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愛媛県史 近代 下(昭和63年2月29日発行)

二 シベリア出兵と歩兵第22連隊

 ウラジオ上陸

 大正六年一一月、第一次世界大戦のさなか、ロシアの第二次革命が成功してレーニンなどのボルシェビキ(日本ではこれを過激派と称した)が政権を握り、その政府がドイツ・オーストリア連合軍と単独講和を結んだ。そのため英・仏・伊連合軍の東部戦線は崩壊し、極東における治安も次第に悪化した。またオーストリア軍に属して東部戦線にあったチェコスロバキア軍は、独立の念願から意識的に露軍に投降し、逆にドイツ・オーストリア軍と対戦していたが、先の講和によってその立場を失い、その数万の兵は大迂回してウラジオ(ウラジオストック)から海路西部戦線に転進しようとしていた。
 日本は居留民保護のため、大正七年一月から一部艦艇をウラジオに派遣し警戒に当たっていたが、同年七月、英・仏次いで米国から共同出兵の申し出があり、八月になって出兵を決定し一部兵力を同地に派遣した。
 翌八年六月、第5師団にもウラジオ派遣が下令された。歩兵第22連隊は同月二五日編成に着手し、七月二日高浜を出帆、五日ウラジオ到着、七日に上陸した。22連隊はウラジオ警備の任務が与えられ、露軍の兵舎に宿営したが、営内には前年に上陸しバイカル湖まで進出した第3師団の一部や、露軍・セルビア軍などが雑居していた。兵舎には無数のハエが群がり、夜間は天井が真っ黒くなり仰向けに寝られない有り様で将兵を苦しめた。七月二五日、連隊長梅津喜一が少将に進級し、後任に大佐井上弟五郎が任命された。
 八月一八日、第9中隊と機関銃一小隊がスーチャン(ウラジオ東方一二〇キロメートル)の守備隊として分遣された。ウラジオの将兵は警備のかたわら近郊に遊び、萩・桔梗の花を鑑賞し野ブドウを摘んで異境の秋を楽しむ余裕があった。一〇月には第2中隊の一部がウラジオ派遣軍司令官大井大将の巡視護衛隊を命じられ、ハルビン・満州里・チタを経てバイカル湖畔のイルクーツクに随行し、大任を果たして帰還した。

 ペスチャンカに前進

 一一月一六日、チェコ軍の輸送を援護し過激派軍抑制のため西進を命じられた連隊は、第2大隊を沿海州警備に、第9中隊をスーチャン警備に残留させ、主力をもってペスチャンカに向け前進を開始した。連隊本部と第3大隊が鉄路出発した翌日、続いて第1大隊が出発する直前、ウラジオ停車場において露軍同士の内部の武力衝突が発生した。鉄道輸送権を争奪するこの戦闘は、停車場をめぐって激しい射ち合いとなったが、同大隊は警備を厳重にしてこれを傍観した。敗れた側の露軍指揮官はその場で銃殺刑に処せられ、停車場は混乱に陥ったので、第1大隊の出発は大幅に遅れ、二五日になってようやくウラジオを発車し連隊主力に追及した。
 ペスチャンカはチタ東方三キロメートルの露軍軍事基地で、その兵舎にはこのころドイツ・オーストリア軍の俘虜が収容されていた。しかし露軍にこれを給養する能力がなくなったため、これら俘虜はそれぞれの特技を活かした自活を行い、帰国の旅費を蓄えていた。
 連隊はチタに在る第5師団長の隷下に入ったが、このころ気温は零下四〇度を超え、暖国育ちの将兵は凍傷の恐ろしさを体験するとともに防寒具の使用習熟に懸命の努力をした。

 ヒローク河谷の討伐

 一二月二七日、第3大隊(長・少佐野中保教)に対して、ペトロスキーザオードに至り西地区守備隊司令官(第9旅団長・緒方少将)の指揮下に入れとの命令が下達された。即日鉄路出発し二九日ペトロスキーザオードに到着した大隊長は、守備隊司令官からハラウズスカヤ・ムホルシビールを経てヒローク河谷に南進し、付近の過激派軍を討伐すべき命令を受領した。当時ハラウズスカヤ付近には過激派軍約一、七〇〇が集結し、更にその兵力を増強するとともに、ペトロスキーザオードを襲撃し日本軍をせん滅して鉄道輸送をも遮断する気配にあった。
 野中支隊(第3大隊の中第9中隊欠、機関銃一小隊・狙撃砲二属、後に第1・第2中隊増援)が編成され、直ちに馬橇を徴発し一〇日を超える独立行動作戦のための弾薬・食糧が積み込まれた。年明けて大正九年、正月を祝う暇もなく支隊は作戦行動を開始し、二日昼ころペトロスキーザオードを出発した。馬橇の徴発が意のごとく進まなかったため、弾薬資材及び食糧の運搬にこれを充て、戦闘部隊は徒歩行軍となったが、酷寒のため次々と凍傷患者が発生した。敵中に孤立した作戦は患者の後送が許されず、戦友同志で互いにいたわりあいながらの前進となった。寒さのため携帯したパンも凍てつき、これをナイフで削って口に運ぶとナイフが唇に付着するので、わずかに乾麵麭で飢えをしのぐ行軍となった。ハラウズスカヤには強力な過軍(過激派軍)が集結していたが、支隊は果敢にこれを攻撃したので、初めは頑強に抵抗した過軍も次第に退却しはじめ、三日夕には同地を占領した。訓練の精度と攻撃精神の差が如実に表れた戦闘であった。凍傷患者の手当てをして再び前進を開始した支隊は、所在の過軍を撃退しながら六日にはニコリスカヤを、七日にはハラシビールを経て要衝ムホルシビールを無血占領した。この地では我が軍に好意を持つ住民が白旗を掲げ、酒食を用意して支隊を迎えた。この作戦にはウェルフネウジンスクから進発したブリヤード旅団、ベリヨゾフカから進発した露軍狙撃師団が西方径路から協同作戦をとることになっていたが、交会点ムホルシビールにその姿は現れなかった。しかし後発増援の第1・第2中隊が順次追及し、支隊の士気は盛んであった。この時支隊長は、一度は四散した過軍が徐々に隊形を立て直し、我が支隊を包囲する態勢を取りはじめているという情報を得た。この過軍に対し速やかにヒローク河谷に進出し、集中するに先んじてこれを撃破する策が採られた。
 九日早朝、零下五〇度の酷寒と吹雪をついて山越え行軍が開始された。過軍の略奪を受けたブリヤード人(仏教とラマ教を信奉する蒙古族)が道案内に当たったが、察知した過軍の包囲は次第に迫って来ていた。一一日午後、ヒローク河谷に進出しノーウォザルダミンスコエを望むころ、支隊は三、〇〇〇の過軍に包囲され、退路も追尾して来た三〇〇の部隊が閉鎖していることを知った。支隊長はこの村落を拠点に数倍の過軍を迎え撃つ決心をした。村落を占拠した各中隊は凍土上に陣地を構築して凍てつく夜を警戒した。明くる一二日〇四〇〇(午前四時)、まず両軍の斥候兵の衝突によって戦火が開かれた。衆を頼む過軍はラッパを合図に一斉に襲いかかって来たが、至近距離に引きつけての我が軍の射撃は正確に命中した。支隊長は包囲を企図する過軍の動きに対しては予備隊を巧みに対応させ、その付け入る隙を許さなかった。前夜来支隊の側背警戒の任につき馬橇で行動中の大野斥候隊(天野軍曹以下七名)はひそかに我が背後に迫る二〇〇の過軍を発見した。斥候隊は本隊の危急を救うために果敢にこれに攻撃をかけたが衆寡敵せず、全員死傷する損害を被った。しかしこの積極攻撃はよく過軍の企図を阻止し、主力の戦闘に貢献した。夜明けとともに両軍の射ち合いは一段と激しさを増したが、やがて訓練の差が現れはじめ、損害が累加した過軍に動揺の気配が生じはじめた。この時浮き足立った一部の馬橇に狂奔後退するものがあり、これをきっかけにその包囲網は破れ、やがてそれは南方へ敗走する縦隊と化していた。支隊はこれに追射を浴びせたが、更に追撃する余力はなかった。
 一三日、戦死者の遺体と負傷者を橇に収容して支隊はヒローク河谷沿いに北上を開始したが、もはや追尾する過軍の影はなかった。行軍中の将兵は時々橇から下りて駆け足をして凍傷を防いだ。この夜はマレーダで、翌一四日はオルスクに宿営、一五日過軍の鉄道破壊拠点であったカタンガールを占領し、夕刻鉄道線路に出遇い、タルバカタイ停車場に帰還した。
 この討伐行は酷寒積雪吹雪の荒野四〇〇キロメートル余りを孤立支隊が踏破したものである。五〇〇の寡兵が一五〇の凍傷患者を出しながらも数次の戦闘でよく七〇〇余の過軍を倒し、三、〇〇〇の包囲を撃退したもので、連合各国軍にも鍛えぬかれた日本歩兵の精強さを印象づけた。その功績に対し、ウラジオ派遣軍司令官大将大井咸之から感状が授与され、戦史にも高く評価された。
 しかし野中支隊の活躍のころ、オムスク政府は崩壊し、露軍の中にも過激派軍に同調する部隊が出はじめ、治安は悪化の一途をたどっていた。
 野中支隊(第3大隊第9中隊欠)はその後さらに鉄道輸送により西進しウェルフネウジンスクの守備に任じ、二月に入って連隊本部もその西方ベリヨゾフカに進駐した。この地は露軍の大衛戌地で多くの軍事施設があったが、撤退する米軍がこれらの兵舎の窓や床を破壊していたので、宿営に大きな支障を生じた。原因は、兵力差(米国の派遣兵力は二個連隊)から鉄道輸送の管理権主張がいれられなかった米国側の不満によるものであった。

 チタ付近の掃討

 情勢の悪化に伴い、出兵各連合国の中にも露国に対する軍事干渉の失敗を認め、撤兵に踏み切る国が相次いだ。日本国内にもこの出兵に対する批判論議が高まり、それがいつしか前線部隊にも伝わってひそかな動揺を覆うことができなかった。二月二〇日、派遣軍は分散した兵力を統合するため西地区を撤退し、チタ付近に兵力を集結し、鉄道及び電線を確保することに決した。連隊本部以下逐次撤退を開始したが、二七日ゴルホン駅において三万五、〇〇〇にのぼる馬橇のカッペリ軍を目撃した。反過激派のカッペリ軍は遠くウラル方面で戦っていたが、情勢の変化に伴い鉄路を断念し、長駆馬橇行軍によって極東に後退して来たものであった。連隊の将兵もこれを見て、再び士気を振るい立たせ緊張した(村上順市氏手記)。
 三月上旬、連隊はペスチャンカに集結し終わった。我が軍の撤収とともに、西地区の旧駐屯地はすべて過激派軍部隊の占領する所となった。次第に勢力を増した過軍は北、西、南の三方面から相互に連繋をとりながら、チタ平地に迫ろうとしていた。
 師団はこの過激派軍に対し、機を見て攻撃をかけ各個に撃破掃討する作戦をとった。四月六日、第1大隊(長・少佐落合重己)にインゴダ河に沿い南下し、苦戦中の露軍リハチョフ支隊を併せ指揮して当面の過激派軍を掃討すべき命令が下達された。落合支隊(第1大隊の中第3中隊欠、第5中隊・機関銃四・狙撃砲二・野砲兵・工兵を配属)は鉄路次いで行軍により一二○キロメートル南下し、八日には該支隊(長・少将リハチョフ、兵力五七〇)を指揮下に入れた。九日早朝、コダーフタ南方で約三、〇〇〇の過軍と接触し、まず野砲がこれに猛射を浴びせ、次いで歩兵も火戦に参加した。数に勝る過軍も我が射撃の正確さの前に次第に戦意を失い、昼ころには多数の死傷者と兵器を遺棄したまま遠く南へ潰走した。その後転進に際して落合支隊長はリハチョフ少将の今後の健闘を祈り、同少将は支隊の救援を感謝するとともに次の戦勝を期待する旨の答辞を寄せた。
 落合支隊はモスクワ街道付近で激戦中の旅団主力に追及すべく、再び元の道を反転し強行軍を続けたが、主力の戦闘が一段落したため、一三日ペスチャンカに帰還した。
 四月一二日には連隊の主力をもってドムノクリユゥチェフスカヤ(チタ西方三〇キロメートル)に、二六日には第三大隊がウェルフネチンスコエ(チタ北方二五キロメートル)に、二七日には第1大隊がシリシチェ河右岸(チタ西北方三〇キロメートル)に前進し、他支隊と協同して包囲態勢の過軍を各個に撃破した。この間将兵は撤退の風評や望郷の念に堪え、よく戦闘任務に従事したので、五月初句には過激派軍にもはやチタをうかがうことのできぬまでの打撃を与えた。
 五月下旬、師団は再び兵を西に進め、一度過軍の手中に落ちたヒローク駅の奪回を試みた。連隊も鉄路西進を開始したが、二二日になって戦闘行為中止が伝達された。ウラジオ派遣軍が過激派軍からの提議を受け入れての休戦であった。連隊はソホンド駅(チタ西北方九〇キロメートル)の守備につき、訓練の傍ら遅いシベリアの春を楽しんだ。

 ウラジオ付近の露軍の武装解除

 ウラジオ上陸直後から軍直轄としてスーチャンの警備に任じていた第9中隊は、寡兵ながら露軍と協力して治安維持に任じていた。ウスリー・東支の両鉄道に良質の石炭を供給するこの一帯の炭鉱地帯には、早くから革命軍に同調する動きがあり、警戒を要する地域とされていた。大正八年(一九一九)一〇月には一部不穏分子の動きを先制して封じたが、一二月に入って炭鉱守備の露軍の一部が次々と過激派軍に参加しはじめた。急迫した事態にウラジオに在った第2大隊長(少佐東虎彦)は第7中隊を指揮して救援のためスーチャンに入ったが、翌九年一月、鉄道守備に任じていた米軍が突然撤退したため、派遣軍司令部との連絡も途絶えるに至った。完全に孤立した東大隊は、過激派軍指揮官に対し我が権益を保全する協議を重ね、無用の抗争を避ける努力を続けていたが、二月一八日、派遣軍司令部からの撤退命令を受け、シコトワ(ウラジオ、スーチャンの中間点)に後退した。
 シコトワは露陸軍の根拠地で多くの兵舎が立ち並ぶ軍都である。撤退した第2大隊(第5・第8中隊欠)と第9中隊はこの地に駐屯する露軍と棟を接して宿営した。しかしこれら露軍も次第に協力から反抗の動きに変わりつっあった。
 四月五日〇一三〇、軍司令部は沿海州全域の露軍の武装解除を指令した。シコトワ駐屯地では第9中隊長松野大尉が交渉委員となり、司令官イワノフ少将に無抵抗武装解除を要求した。しかし同少将が要求を拒否したので、即刻我が軍は実力を行使して露軍兵舎を急襲した。不意を衝かれた露軍二、五〇〇の大部分は死傷または捕虜となり、一部の者は潰走した。共同出兵の連合国軍が次々と撤兵する中で、情勢の変化による自衛上やむを得ぬ措置とはいえ、これまで共に戦った露軍の武装解除を強行する羽目になった。沿海州の治安は一応回復したが、国際世論の中で我が国の孤立化は一段と深まっていった。

 帰還

 大正九年七月第5師団はチタ付近から撤退し、後続師団と任務を交替することになった。六月八日以来、連隊主力はベクレミシュウオ(チタ西方五五キロメートル)の守備につき、第1大隊は七月初旬からチェルノフスキー炭鉱(チタ南西二〇キロメートル)の警備に任じていたが、警戒を厳重にしながら逐次ペスチャンカに集結した。
 連隊の輸送は八月一六日から開始された。上級司令部と革命政権軍との間には協定が結ばれていたが、過激派不正規軍には指令が徹底せぬものもあり、摩擦の生じる恐れが残されていた。将兵は帰国の歓びの中にも警戒を怠らず、列車にて東進を開始した。満州里・ハイラル・チチハル・ハルビンを経て二五日にウラジオに到着、帰還の手続きを終え、八月三一日から九月四日の間ウラジオを出港、同月五日から八日にかけて高浜港に帰還した。
 連隊と相前後してチェコ軍もウラジオにて乗船、遠く西部戦線への大迂回転進の途についた。
 九月二五日には第11師団に動員が下令され、替わってウラジオに派遣された。東予三郡と越智郡の壮丁の入隊(大正四年の改定)した歩兵第43連隊は南部ウスリー・スパスカヤ方面に駐留して警備に任じた。この間翌一〇年(一九二一)四月にはアレキサンロフカ付近において装甲列車を伴った過軍と激戦を交える戦闘が行われている。その後も第11師団は大正一一年五月までシベリアに駐留した。
 チェコ軍引き揚げ後のこの出兵は、我が国政戦略の不統一によるもので、軍の不信を民心に宿し、更には内外の疑惑を増大させる結果ともなった。

図3-14 シベリア出兵行動範囲図

図3-14 シベリア出兵行動範囲図


図3-15野中支隊作戦行動地域図(村上順市氏手記より)

図3-15野中支隊作戦行動地域図(村上順市氏手記より)