」と記している。しかし「大洲藩元文日録」元文元年(一七三六)の条には、
十月廿一日、今日左の通御書院において御家老中御列座、玄蕃殿(加藤玄蕃)仰渡された書付の写
一、御家中の面々ならびに末々の御宛行の義、近年止む得ず別して減少仰付られ、銘々取続き艱難で御気の毒に思召され、これにより少し成共御返し下され度、当年は別紙帳面の通下されるから、左様相心得られたい。(以下中略)
右仰出の趣承知されたい。以上
辰ノ十月
覚
地方知行無高下
一、高百石ニ付 物成三拾石五斗 取箇
内米貳拾石九斗 大豆九石六斗
外ニ 四石五斗 役催合引
拾石 米豆指上
定江戸大坂并江戸御供知行無高下
一、高百石ニ付 物成四拾石 取箇
内米貳拾六石七斗 大豆拾三石三斗
外ニ 五石 米豆指上
とあり、地方知行と旅勤知行との待遇差はあるが、両方とも原給与免四ツ五分すなわち高一〇〇石に対して四五石の給与には相違はない。地方給与が蔵米給与に転換された天和元年(一六八一)ころの給与基準であった免四ツならしは、右の史料に見られるように、元文元年(一七三六)になると免四ツ五分の基準が守られるようになり、以後藩末に至るまで変わらなかった。
差上げと役催合引
藩財政の窮乏などの原因によって、藩当局は、家臣達の給与のうちから借上げや差上げの形で米豆を差し引いた。借上げの記事の初見は、『加藤家年譜』の享保元年(一七一六)の条にあり、借上げという言葉の代わりに、引上米(差上米・指上米・揚米ともいう)という表現が現れるのは、『加藤家年譜』の享保七年のことである。差上米の額は、米作の良否、天災(例水害・干害)・人災(例火災)などとの関係、藩財政状況などの諸要因によって左右されたが、額の多少にかかわらず差上米は、ほとんど毎歳恒例のものとなり、家臣の給与・生計に及ぼす影響は大きかった。
次に前述元文元年の史料にみえる役催合引について説明しよう。役催合引とは、役米引と催合豆引を指していう。前者は、役米として差上げ、給与から引き去られる米で、後者は、大豆を一〇〇石につき二石ずつ差し出し、それを積み立てて置いて、旅費として還付を受けたり、職務交際費などに支出されたりしたもので、差上げの形で給与から差し引かれた。なお役催合引は、地方知行の場合のみ行われた。なおこのほか、差上げ米で処理しきれぬ財政支出や不足がみられた場合、別途命じられた臨時差上げ米もあったが、一〇〇石につき一~二石が七度くらいであった。
給与の推移
『加藤家年譜』の中に、家臣の宛行の取箇石高が、享保一九年(一七三四)から明治二年(一八六九)にいたる約一三〇年間にわたって記載されている。多少の記載もれはあるが、宛行の実態が概観できよう。なお宛行取箇は、差上げ・催合引を除いた高一〇〇石に対する地方知行の場合の実収入である。一覧表にまとめると表二―45のようになる。
一覧表からみると、給与は最高のときで明和四年の一〇〇石に付三三石で、寛延二年の一○○石に付三二・五石がこれに続き、一〇〇石に付三〇~三二石が三九年、一〇〇石に付二〇~二八石が四三年、続いて一〇〇石に付二〇石以上の給与は、合計八四年で、全体の六四%に当たっている。いかに低い給与が長期にわたって連続していたかがわかる。しかもそれよりもさらに低い給与の一〇〇石に付一五石が享保一九年・宝暦元年の二か年、一〇〇石に付一九石が宝暦二・三年と続き、本藩給与のうち最低と思われる九人扶持は、宝暦一二年、明和五年、安永元年、天明三年の各年度に施行されている。
このうち一〇〇石に付一九石以下の給与しかできなかった事情を、「加藤家年譜」の記事によって説明しよう。まず宛行についての最初の記録である享保一九年(一七三四)の場合についてみると、享保一七年の蝗害による大飢饉、城下片原町を中心とする三六〇軒を焼失した大火、享保一九年には侍屋敷六六軒・町家三三四軒を焼失する大火など、相続いた大災害によって財政窮乏に陥った関係からか、給与について次のように布達された。
十月八日兼ねて承知の通、田作虫附皆無に相成、御家中末々迄御宛行下されるほど計り難いので、左の通り割当下される御達、百石ニ付き、米豆十五石
次に宝暦元・二・三年(一七五一~三)の場合をみると、
(寛延四年)九月十日 御内分極々御差支大形御心配、就ては細々と御書附で御省略仰出され、御宛行左の通り下され御達、百石ニ付 拾五石
とあり、また、
(宝暦二年)八月十八日 御家中一統御呼出にて、近年厳しく御省略難渋の趣、これにより御心附けさせられる迄ニ、御宛行左の通り下し置かれ、その余制度向き御達 百石ニ付 十九石
(宝暦三年)九月二日 当秋御宛行御内分御差支ニ付、昨年の通り下さるる旨御達
とある。
九人扶持
最低給与の一〇〇石に付九人扶持の給与にせざるを得なかった理由を「加藤家年譜」によってたどってみよう。まずこの給与を最初に施行した宝暦一二年(一七六二)五月一一日の記事をみると、
御内分差支えられている下地のところへ、明年殿様が江戸で御馳走役を命じられて、財政支出が多くなり、何分手段もないので、家中一統の宛行を差上げ高百石に付九人扶持とし、飢渇に及ばない迄に下されるよう極めたので通達する。
また明和五年(一七六八)九月二一日の記事に、
当年の御宛行はやむを得ず左の通り下されるよう御達しがあった。百石に付九人扶持。
天明三年(一七八三)八月二一日の記事に、
今年も御省略左の通下される御達しがあった。百石につき九人扶持。
とある、これらの記事からみると、公役その他で財政が窮乏し、やりくり算段がつかなかったり、省略(倹約)令で支出を切り詰めたりする場合、最も手をつけやすく最も効果的な手段は、御家中へ差上げ米を命じ、給与を削減することであろう。それにしても飢渇に及ばない程度の低給与と公言してはばからない九人扶持を敢行しなければならなかったくらい、財政状態が危機に陥っていたからであろう。
以上のような低給与が続くと家中一統の生活は困窮に陥るのは当然である。藩主がそれを気の毒と思って、心付けとして御救米を下賜する(例=元文四年百石ニ付二石、宝暦二年百石ニ付一石、文政一〇年百石ニ付四石五斗)、あるいは御救銀(例=寛政元年給人に高下なく金六両)を下附したりした。藩財政の窮乏により米銀の給付ができない場合は、米銀の貸し下げを行った(例=延享三年百石ニ付二〇〇目、嘉永六年に五ヶ年間無利息、その他御種子蔵拝借、軍用金拝借、祠堂金拝借など)。こうして低給与からおこった家臣達の窮乏を救済しようとしたが、間欠的で少額な救米銀・救貸付では効果はあがらなかった。