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伊予市誌

1 明治以降の交通

 藩政以前の交通の概況
 伊予市のほぼ中央部から、旧南伊予村さらに原町方面の丘陵地帯にかけて、弥生式時代から古墳時代にかけての遺物、遺跡が多く見受けられる。古代人の生活の舞台であった所である。それらの人々の間に行き来が始まり、交易が行われ、踏み分け道のような自然道から人為的な道路もつくられるようになったと推定される。
 やがて、むらができ、国が成り立ち交通事情が複雑となり、徐々に道路も整備されて交通が発達してきた。大和に朝廷が置かれていた五世紀ころには、既に伊予と中央との交渉が行われていたが、その後聖徳太子や舒明天皇・斉明天皇らの道後温泉への来浴が見られた。このことは、道後及びその周辺の地域が畿内と筑紫を結ぶ瀬戸内航路の拠点として重要な意味を持っていたものと考えられよう。
 やがて、六四五年の大化の改新によって政治上の改革が行われ、律令制により伊予の行政区画も国・郡・里に改められ、それぞれ国司・郡司・里長が置かれた。伊予郡内でも、国造は伊予郡司となり、その地位はそのまま引き継がれた。伊予郡司のいた場所は明確ではないが、言い伝えによる今岡の御所が現在の宮下の地と推定されることや、式内社である伊曽能神社も同所であるとすれば伊余(予)国造や郡司の居所は、ほぼ旧南・北伊予村の地域と考えられよう。したがって、ここを中心として道路が各地に通じていたものと考えられ、特に大化の改新後はこれらの道路が整備されていったものと推測される。
 国府の設置に伴い、伊予の国にも太政官道が敷設された。そして駅が置かれ、駅馬が備えられた。この駅路は、兵士や糧食輸送の便を与え、地方で産する貢納物の輸送、また役人の公用旅行にも利用された。しかし、当時の駅制は九世紀以降次第に衰廃し、今日駅路の跡をたどることはできないが、伊予郡内でも間接的にせよ、その影響によって交通上の諸条件が整えられていったものと考えられる。また、伊予市内には条里制の遺構があり、そのため道路がかなり発達していたであろうし、諸税を国や郡の倉に納めるための通路も早くから開かれていたものと思われる。
 平安から鎌倉時代にかけて伊予郡内にも各所に荘園があり、伊予市内の山崎荘・吾河荘もその一つであるが、これらの社寺領の荘園が存在していたことも、中央との往き来がしばしば行われていたものと推定される。室町時代においても、伊予市一帯は、地味の肥沃な松山平野より犬寄峠を越えて大洲盆地に通じる要衝に位置していた。したがって、この一帯は農民のみならず武士の住居にも適し、更に多くの城郭も築かれた。そして、この城郭を中心として道路も整備され戦略上の要路ともなった。また、市場や米湊は物資の集散地として、地方産物の交易の要地として栄え、人々の往来も少なくなかった。

 藩政時代の交通・運輸
 江戸時代、一六三五(寛永一二)年以降、現伊予市の替地一帯は大洲藩に属し、最も主要な道路は大洲街道であった。大洲街道は大洲-松山札の辻を結ぶ街道であって大洲から行けば、肱川の渡しから、新谷-内子-千部坂-中山-犬寄峠を越え、大平-郡中-松前を経て重信川の出合に至り、船で川を渡って保免-和泉-小栗-土橋-萱町を通って松山藩の街道の起点である西堀端札の辻に達していた。そして、郡内の中山・郡中・筒井などの宿場には駅が設けられていた。
 途中に犬寄の難所があって当時は松並木がうっそうと茂り、郡中から松前にかけての牛飼が原(新川付近)の松並木とともに、夜間の通行は危険な所とされていた。三〇〇本近くあったこの牛飼が原の松並木は、戦時中ほとんど伐採され、現在はわずか数本を残すだけで当時の街道の面影は全く失われた。なお、犬寄の旧道も現在の国道とは大分通路を異にし、当時の街道は地元の人々にわずかに利用されているに過ぎない。
 また、金比羅道も通じており、市場-布部を経て南伊予へと通っている道路及び旧郡中町の中程から東に向かい、旧郡中村から旧南伊予村を貫通して旧原町村に至る道路を金比羅道といい、五〇町を一里として里ごとに松の樹を植えていたのでこれを人々は一里木と呼んでいた。ほかに四国八十八か所参り、石鎚参り、和霊参り、出石参り、近くは谷上参り、稲荷参りなどの社寺参拝の道路も幕末には整備されて、多くの人々が利用していた。そして、これらの道路に沿って各所に第174図のように金比羅道や谷上山道を示す道標や常夜燈が設けられて、旅人に便宜を与えていた。
 また、公儀の御巡見道と呼ばれていた道路があり、これについて、記録には「下吾川新川より直線に湊町、灘町の海岸に沿って米湊に通じ、左右に大なる並松ありたるものにして、灘町の如きはその並松の外西側に馬場あり、尚、暇小屋を設けて操り芝居の興行もなせしという、」と述べられている。
 なお、当時の村内の主要道路を推定できるものとして、藩主が領内を視察した際の行程をたどって見るとよくわかる。例えば一八六〇(安政七)年の『殿様御巡領諸日記』によると、三秋村大池(小休)―中村庄屋宅(御昼)―大平村地蔵(小休)―上唐川村庄屋宅(御泊)とその巡路を記している。しかし、このような道路も交通上の諸制限があって、人々の往来は容易ではなかった。特に旅ともなると、往来手形を持参してそれを各番所で示さねばならなかった。郡中の灘町にも番所(町番所・浜番所)があり、牛飼が原にある松山領との境界にも番所(関所)が設置されていたものと推定され、隣藩との出入りを監視し厳重に取り締まっていた。
 当時の人々の往来はほとんど徒歩であったが、乗物としては、駕・馬などがあって利用されていた。また、通信には飛脚の制度があって、これには公用のものと私用のものとがあった。また、いつも人馬を備えていた駅伝制度もあって、前述のように郡中にも駅が設けられていた。これについて、一八〇八(文化五)年に灘町・湊町・三島町の人々に対して出された「往来定書」には次のように記されている。

  一、郷町分離後三町共免租地となり、定書の往来とあるは、本町通は伝馬人足に本町通表あり、二五間以外に住居のものは花役と唱え、大洲士卒勤番交代、其他旅行にて人足を要する場合、其人夫に出役し、浜方は水士として藩の用船に出役するものにて、其伝馬人員の定左の如し。
        定
  一、伝馬並人足の儀、前々のごとく手形の員数次第早速可出之、手形無之輩には一切不可出之事
  一、此札所より中山町迄三里半三丁駄賃壹疋に付、百三十一文、壹駄荷十七貫目迄から取あぶみつき共に荷物弐貫目迄駄賃右同断、人足一人荷物六貫迄賃銭六十四文に相極の所、荷物定めの分量を過は、人馬共右賃銀の割付を以て、増資可請取之、並に駕かきの賃銀一人に付、六拾四文宛可取之事
   付、駕かきの儀、自今以後壱挺四人肩に相定む、但女並子供の駕は壱挺三人肩たるべし、是また賃銭壱人に付、六拾四文宛可取之事
  一、同所より上灘町迄、弐里十七丁駄賃銭七拾四文、人足一人銭三十八文荷物の貫目増賃人馬共に右同断、並に駕かきの賃銭も人足同前たるべし、但し、三人肩も壱人に付、三十八文宛可取之事
        (中略)
  一、伝馬並駄賃其外人足等の儀に付、申分於有之は其所の代官之可相断の事
    右の条々堅相守之、たとひ風雨中たりと雖も人馬無滞急度可出之所、於令違背者可為曲事者也
      文化五戊辰年十月
                       加藤三郎兵衛
                       加藤伝左衛門
                       垣見弥次兵衛
                       松本半平
                       西谷市郎右衛門

 江戸中期、一七二二(享保七)年正月、江戸で発行された『大日本道中行程細見大全』という書物には、陸路のうち、伊予郡近辺の地名に、松前-小川-出淵-大洲があり、海路には筒井-小川-大久保-長浜の地名が載せられており、この小川とは現在の湊町の旧地名で、当時は瀬戸内の泊りの一つになっていたようである。また、灘町の海岸は米湊の地名が示すように、古くから米の積み出しが行われており、藩政時代の絵図を見ても海岸に米俵を積み重ね、艀で沖の大型帆船に積み込んでいたことがうかがわれて船舶の往来は少なくなかった。
 一八一二(文化九)年、大洲藩の許可を得て、大洲藩手代(属吏)岡文四郎らの手によって、安広川河口に築港が始まり、後に豊川市兵衛らの協力によって、一八三五(天保六)年に港がほぼでき上がった。
 万安港と呼ばれたこの港は、領内は言うまでもなく、忽那島・今治・西条・三津浜・高浜・宇和島、更に讃州・播州・石見・備前・備中・備後・安芸・周防・長門・豊前・豊後の諸地方からの入船があり、天保五~六年ころには一年間に一、二〇〇余隻の多きを示していた。また、登せ米として大阪の大洲藩蔵屋敷へも米穀を移送しており、長浜港とともに領内屈指の港として栄えていた。
 幕末から明治にかけては、前述の讃岐の金比羅参り、宮島参り、お伊勢参り、宇和島の和霊参り、寺参りなどの社寺講が多く組織され、万安港もよく利用された。