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愛媛県史 近代 上(昭和61年3月31日発行)

二 軽便鉄道・電気軌道の開設

 伊予鉄道会社の設立

 我が国における鉄道事業は、明治五年、政府の手で東京新橋~横浜間が開通したことに始まる。以後、神戸~大阪間、大阪~京都間の開業と続き、明治二二年に至って東海道線の全通をみた。一方、明治一四年には、華族の出資により最初の民営鉄道として日本鉄道会社が設立され、同一六年より営業を開始した。この日本鉄道会社が営業面で成功を収めたことが鉄道経営の企業価値を大いに高める結果となり、全国的に民間資本家の間で鉄道熱が高まりをみせるようになってきた。そのような空気の中で、明治二〇年、愛媛県下における最初の鉄道会社として伊予鉄道会社が設立され、翌二一年から松山~三津間の営業を開始した。全国的には、日本鉄道、阪堺鉄道(明治一七年六月設立許可、現南海電鉄)に次いで三番目に設立された民営鉄道で、軽便鉄道としては最初のものであった。
 伊予鉄道会社設立の中心人物は小林信近で、彼は後に初代社長に就任することとなる。小林は鉄道の便利さに目をつけ、早くから松山における敷設計画を練っていたといわれる。そして、書物その他による研究の結果、軌間二フィート六インチ(七六二ミリメートル)の小鉄道が最も適しているとの結論に達し、軽便鉄道敷設の方向で計画を進めることとなった。明治一九年一月二三日「軽便小鉄道敷設方ノ儀ニ付願」が小林信近・野間大作・山内清平三名の連名で県令関新平に提出され、社名は「松山鉄道会社」と決められた。この申請は、やがて中央の鉄道局において審議されるところとなり、技術・資金などの面から一度却下されたが、小林自身の熱心な説明により、同年一二月二八日付でようやく許可された。
 以上のような経過の後、明治二〇年九月一四日、松山鉄道会社創立総会が県会議事堂において開催された。この創立総会において、社名が出願時の「松山鉄道会社」から「伊予鉄道会社」に変更されるとともに、社長には当初から計画推進の中心人物であった小林信近が選任された。資本金は、当初の「松山鉄道会社創立規則」によると四万円とされ、「伊予鉄道会社定款」(明治二〇年)には六万円と定められている。会社設立時における資金状況などから考えると、実際には資本金四万円にて出発し、明治二二年開催の第二回定時株主総会において二万円増資が正式に決議されたようである。また、明治二一年に開かれた臨時株主総会において、委員井上要の意見により、起点を松山萱町二丁目から藤原福正寺前(現松山市駅)へ、終点を三津松原橋から住吉町東詰(現三津駅)へ変更することが決定された。
 このようにして、伊予鉄道会社は正式に発足し、以後は開業に向けて本格的な準備の段階に入っていった。まず、軌条及び車輛などは当時国内での製造が不可能であったため、東京の剌賀商会を通じてドイツに注文し、明治二一年八月にはすべて三津浜港に陸揚げされた。軌条敷設工事は越智組の請け負いで同年五月に着工、九月二八日に工事竣工の旨を鉄道局に報告した。こうしてすべての開業準備が整い、一〇月二三日、松山停車場を中心とした会場において、花火・餅まき・相撲などの盛大な鉄道落成式が挙行された。「海南新聞」によると、「見物人遠近より昼夜とも老若男女幾万人ともなく集ひ来り立錐の余地だになかりき」(明治二一・一〇・二五付)とその盛況の様子が伝えられている。
 一〇月二七日、鉄道営業免許が下付され、翌二八日より一般貨客の輸送が始まった。小林信近が軽便鉄道敷設を申請して以後二年九か月を経て、ここにようやく開業の運びとなった。営業区間は松山~三津間四マイル(六・四キロメートル)で、松山・三津口・三津の三駅が設けられた。この駅名は、翌二二年に松山を外側(とがわ)、三津口を古町と改称、外側は明治三五年に至って再び松山と改められた。軌間二フィート六インチの軽便鉄道で、一車輛の定員は一二名であった。当初の運行は松山~三津間の所要二八分、一時間三〇分ごとで一日一〇往復であった。運賃は上等一二銭、中等七銭、下等三銭五厘と定められていた。
 創業者小林信近は、伊予鉄道開通までの経過を手記「小林信近創立五事業苦心記」に書き残しているが、その中から東京での軽便鉄道の構想と鉄道局との交渉の様子を摘録すると次のようである。

 明治十六年より十七年に跨り神戸鉄道局の用材調達を請負ひ久しく大阪に滞在して阪神間の汽車旅行を為したるため、大に鉄道事業の趣味を感し、熟々考ふれば世人多くは鉄道事業は専ら官営に属し民業として企て及はさる者の如く観念すれ共、之を私設として経営し吾が愛媛県の如き道路不完全の地に応用し、運輸交通の便を開かは産業の発達は勿論人文開発の一大捷路ならんと、勃然として起業熱を発し爾来理想的計画に焦慮せる折柄、内務省土木局臨時報告と称する小冊子を得、これを閲すれば米国に於いて石炭山及び耕作用に使用せる「ドコービル」の解説書であった。熟味翫味すれば吾が地方の小運輸に最も適当の良機である、(中略)
 依りて外国に経営せる実地の情況を探知する必要あるを認め、同(十八)年十二月上京し、外国人にして鉄道事業に通暁せる人を探索したれば、横浜に英人ダイアックと云ふ人あり、此の人は日本にて鉄道を創設したる井上勝の教師とも云ふべき人であると云ふ報を得た。此に於て直に機浜に馳せ、ダイアックの門を叩き刺を通じて面会を求めたれば、ダイアックは速かに快諾して、室内に引見し、問に応じて懇に解説してくれた、(中略)応答の末、二十封度(ポンド)レールを用ひ、ゲージを二呎(フィート)六吋(インチ)と定め、其他曲線の半径、枕木の寸法に至るまで布設法に関する要件を聞く事を得た、此に於て早速帰県して設計を変更して、明治十九年再度願書を差出し、事情上申のため同年十月上京、鉄道局に出頭し、(中略)小鉄道の利便を弁じ、是非試験的に認可せられんことを懇願して退きたりしが、漸く同年十二月許可の指令を得た。
 夫より株式募集に着手し幾多の艱苦を経て漸く満株の成果を得て会社を設立し、明治二十年九月創立総会を開き、社長に当選し、続ひて建設事業に着手したるが、当時は未た技術者に乏しく殆んど滑稽に属すること尠からざりしが、辛ふじて竣功を告げ、明治二十一年九月鉄道局技師の検査を了し、同年十月二十七日開業免状を得、翌二十八日開業した、其の汽笛の声を発したる時は喜ひ極って感涙にむせんだ。

 伊予鉄道が開業した明治二一年当時はまだ東海道線も全通していない時期であり、全国的にみても鉄道は極めて珍しい存在であった。そのため「陸蒸気」の試乗に近郷から出かけてくる者も多く、開業後の伊予鉄道は盛況が続いた。「海南新聞」は、開業間もない伊予鉄道の状況を「松山より三津に達する伊予鉄道会社の鉄道去る廿八日の景況は既に記載を経し所なるが尚ほ一昨日迄の景況は乗客平均一日に付き二千人に餘り先きを争ふて乗らんとする有様なれば其の混雑言ふ様なく」(明治二一・一一・一付)と伝えている。

 伊予鉄道会社の発展

 以上のような盛況のもとで、営業成績は開業前の予想を大きく上回るものとなった。開業前の「松山鉄道会社予算」には一日平均予想乗車人員として七二五人が計上されていたが、開業以後の二八年下半期における一日平均乗車人員は一、一二八人、二二年上半期は一、二二四人、同下半期は一、三八六人となっている。このような旅客部門の好調は、貨物部門の営業成績が予想を下まわるものであったことを補ってなお余るものがあり、二一年下半期の純益金は六五二円余、配当率は七分五厘に達した。また、二二年以後においても八分~一割の高配当が維持されていった。
 このような順調な営業成績の中で、伊予鉄道は更に一層の発展を目指して、また、地元民の要望にこたえて明治二四年以降線路の延長・新設を計画した。その中でまず議されたのは、三津~高浜間及び松山~久米(後に平井)間の延長問題で、いずれも明治二四年一月の定時株主総会で議決された。
 このうち、三津~高浜間は、明治二一年に三津駅の位置を変更した段階で将来の高浜延長が見越されており、いわば同社にとって既定の計画であったといえる。しかし、この延長によって町の繁栄が失われることを恐れた三津浜町民の間には強い反対運動が起こり、二四年の株主総会は紛糾した。結果は井上要を中心とする延長賛成論が勝利を収めることとなり、同年四月一日内務大臣の仮免状下付、翌二五年五月一日より延長線の営業を開始した。しかし、三津浜町民の反対を押し切って行われたこの高浜延長は、後の高浜開港問題とも関連して、松山電気軌道の敷設その他の大きな問題に発展することとなる。
 松山~平井間の延長は、当初久米までの計画であったが、後に平井河原まで延長区間が追加されたものである。この平井延長については、既設区間に比して営業成績が上がらないことが当初から予想されており、株主総会においてもこの点が問題にされた。結局、松山~平井間を松山~高浜間とは別会計で処理するとの苦肉の策によりようやく議決され、明治二六年五月七日より営業を開始した。この松山~平井河原間の営業成績は、松山~高浜間に比して予想通り不振であった。そのため、浮穴・久米両郡東部地域から松山・三津浜に至る貨客の通過地である横河原まで線路を延長し、営業成績を挽回することが図られた。そして、明治二九年の臨時株主総会において延長が議決され、三二年一〇月四日より営業を開始した。この区間に新たに設けられた駅は立花・久米・平井河原(後に平井と改称)・田窪・横河原であった。
 松山~森松間は、当初沿線の地元有志によって鉄道敷設が計画されていた。しかし計画の進展をみないまま、伊予鉄道が既設の立花から浮穴郡森松(現松山市)まで線路を延長することとなり、明治二八年三月より工事に着手した。おりからの日清戦争の影響を受けて人夫募集に難をきたしたが、同年一二月竣工、翌二九年一月二六日より営業を開始した。新設の駅は石井・森松であった。

 道後鉄道会社の設立

 伊予鉄道会社の予想を上回る営業成績は、企業家たちの鉄道敷設への意欲をそそるのに十分なものがあった。その結果、明治二〇年代末、道後鉄道会社・南予鉄道会社の二社が相次いで営業を開始した。
 道後鉄道会社は、道後温泉への浴客の便を図るため、村瀬正敬・松下信光らによって明治二六年九月に設立をみた。すなわち、同社は明治二五年一一月一六日、「松山道後古町間軽便鉄道布設請願書」を逓信大臣あて提出、翌二六年四月八日に仮免状が下付され、同年九月一四日、創業総会を開催するに至ったものである。同社の発足当初の資本金は三万八、〇〇〇円で、取締役には村瀬正敬・長井元之・泉丈三郎の三名が選任された。線路は、伊予鉄道古町駅付近を起点とし、松山市街北部経由で道後に至り、道後より松山市街東部を経て一番町に達するもので、延長約三マイル(五キロメートル)であった。伊予鉄道と同じく軌間二フィート六インチの軽便鉄道で、明治二七年七月工事に着工、翌二八年六月に工事竣工届を提出し、八月二二日より営業を開始した。開業後の営業成績は、伊予鉄道に比べると低調で、三~六分の配当率を上下し、伊予鉄道との合併の前年、明治三二年下半期に至ってようやく八分の配当率に到達した。
 このような予想を下回る営業成績の中で、地元の出資者は株式を売却し、同社の経営から離れていった。やがて大阪の第七十九銀行頭取古畑寅造が同社の経営の実権を握るようになり、明治二九年一一月、村瀬正敬は専務取締役を辞任、古畑が社長に就任した。このようにして同社は大阪系の資本により営業を継続、伊予鉄道との合併に至った。

 南予鉄道会社の設立

 道後鉄道会社に続いて、明治二七年一月、南予鉄道会社が設立された。これより先、すでに明治二三年、伊予鉄道は松山~郡中(ぐんちゅう)間の鉄道開通を計画したが、郡中方面における資金募集がまとまらなかったこと、また重信川鉄橋の難工事が予想されたことなどのため、計画は実現をみなかった。南予鉄道会社は、この伊予鉄道による敷設計画及び測量結果をそのまま引き継ぐ形で設立されたものである。
 同社による松山~郡中間鉄道敷設は明治二七年一月四日政府より認可を受け、同日伊予郡郡中町(現伊予市)に仮事務所を開設した。設立の中心となったのは伊予郡地方の資本家たちで、専務取締役には宮内治三郎が就任、発足時における資本金は九万五、〇〇〇円であった。
 南予鉄道も、伊予鉄道と同じく軌間二フィート六インチの軽便鉄道であった。明治二七年四月より工事に着手、重信川架橋は難工事であったが、同二九年四月に至ってようやくすべての工事が完成し、同年七月四日より営業を開始した。区間は、伊予鉄道外側駅付近を起点とし、雄群(おぐり)村・余土村(ともに現松山市)を経て重信川を渡り、岡田村・松前村(ともに現松前町)を経由し郡中町に達するもので、約六マイル半(一〇・八キロメートル)であった。
 この南予鉄道会社は、その名前通り、将来は県都松山と南予地方との鉄道連絡を実現するとの遠大な意図を持っていた。そのため、まだ松山~郡中間の工事中である明治二八年一二月の臨時株主総会において八幡浜までの線路延長を決議、その仮免状は同三〇年二月に下付された。そして、翌三一年上半期中にはその測量を終了したが、資金調達が進まないまま工事着工には至らず、やがて、後述の伊予鉄道との合併を迎えることとなった。
 営業成績は、開業直後の明治二九年下半期の配当率が五分、以後は六~九分の配当率を維持し、良好な状況が続いた。
 なお、南予鉄道会社は、伊予郡を中心とする出資者によって設立されたものであるが、建設工事の進展とともに資金の不足をきたすようになり、やがて第七十九銀行頭取古畑寅造の出資を仰ぐに至った。そして、明治三一年古畑が社長に選任され、古畑はすでに就任していた道後鉄道社長と共に南予鉄道社長をも兼ねることとなった。以後、古畑の経営のもとに、明治三三年の伊予鉄道との合併に至った。

 伊予鉄道の道後・南予鉄道合併

 かくして、愛媛県には、県都松山を中心とする狭少な地域に三つの鉄道会社が設立され、営業成績を競うこととなった。しかも、伊予鉄道の外側駅と南予鉄道の藤原駅、伊予鉄道の古町駅と道後鉄道の三津口駅のごとく、これら各社は相互に駅舎・線路を隣接させていた。そのため、伊予鉄道監査役の立場にあった井上要は、三社の合同による経営基盤の強化及び利用者の便を図ることを熱心に主張し、その計画を進めた。そして、当時道後鉄道・南予鉄道社長の地位にあった古畑寅造を説き、その賛成を得た。その結果、明治三二年一一月、古畑が小林信近に代わって伊予鉄道社長に就任、井上要は専務取締役となった。ここに三社合同を推進する体制は完成し、翌三三年二月一五日、三社ともに大阪市堺卯楼において開催された株主総会において、伊予鉄道が他の二社を買収する形での合併が決議された。買収価格は、道後鉄道が六万円、南予鉄道が二四万円であった。また、伊予鉄道は創立以来数回に及ぶ増資を重ねていたが、この合併を機に資本金を六〇万円とした。
 三社の合併が決められた後、駅舎の統合、線路の連結などが行われ、伊予鉄道は同年五月一日より両社の業務を引き継ぐこととなった。このようにして松山を中心とする鉄道事業は伊予鉄道のもとに統一され、松山を中心に高浜・横河原・郡中・道後の各方面へ総延長二七マイル(四三キロメートル余)の線路が延ばされることとなった。
 合併後における営業成績も良好であった。純益は、三二年度の二万八、七五八円に対し、三三年度四万九、〇八一円、三四年度五万九、四四四円と順調な伸びを示し、配当率も八分~一割を維持し続けた。このような中で、明治三四年、社長であり半数近くの株所有者であった古畑寅造所有の第七十九銀行に取り付けが起こり、伊予鉄道にも一時大きな混乱を生じた。しかし、古畑が社長を辞任し後任社長井上要就任により、好調な営業成績に支えられて混乱は収拾され、以後も順調な経営が維持された。

 高浜開港

 第七十九銀行破綻による混乱収拾後井上要・八束喜蔵らを中心に伊予鉄道が特に力を入れたのは高浜開港の問題であった。
 藩政時代以来松山の外港たる役割を担ってきた三津浜港は、船舶が大型化した時代の近代的な港としては、その深度が不足し、また秋から冬にかけての西風の影響をまともに受けるという欠点を持っていた。先に伊予鉄道路線の高浜延長が実施された背景には、三津浜に比して天然の良港たる条件に恵まれている高浜の将来に対する期待があり、その期待が本格的に実現に移されることとなったのである。すなわち、この計画は伊予鉄道を良港高浜を通じて内海航路に接続し、更には中国・九州・阪神方面への連絡を便利にすることにより、同社の一層の発展を目指すものであった。
 明治三六年、伊予鉄道は山陽鉄道及び国鉄と連帯運輸契約を結び、大阪商船運航の高浜~宇品航路を介して中国地方との連絡を成すとともに、八束喜蔵らを中心に設立された高浜起業株式会社は、高浜に最初の桟橋を架設した。また、当時の高浜駅は海岸から離れて立地していたため、線路を延長してこれを現在地に移し、海面五、七〇〇余坪を埋め立てて港湾施設用地を確保した。さらに桟橋の増設、倉庫・待合室の建設などの後、明治三九年九月一一日高浜開港式が挙行された。これにより、従来三津浜に寄港していた大阪商船の汽船はすべて高浜に寄港することとなり、各種貨物も高浜に陸揚げされるものが多くなり、鉄道により松山その他へ運搬されるようになった。また、日露戦争に際して多数のロシア兵俘虜が松山に収容されていたが、彼らの上陸地点も建設途中の高浜港であった。
 この高浜開港は、県都松山の外港としての三津浜の繁栄に多大の影響を及ぼすものであり、このことが、後述の松山電気軌道株式会社設立の問題につながっていくこととなる。

 松山電気軌道の設立と伊予鉄道道後線の電化

 伊予鉄道の高浜延長、それに続く高浜の開港により、県都松山の玄関口としての三津浜の将来に不安を抱いた町有志は、藤野政高ら県政界の政友会と結んで伊予鉄道との並行線を敷設し、これに対抗しようとした。これが道後・三津浜間の松山電気軌道設立の発端である。
 まず、明治三九年三月、清家久米一郎外二六名の連名で、三津浜を起点とし松山市内経由道後に至る電気軌道の敷設が出願され、同年九月特許状が下付された。それを受けて、清家らは四〇年三月三一日資本金三一万円をもって松山電気鉄道を設立、社名は九月に松山電気軌道と改められた。社長には夏井保四郎、取締役には清家久米一郎外数名が就任した。こうして同社は四一年八月より軌道工事に、同一二月より電気工事に着手したが、おりから日露戦争後における経済不況の中で、資金調達が予定通り進まず、また、役員間の意見対立などもあって、工事は容易に進展をみなかった。そのような中で明治四二年一二月社長に就任した渡邊修は、福沢桃介の出資を得ることに成功し、ようやく順調な工事進ちょくをみることができるようになった。そして、同四四年九月一日より道後~札ノ辻間及び本町~住吉間の営業を開始し、残る区間についても翌四五年一月までに工事を完了した。
 この松山電気軌道は、三津浜町江ノ口を起点とし、伊予鉄道高浜線に並行して松山市内に入り、一番町より更に伊予鉄道線に並行して道後に至る六マイル(十キロメートル)の区間で、軌間四フィート八インチであった。先述の如く、最初から伊予鉄道線への並行線として計画、敷設されたものであり、松山電気軌道開業直後から、同社と伊予鉄道との間には、運賃割引その他の形で激しい競争が開始され、この競争は大正九年に至って両社の合併が実現するまで続けられた。
 この松山電気軌道開業に先立って、伊予鉄道では道後線の軌間拡張と電化を実現し、利用者の便が図られることになった。これより先、伊予水力電気社長才賀藤吉は伊予鉄道に対して道後~一番町間の電化を勧め、後には同区間を伊予鉄道より譲り受けて自ら電化を進める動きを示した。しかし、この才賀の計画は政府の認可が得られなかったこともあって実現に至らなかった。伊予鉄道では、明治三九年七月の株主総会において、社線中の交通頻繁区間を漸次電化してゆくとの方針を定めていたが、同四一年一月、道後線(古町~道後~一番町)の電化及び線路改築を申請し、四三年一〇月より着工、四四年八月八日、松山電気軌道の営業開始に先立って開業に至った。これによって、同区間は軌間三フィート六インチ(一、〇六七ミリメートル)の電車線として、一番町~道後間は約一〇分ごと、道後~古町間は約二〇分ごとに運転されることとなり、貨物の取り扱いは廃止された。
 以後、大正期に至って伊予鉄道は松山電気軌道を合併、経営基盤を強化するとともに、合併に伴う線路の整理・統合などを通して輸送力の増強を進めていった。

表2-106 初期の民営鉄道

表2-106 初期の民営鉄道


図2-24 松山電気軌道路線図

図2-24 松山電気軌道路線図


図2-25 伊予鉄道路線図

図2-25 伊予鉄道路線図